数学者岡潔「数は量のかげ」・・・・本当は天地が逆だろう 他2題

2年あまり、数学者岡潔の講演録を元に考察を進めてきました。主に「自然科学は間違っている」の中から【2】自然科学者の時間空間【3】五感で分かるものを参考にしてきました。

それ以外はというと、簡単な言葉で語られているけれども内容が難しくて、ほとんど読んでいませんでした。 時間はかかりましたが上記の事柄についてだいたい理解できました。 自分なりにまとめたものが右リンク先の 1.時間とは何か と 2.五感で分かるもの という文章です。そして、2つの結論を弧理論の考え方に適用したものが「3.時間を含まない真のエネルギーについて」でした。

昨年、G・アダムスキーの残した宇宙哲学とヲシテ文献に記された縄文哲学の根幹が「たぶん」同じものだと気付いたのですけれど、岡潔の講演録にも「第1の心、第2の心」として似たものが出てきているようです。 他にも気付いたことがありますので、まとめていきたいと思います。

1・

岡潔は、「数は量のかげ」という色紙を残しているようです。講演録(3)「一滴の涙」【3】数学の使えない世界にある(※解説8)に出てきます。 調べてみましたら解説8に示されたリンク先の他に青空学園だよりというブログの新式算術講義に色紙を遺してる旨の記事がありました。

数は量のかげ

非常に興味を惹く言葉です。この言葉で気付いたことを以下に記します。

弧理論の考え方の基本は

物質(結果)に実体(原因)図1

のようです。  3次元物理空間(M軸)とは別の次元軸上に実体があり、この実体が持つ真のエネルギーが「積分を伴う回転投影」によりM軸上に位置を持って物体(質量を持つ物質)が現れると考えます。 その結果が物質の質量と運動に振り分けられます。    (注:「積分を伴う回転投影」は、右リンク先にある第3起電力のエネルギー源についての考察を参照ください。)

これまでの考察により、真のエネルギーを持つ実体は、「究極の記憶装置」であるらしいと気付きました。情報を記憶するには僅かばかりの(時間を含む)エネルギーが必要です。 HDDもSSDも磁気あるいは電気エネルギーが必要です。 ですからE軸上の実体が持つ真のエネルギーは、投影された物質(5%弱)と暗黒物質並びに暗黒エネルギーの過去全ての配置と組み合わせにかかる記憶を有しているだろうということです。

究極の記憶装置。 ありとあらゆる知識・情報を蓄える機構は、知の根源です。きっと「数」もそのうちのはずです。 すると、図1との相関に気付きます。

名称未設定-1図2

「数は量のかげ」と弧理論の考え方は、天地が逆であるということです。 我々自身の思考も知識・情報も図1の考え方に含まれるかも知れません。 以前ご紹介したサイトには次のような言葉があります。

知っていますか、知識には活力があり、生命力もあることを。  (原文はリンク切れです。別の原文リンク先はこちら

これまで度々引用した「ある科学者」の言葉から「真のエネルギー」という考えに至りました。この真のエネルギーがどのようなものか不明です。しかしながら、我々が「五感で分かる」「量」が「積分を経た」「結果」であると考えるならば、積分を行う前というのは

無 ゼロ 

のように感じます。 「無」といっても何もない、空っぽということではありません。(※最下段に追記)

2・

岡潔は講演録(2)「2つの心」の【1】巻頭言で次のように述べています。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「」という。これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「」という。しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。何でもすべて本当に大切な部分は無である。だから日本本来のよさというのは無である。ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。

岡潔は第1の心を「浅い心」、第2の心を「深い心」と呼んでいます。 「有(う)」であり「無(む)」です。この「無(む)」が上記、積分を行う前の「無 ゼロ」に通じると考えます。

 

無(む)とは、全ての物質の原因であり、過去全ての配置と組み合わせを記憶しかつ知識を持つ、全ての根源であるということです。そして、もしかしたら生命の根源であるかも知れません。また、想念は物理現象の一端を担っており「伝わる」。 これにより私たちは「シル:知る」ことができるということです。

 

岡潔は「第1の心は意識を通すし、言葉で云える。第2の心は決して意識を通さない。」と述べています。 岡潔は、意識を通さないでどうして「知る」に至るかを述べていないようです。 その解答が「シラス ウシハク」の「シル:知る」なのです。

講演録の巻頭言を読んで気付くのは、縄文哲学宇宙哲学に共通する「タマ+シヰ」であり「ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)」の構造に似ているということです。 改めて書きます。

  1. タマ+シヰ・・・・タマ(ココロバ ミヤビ【アワレエダ と ナサケエダ】)+シヰ(生命維持の欲求)

  2. ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)

  3. 第2の心(無私)+第1の心(有)【意識を通す】

3つは基本的に同じものを異なる表現で述べたものでしょう。 数十年、もしかしたら数千年の時を隔てて、かつ何千㎞も離れた土地において、これほどに似通った考え方が存在するということは、某かの真実を含んでいると見た方が納得できます。

3・

ついでながら、岡潔の言った「日本人は情の人である」の「情(じょう)」とは、恐らく縄文哲学の「タマ」の内のミヤビ【ナサケエダ】にあるナサケ(情け)であろうと思います。 岡潔のいう情(じょう)を縄文哲学のナサケエダだとすると、タマの分類に入ります。 これは岡潔のいう「第2の心」意識を通さない心にあたります。当然のこと言葉で云えません。

一般に人の精神活動を「知・情・意」に求めます。しかし岡潔は講演録(1)【9】幼な児の世界

ともかく、生きるということは生き生きすることです。それがどういうことであるか見たければ幼な児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。

 教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有り得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから、地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。

と述べています。 人の心の発露の順番が異なるということです。 「情 知 意」の順でなければならないとして教育を訴えています。 第2の心から第1の心へということです。タマからシヰへということです。 原因がE軸上の実体にあると考えるならば納得です。

一つのタイトルで3つ書きました。  難しいことを易しい言葉で述べる数学者岡潔は大天才です。 世に数あるブログは時とともに陳腐化します。手前味噌ながらこういう内容はいつまでも価値は変わらないと思います。 研究の方向性は正しいようです。

 

※追記20160715

【 「E軸上の実体」が「無 ゼロ」だ 】という表現は、仏教でいう「(くう)」に通じるように思います。 空(くう)が知識であり情報であり、究極の記憶装置、かつ活力の元という意味です。  情(じょう)、知、意がタマ【ココロバ、ミヤビ(ナサケ、アワレ)】そしてシヰ(生命維持の欲求)を通して発露する。 全てが空よりいずるという感じです。考えるべき事は多いです。

ミクサタカラのタマ(精神科学)とカガミ(社会科学)だけでもこれだけあります。そして、E軸上の実体からツルギ(物質科学)に相当する弧(Ark)が出てきます。因は空。空は因。 かなり核心に近いようです。すべては渾然一体不可分不二。そういえば「世の中まぜまぜ」というのもありました。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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数学者岡潔「数は量のかげ」・・・・本当は天地が逆だろう 他2題 への2件のフィードバック

  1. takutaku のコメント:

    久しぶりにレスいたします。唐突にですがEMドライブについて、どう思われますか。

    • Φ のコメント:

      ありがとうございます。お返事になりますかどうかわかりませんけれど、長いので別記事にします。

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