予定とは異なりますけれど、気になることを記します。
先般の記事に「岡潔の「情」と「もののあはれ(物の哀れ)」 ・・・・ミヤビ(アワレエダとナサケエダ)とは何か?」ならびに「情知意」の働きと「想念」の関係についてを書きました。
図1
岡潔の云う「情じょう」は、物や事にふれて「趣おもむき」が分かることです。この「情じょう」は、縄文哲学におけるナサケヱダに近いと思われます。このナサケヱダは、物と事における場面・場面において働くのであって、それらをつなぐ働きをするのがアワレヱダあるいは「あはれ(あはれ)」ではないか?という内容の記事でした。 簡単にいうと
目次
「情じょう」あるいはナサケヱダは、静止画を認知する働きを持ち、「あはれ(あわれ)」あるいはアワレヱダは、静止画と静止画をまとめて、動画として「情」を認知する働きを持つだろうとするものでした。
・
弧理論の考え方による基本形は、
図2
のように、E軸上の実体がM軸上に投影されることにより物体が位置と質量を伴って現れます。(注:E軸上の実体が持つ真のエネルギーが質量と運動Pという2つの面を持って現れる。) この「投影」は、鏡の反射に似て必ず「整数回」です。実数ということはあり得ません。
図3
のように、最初の投影を①とすると奇数回の投影になろうかと思われます。 ある物体が運動Pするとき
図4
のように考えます。 ある物体が運動P1からP2へ移行するとします。 知られているように極小の世界において、物性は「離散値」をとります。 図3の理屈からいって、P1とP2は、必ず離散値をとります。何故ならP1とP2は、E軸上の実体の投影だからです。 宇宙が如何に巨大であっても我々の住む世界は離散値の重ね合わせだということになります。
すると前記の通り、P1とP2を認知する働きが人の「情」(なさけ)によるものであって、P1とP2をまとめるのが「あわれ(あはれ)」の働きだということになります。
結果、人はその心の働きである(なさけ)と(あわれ)により、時(とき)つまり現在と過去に住むことができると考えられます。
過ぎ去った物と事の記憶を観念化したものが時間です。時間は、現在と未来に適用できるかどうかは別です。
本居宣長のこと、歴史上の人物として名前しか知りませんでしたが、凄い人だったのですね。リンク先の下段<まとめ>2にある「知る」について、管理人がこれまで「シラス・ウシハク」のシラスの元である「シル」は、「知る」だろうと考察してきましたけれど、恐らく同じだと感じます。図1と見比べてみて、岡潔は同じ結論を得ていたようです。知るの奥深さ、分かるの浅きこと雲泥の差です。
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