学生の頃から、物理が好きなのに教科書・授業がしっくりこない。いや生まれてこの方、世界の何かが変だと考えてきました。 研究に入って7年目、ここ2年ほど数学者岡潔の講演録を元に「時間とは何か」、「五感で分かること」とは何かを考えてきました。
参考にした中で次の言葉について、拘ってきました。
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。 (強調は管理人)
出典 岡潔講演録(4)「自然科学は間違っている」の【3】五感でわかるもの
顕微鏡や望遠鏡を使って実験観察をした結果について、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうかというと、そういうもの『はないと思っている。「ない」といっていんじゃない。「ない」としか思えない』と岡潔は述べています。「自らが仮定していることにすら気付かない」酷い無知だといいました。
少し回りくどいです。 管理人は、最近まで
万人が自然の中に『「五感でわかるものと、わからないもの」があると仮定した上で、いまは、「五感でわかるもの」だけを相手に探求しよう』というのを暗黙の前提にしているものだと解釈していました。
ところがどうもそうではありませんでした。岡潔講演録(2)「2つの心」【3】西洋の唯物主義には、こうあります。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。
西洋人には、五感でわからないものは無いとしか思えない人々が居るというのは、理解します。 しかし、少なくとも日本人なら誰でも「五感でわからないものもあるかも知れない」と考えるものだと勝手に考えていました。 本当のところ、一人一人異なるのだと最近になってやっと理解しました。
日本人でも「五感でわからないものは無いとしか思えない」人が居たようです。自然科学がどこか胡散臭かった理由は、このあたりにあったようだ、とようやく理解しました。 西洋人による発表の自信満々の様子は、ここから来るようです。
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