弧理論の考え方において、想念は物理現象の一端を担っているのではないかと考えてきました。 E軸は3次元物理空間であるM軸に直交しており、(x,y,z,E)の4次元ですから
図1
のように、4つの3次元空間に分けられます。 E軸上の実体がM軸に投影されることによって
図2
のように、物質が質量mと位置を持って現れます。物質である我々から見てE軸上の実体は、方向も位置も分かりませんから、「無始無終」かつ「無辺」である訳です。 これは聖書でいう「在りて在りたる者」に近いです。
もし、想念が実体からM軸へ直接投影されるものならば、
図3
のように、人体の神経繊維内にある外殻電子が移動(運動)することによって、物質が、イオン化することがあり得ます。これは神経繊維に生理的電気信号が起きることを意味します。 想念は頭に浮かぶ考えのことですから、どちらが原因か結果か分かりませんけれど、想念によって頭の中に考えが浮かぶということです。
そして、想念が実体からの投影であるならば、M軸上の我々から見て、想念はAからBへ、あるいはBからAへ伝わるものでは無いことになります。何故ならE軸上の実体は「無始無終」かつ「無辺」だからです。 以上が弧理論の考え方から得られる想念の性質です。
ところで、
動画1 「ヲシテ国学」第05講 「フトマニ」構造
において、「ミカサフミ ワカウタのアヤ」 ワ095~ について、原文は
①シカワソノ アウワハコヱノ
②ヱナナラン イヤトヨアウハ
③ネヲワケス ステニワカルル
とあります。 解説は8:30あたりから10:00にかけてです。妹君であるワカヒメさんの問いにアマテルカミさんが答える部分です。 池田氏の解説を大凡の文章にすると、次のようになります。
①ワカヒメが兄に問いました。 「(アウワ:宇宙の中心)からコヱが
②来るのですか。(源なのですか。)」 アマテルカミが応えた。「ワカヒメよ。そうではない。アウワは、
③コヱの「ネ」を分けるものではない。」 「アウワはネコヱを分けるものではない。初めから分かれていたのだ。」
アウワとは「アとウとワ」を繋げたものです。 アモトは宇宙のことで、アウワは宇宙(アモト)の構造をもう少し詳しくしたもののようです。 ネコヱは音声を分ける=48音(単音)という意味があります。 肺にためた空気を、横隔膜を収縮させて吐き出します。このとき声帯を振動させて空気の粗密波を起こします。これが音声です。 同時に我々は、何かを考えるとき、母国語で考えます。このとき空気の粗密波を出しません。この頭の中の様子をネコヱと呼んでいるようなのです。
問答に戻りますと、「コヱの「ネ」は、アウワから来るのですか」との問いに、アマテルカミさんは、「そうではありません。アウワはネコヱのネを分けるものではなくて、アウワ(宇宙の構造)が出来たときには既に分かれていたのですよ。」と応えています。
弧理論の考え方により、仮に想念が物理現象の一端を担っているならば、E軸上の実体がM軸上に投影されることによって物質としての宇宙(アウワ)が出来る前から、想念はE軸上の実体として存在したのですから、アマテルカミさんの答えと合致します。
ここで思い出すのが新約聖書、ヨハネによる福音書 第1章の出だしです。
- 初めにに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
- この言は初めに神と共にあった。
この場合の神は、何を示すのか分かりませんけれど、少なくとも聖書の記述とアマテルカミさんのお考え、並びに弧理論の考え方の三者に大きな相違はないようです。 1.の言(ことば)が縄文の人たちにとってのネコヱと同じに思えます。
G・アダムスキーによる「想念は伝わる」という意味がようやく分かってきました。生物は勿論のこと、無生物どころか、無機物さえも想念を持つというのも、意識的には受け入れ難いながら、原理としてはありそうに思えます。 また、精神科学(タマ)・社会科学(カガミ)・物質科学(ツルギ)に境目がないことも頷けます。 洋の東西を問わず、時代を超えて全部一緒のことを示しているというのは、素晴らしいです。 「誰だ、世界をこんなに曲げてしまったのは!」という気持ちです。
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