前回の続きです。 想念のチャンネルの説明において、シヰの特性曲線がお金の特性に似ている例として、ジンバブエドルのハイパーインフレをあげました、
(1) ジンバブエドルの解説の一般的な例として
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動画1 ジンバブエ驚愕の100兆円ジンバブエドル インフレで無茶苦茶 池上彰
並びに
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動画2 経済崩壊・ジンバブエドルを壮絶なインフレに追い込んだ欧米諸国の経済制裁!
があります。動画1は池上彰氏、動画2は武田邦彦氏による解説です。 動画1は、ジンバブエ大統領による経済無知無謀による自己責任的崩壊と説明しています。 動画2では、大統領の経済無知によるのは事実だけど、欧米のやり口は酷く、農業を破壊した上で、経済制裁を加えて、かつ崩壊後に「揶揄」していると「ジンバブエが酷い」理由が自国の責任だけではないと強調しています。
この場合、お二方の解説により受ける
図1
I 想念は、人それぞれですけれど、池上、武田両氏自身がどのような想念を持っていたかによって解説の内容も決まってくると思われます。 また、動画を見られた視聴者がどのような想念を持つかもご自身の経験などによって決まってくると思います。
その判断の基準は、「どちらの主張が本当なのだろうか。真実に近いのはどっちか?」だと思います。全ての基準は、「善悪あるいは本当はどれが正しいか?それとも正義はどちらにあるか?」ではないでしょうか?
話は変わって、
(2)作家の太田龍氏による動画
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動画3 太田龍_二・二六事件の真相、全面開示
をご覧ください。 長時間ですので、太田龍氏の解説をほぼ全文書き下した太田龍&デビッド・バーガミニ(David Bergamini)の「天皇の陰謀」考をお読みいただいた方が速いと思います。
私たちの知らない(学校の歴史で習っていない)事を丁寧に掘り起こして解説しています。興味深い話です。 一方で、なわ・ふみと氏による2012年の黙示録のなわのつぶや記において、なわ氏は、「陰謀論」こそ世界支配層の作戦では?と題して、太田龍氏や太田龍氏が支持しているデービッド・アイクのことも含めて「陰謀論者が無事に活動できるのは世界支配層にコントロールされているからではないか」と述べています。
99の真実に1の猛毒を混ぜるのは、常套手段のようです。管理人も太田龍氏の動画3による主張には、なるほどと思います。同時にデービッド・アイクが
図2
レプティリアンなるものを出してくる意味が分かりません。単純に考えて、恐怖を煽るお話しは、無視するのがよいと思います。
なわ・ふみと氏は、太田龍やデービッド・アイクの話に真実が含まれているだろうけれど、彼らが平穏無事に活動できるのも「どこかに居るであろう支配層が認めているからだ」と、一歩退いた形で書いています。
同じ陰謀論者でジャーナリストのベンジャミン・フルフォード氏は、動画だったか(ソース失念)で、「自分は、体制側に不都合な事を暴露するけれど、ソースをHDDやDVDなどにして分散の上保管している。もし私が不審死したら、ソースが出てくるように手配している。」と牽制していました。ところが彼は、欧米、ことにアメリカに巣くっているとされるナチス残党に反感を持っているのか、中国寄りの連中に与するような動きをしていると、一部から批判されています。
さて、(1)や(2)において何か言いたいかといいますと、人は「何かの話題」について、「善悪や好み、あるいは信条、正義の有無など」で、「A陣営かB陣営かを支持する、あるいは批判する」ということです。
図1における I 想念の幅は、(1)や(2)の例で見るように人によって様々です。 重要なのは、「真実がどこにあるか、善悪の判断を含めて、すべてがI 想念の幅の内に在る」ということです。 思想・信条・宗教・政治経済の体制も含めて全部です。 99の真実に1の猛毒を混ぜることは、これまでにわかりきったことです。
これすべて、二項対立の構図に過ぎません。(エリートキツネと闘牛士を参照ください。)大事なのは、
I 想念の幅という仕組みが存在するということです。
そして、上記の I 想念の幅とC想念のチャンネルの間には、相関がありません。 しかし、同時に
あらゆる I 想念に基づく行動は、C想念のチャンネルに応じた結果を生みます。
いかなる I 想念の幅の内にあろうとも、対応するC想念のチャンネルは、人の心のタマ+シヰの配分によって決まるからです。(図1の下段グラフ) シヰが勝った個人的・支配的欲求から出た行動は、(1)(2)のどのような賛成反対の立場であったとしても、結果的にはエゴになります。 C想念のチャンネルは、他人にも自身にも分かりません。管理人にも自身のことは分かりません。
欲しい欲しいの「シヰ」に基づく考え方は不健康です。
何故なら、全ての話の背後にあるのは、(お金というG偶像)だからです。 なわ・ふみと氏の自問する世界支配層が、何をしてもどうしても世界の全員に持っていて貰いたいのが「お金に対する執着」だからです。 お金への執着は、最終的には全員を巻き込んだ自滅以外にあり得ません。
G偶像としてのお金は、C想念のチャンネルを「う→え」へと引き込む作用を持っています。 「い」のチャンネルを持つ人は「う」へ、「う」の人は「え」へ、「え」の人は「お」へと落ち込んでいきます。シヰは、より強い刺激を求めるからです。 シヰ=五感、つまり(眼・耳・鼻・舌・手指皮膚etc)に直接うったえる刺激がメディアそのものなのです。
ご存知のように世界は、混乱の極みです。毎日、犯罪やテロが報道されています。どうもスイスに居るらしい支配層は、毎日毎日騒乱を起こして人々を思考停止に置いておきたいハズです。バカボンのパパ「賛成の反対なのだ~」では済まない。
(1)や(2)の本当の狙いは、人々が混乱し思考停止に陥って何も考えられず、諦めてしまうことです。そして、人々が「もうお金の世界はいらない」との考えに行き着かないことです。 そのために世界支配層には、どうしてもユダヤ差別が必要なのです。
管理人自身、図1に示す「想念の仕組みが在る」ということを知り、わきまえることによって、いずれの事柄からも距離を置いて考えることができればと思います。まあ、どうしても気持ちを入れ込んでしまいますが。
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この記事の主旨とは違いますが、数学に関して質問させていただきます。
本来、数学とは実用性と必要性から生まれた学問であったと思います。
天体観測、土地の測量、建築、数の計算など、実生活に根ざした、情報工業とでも呼ぶべきでしょうか、そこには、ユークリッドが数学を体系化して以来、抽象的ではありましたが、リアルな手触りの感じられる知識の体系であったはずでした。
それが、いつ頃か厳密に特定することはできませんが、やはり自然科学が道を踏み外した19世紀辺りから、時を同じくして、数学も何やら極端な抽象化の道を辿るようになったような感じが否めません。岡潔は、それを数学の冬の時代と評してひどく嫌ったそうですね。情緒こそが数学の根拠だと。私の場合、あたかも無用性こそが高尚であるかのような風潮にうまく言い表せない違和感を覚えます。一言で言えば、胡散臭いです。
他の学問に関しても共通に指摘できることですが、今や数学は高度に専門化、細分化され、情報量は爆発的な増加の一途を辿っています。このような学問的状況は、物理的に崩壊せざるをえないのではないでしょうか。なぜなら、人間の人生時間は有限である一方で、物理的束縛から比較的自由である情報は人間の許容範囲を超えた成長を遂げて、やがてその重みで人間自身を押しつぶしてしまう可能性があるからです。それは、金融経済が実体経済を潰したリーマンショックとよく似ています。
科学が本来非常に単純明解であると、あなたが明らかにしつつあるように、数学も枝葉末節をバッサリ切り落とし、コアの部分だけを取り出すことは望めるのでしょうか。
拙い質問で申し訳ありませんが、あなたの数学観、学問観をお聞かせください。
数学がからっきしなのでお応えする資格があるのかどうか迷いながら、当方の考えを記します。
先日の記事「なぜ1年は12ヶ月なのか? フトマニ図とホツマツタエから分かること」に記しましたように、農耕や測地測量など生活改善への要求から、方位→季節→月・日→時分秒へと細分化しました。その過程で数学は発達したと思います。本当に必要だったから発達しました。
>自然科学が道を踏み外した19世紀辺り
光は電磁波であるという発見が「数学が役に立つ」という成功体験になったのは事実です。この辺りからではないかと感じます。
>極端な抽象化 >無用性こそが高尚であるかのような風潮 >胡散臭い
本当に同感です。
岡潔の言った「最後は肉体に備わった五感で分かるものである必要」に反しています。ある人は、電子の粒子と波動性について「心で描くことができない状態」と述べています。それぞれの言葉は、意味は異なりますが、抽象的に過ぎることが進歩を妨げているように感じます。 本当は簡単で、私たちが未だ知らない「五感で分かる現象が隠れている」のではないかと期待しています。灯心と菜種油を使った行灯で生活している人々から現代を想像できなかったように。でないと先がないという感じがします。この感じ(行き止まり、閉塞感)が若者をして科学に興味を持てなくしているのだと思います。実に魅力がありません。TVの科学教養番組でCGによる宇宙の描写を見せられても、緻密に計算されたものなのでしょうけれど、興味が湧かない、どこか嘘くさいのです。妄想の度合いからすると、当サイトとよい勝負だと思います。 この点を突き詰めますと、「{当方の結論=自然科学は近似である}、から極微極大の世界を自然科学はうまく捉えることが出来ない」となります。
情報過多の理由は、コンピュータや付随するインフラのせいばかりではないと思います。どうも、この世界を制御している人たちは、大多数の人に、働き蟻で居て欲しい、何も考えないで居て欲しいようです。思考停止こそ彼らの望みです。いつも引用するある科学者は、3つの科学「精神科学・社会科学・物質科学」の内、前の2つの科学が基礎として充実していないと、その社会は崩壊すると警告しています。現代は物質科学の一種である「自然科学」のみ先走っています。先日来、考察していますとおり、タマ+シヰのシヰ(五感がぶら下がっています)の現れの一つが「自然科学」です。シヰの特性は、最大の刺激です。究極の刺激は自爆です。このままだと終わると思います。自然科学は、縄文哲学でいうミクサタカラのツルギの一種です。でも自然科学には基礎となるタマとカガミがありません。どうみても崩壊すると思います。悪いことにエリートキツネと闘牛士の記事に書きましたように、何世代もこのような事を続けますと、生まれながらに「その傾向を持っている」確率が高くなります。どこかで自覚すべきだとの思いでいます。
>枝葉末節をバッサリ切り落とし、コアの部分だけを取り出すことは望める
望めると思います。大変な困難を伴うはずです。12進法がその答えです。宇宙は2πやeによるより12進法の角度で表す方が簡単で便利だと思われます。リーマン予想に出てくるゼータ関数のゼロ点の分布の数式が原子のエネルギー間隔を表す式と一致するようです。ところが学者たちは10進法の数学システムでの素数しか頭にありません。ここで問題なのは、(1)原子のエネルギーの「エネルギー」は時間を含む[ML^2T^(-2)]です。一方の(2)ゼロ点の分布は、恐らく当サイトで言う「E-M軸平面」なのではないかと考えています。エネルギーの定義の違いと角度を10進法から12進法に改めて考え直せば、12進法の数学システムが便利だと分かるはずと期待しています。
ところが、12進法に代えようとすると、途端に四則演算すらできなくなります。本当に難しいことです。こう考えると全てをやり直す覚悟が必要になろうかと思います。洋の東西を問わず、なぜ1年を12ヶ月としたのか12を一括りにした方が多くの数で割りきれるからです。(少ない素数)先日の12進数表示の分度器は、一つの試みです。
学者とは、本当のことを知りたい人だと思います。しがらみで職業=学者の人が多いように思います。
横レス失礼を。面白いですね。確かに数学は測量や買い物などの実用に必須な学問です。そこから外れて、数式展開が可能、イコール、真実であるという誤解が広まっているように思います。例えば「毎日コーヒーを飲むことは身体に良い」と「~悪い」はどちらも統計的有意にすることができて、それぞれ”科学的に判明”したと報道されます。簡単にできる、どうでもいい研究が多いんでしょう。もっと難しくて、重要な事があるはず。数学はそれ自体の作為を持たず、アイデアを実現する際に有用で、物事の見方を変えるのに最適です。30年前はここまで多変量解析が広まるとは誰も思わなかったでしょう。あらゆるものを情報として数学のフィルタを通すと、”それらしく見える”から流行る。管理人さんの言う”近似”と同じ。我々は何が価値のある情報なのか未だ見つけられていない。
そうですね。まったくです。電子の基底状態は手計算で解ける(授業での記憶)けど、それ以外はほとんど解けないと学生当時習った記憶があります。今も数値計算でしか解けないのでしょうか。 考えてみれば数値計算てシミュレーシヨンの様に思えます。シミュレーションは、パラメーターを作成者の意図に沿った値を入れれば意図した結果を得られますから、それらしく見えるのでしょうね。
当方の「近似」というのは、極微極大の状態(観測者に対して光の速さに近い状態)は人の「五感で分からない」ものですから、それを計算上「分かる」ものに置き換えることの様です。ですから、電子スピンなどのようにスピンと呼びながら、実際に回っている訳ではないという意味不明な説明になります。アランの言う「心に描けない」状態です。だから数学に頼るしかありません。
「価値のある情報」というのは、抽象的な情報ではないと思います。以前のコメントで書きましたように、人工知能に身体性が求められたように、真に「人」に必要な情報とは「具体的で身近な情報」であるような気がします。それが以前から求めてきた12進数のように思います。私たちに大事なのは、それほど抽象的なものではないという感じです。それが素数と関係しているらしいのです。複雑な数式をだらだらと書くものじゃないと思います。
よくよく考えてみれば、電子スピンも理解できていないのでした。ttp://eman-physics.net/quantum/spin.html 「地球の自転」と「電子の自転」の”自転”ってどういう意味なのでしょう。最後のEMANの感想には、納得すると同時に、それ擁護じゃないよねとツッコミたくなる。
ttp://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2194.html よく考えておられます。私が考えている螺旋状モデルとも似ている部分があります。弧理論の原子核と電子の発想とも近い部分があります。1800倍のシーソーで電子は回っているように、比べて、原子核は止まって”見える”のではないか。
具体的な身近な情報とは、自信を含めたあらゆるものの存在、だと思います。
ちょっと(笑)です。アランの言葉を思い出しました。地球人類の進化を樹木の枝の1本を登る蟻に例えて、最初は確かに上に登っていたけれど、段々枝分かれして、無数に葉が散らばっている。気付かないうちに下に移動するかも知れない。そうして科学者は、いろいろな方向に散らばってまごつく。「すると科学者は心によって受け入れられる知識の限界に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する」
恐らく岡潔の述べたことをまとめると、「物理現象=五感で分かること」のように思います。これを基本とするとEMANの説明は「心に受け入れられない」状態です。弧理論の考え方をいつも万華鏡に例えています。万華鏡に見える様をどんなに解析しても現象を説明するだけで理由は一切分かりません。しかも決して割り切れません。これに似ています。
>1800倍のシーソーで電子は回っているように、比べて、原子核は止まって”見える”のではないか。
そうです。例の紡錘図形は90度のところが一カ所もない。あれは弧理論の原子模型ですから、陽子中性子電子のいずれも一切静止していません。比率の関係で止まっている様に「見える」という「見る」のは、「五感を持つ」観測者ですからマクロとしては止まって見えるのです。でも、実際は、「ほとんど光の速さで動いているからM軸への投影角θはゼロに近い。すると電子やそのほかも質量が不定となる(すべて運動P_)となっている」ように理解しています。それを粒子であり波であるとしたところで解析の迷路に入ったというふうに思います。
それにしても、およよさんの文書量すごいですね。しかし、時間という一番の問題点について、疑問視されてないようです。検索するとページ内に6カ所しかありません。本文には2カ所だけでした。
時間-運動について「元から回っている」としても、重力-空間の歪み-質量と同じく、ただの言い換えに過ぎない。とすると「元から回っている」をON/OFFできる装置が求められる。制御方法が「元から回っている」それ自体の証明にならねばなりませんね。
組み込み技術者としての思い付きなのですが。原子の粒子性・波動性というのは、ハードとソフトを同じ土台で考えているようで、何か根本的なアプローチに問題があるように感じます。ハードウェアの構造があり、その上でソフトウェアが駆動する。ソフトウェアの条件分岐により、ハードウェアの構造や接続が変化する。と考えるのが妥当であって、物理学はこれらが混在しているのかも。身体性と精神性の関係で成立するというか。時々考えるのはF=maという式に身体性や精神性、つまり情緒?を感じないことです。
>制御方法が「元から回っている」それ自体の証明
言われてみればそうですね。例の紡錘図形に90度のところが一カ所もないのは、宇宙の基本的な力が斥力にあるからと考えました。それの元がア・ワとして表現される暗黒物質と暗黒Eだと考えています。2つからの斥力と互い(陽子中性子電子間)の引力との兼ね合いで回っているようです。マクロ、ミクロいずれの観点からも「観測者にとって」遠ざかる(静止できない)ように見える理由です。
>原子の粒子性・波動性というのは、ハードとソフトを同じ土台で考えているようで、何か根本的なアプローチに問題
アランの言葉そのものによる説明が分かりよいです。E=mc^2について、「Eと物質は、一つの実体の異なる側面」だと説明した上で、次のように述べています。「二つの次元を持つ幾何学的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面を表す。次に君はその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。・・・・一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。」
物質が質量を持って現れていたものが、90度回転すると「視界から消える」と述べています。これが粒子性と・波動性です。投影角θがゼロの時、実体が持つEのすべてが運動P_となります。このときの運動P_が「波」であるわけです。そして質量は「視界から消えて」います。ただし、彼の言葉で、エネルギーは物理でいう[ML^2T^(-2)]と真のエネルギー(E軸のこと)を混ぜて用いているので注意が必要です。
講談社「物理学の魔法の鏡」ディラック・ウィグナー他谷川安孝中村誠太郎編には、物理学者がいかに対称性に拘っていたかがよく現れています。物理現象というのは対称性を持った綺麗なものながら、五感で分かる領域から静かにフェードアウトするように思います。結局は何も掴めない。
>身体性と精神性の関係で成立する
E軸というのは、ソフトなのかも知れません。E軸にどのような物理量としての次元を当てはめられるのか皆目見当もつきません。情報を蓄えるには僅かばかりのエネルギーが必要です。E軸上の実体は究極の記憶装置であると思います。何せ真のEですから。物質というハードがなければ記憶は意味がありません。タマ+シイ=魂のタマとは、そのようなものかも知れません。アモトをE軸あるいはE軸上の実体と考えれば納得できます。そしてアモトの構造を示すアウワの「アとワ」が宇宙の大規模構造です。タマはアモトより来たりてシヰと結びつきタマシヰとなる。シヰに物質が集まって肉体が出来る。そしてシヰは物質をして生命維持の欲求を持つ。物質でできた肉体に備わった五感はシヰの支配下にある。だからこそ、五感で分かることを分ける事により「分かる」には限界がある。限界を越えるためにはタマを通してアモトからの情報に頼るしかない。それが<シラス・ウシハク>の<シル・知る>だということのようです。よく出来ています。
アランは言いました。「精神科学・社会科学・物質科学の三つの間には、明確な仕切りが無い。」これが縄文哲学におけるタマ・カガミ・ツルギです。契約の箱に代表される自然科学はツルギの一種です。アランの言うように現代文明は精神科学・社会科学の基礎が弱い。このままではツルギの一種である自然科学の暴走により自壊するでしょう。これは維持の欲求であるシヰの暴走です。
>情緒?を感じない
縄文哲学に情緒を感じますか?私はここに及んで精神性と物質科学の境界が曖昧になりつつあります。G・アダムスキーの宇宙哲学と紡錘図形は基本的に同じものです。