岡本天明の日月神示をつらつら眺めるに「気(キ)」という語が多いのに気付きます。ここ一年余りホツマツタエ(ホツマツタヱ)等のヲシテ文献より縄文哲学を学んできました。 縄文哲学の「タマ+シヰ」と日月神示の「気」、岡潔の「情 知 意」、これらの関係について考えます。
日月の道(ひふみ神示)さんのサイトに日月神示全文検索システムがあります。「気」で全文検索しますと相当な数の「気(キ)」が出てきます。
用例を順に挙げますと、
「気のついた」「気がつかん」「気をつけて」「気もない」「気の毒」「気を大きく」「気をつける」「気を失う」「気づかん」「気楽」「気(け)」「気持」「病気」「呑気」「気に入らん」「気張り様」「気が短い」「気長く」「気許せん」「気配れ」「豊宇気比売神(とようけひめのかみ)」「気狂い」「まぢり気(け)」「気概」「気引く」「元の気の元の国」「邪気」「悪気ない」「神の気感(きかん)」「気である」「気力」「気(け)も出されん」「霊気」「気から」「神気整へ」「同気同一線上」「気をうけ」「気晴らし」「気しづめ」「気ざはり」「気ゆるし」「気魄」「人気」「気ゆるんだら」「気緩(ゆる)し」「気ゆるめ」「気分」「平面の気のみでは」「気嫌とり」「六は気」「霊の気」「キとは気の気」「生命の気」「気入れて」「気絶ちて」「病気治し」「神の気通うたら」「悪の気」「気狂ひ」「死んだ気で」「神の気」「よい気」「気あつめて」
意味の分からない語もありますけれど、最も用例の多かったのが「気をつける」あるいは、「気付け」「気の毒」でした。
人は概ね夜に寝ます。そして、朝に目が覚めます。 ぼんやりして、やがて「毛布をはねのけて、着替えて、洗面に食事に、そして学校へ、仕事へ」と(意)識します。どうして朝に気付くのでしょう。 「着替えて、洗面する」ために目覚める(気付く)のでしょうか?(追記2) 管理人はそうではありません。
数学者岡潔は大宇宙の本体は情であると述べた上で、【9】幼な児の世界で次のように述べています。
ともかく、生きるということは生き生きすることです。それがどういうことであるか見たければ幼な児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。
教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有り得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから、地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。
生き生き生きるためには、情は濁ってはいけないと云います。幼な児は、この情を持っています。 幼な児の持つ情じょうとは、私たちが朝、目覚めたと「気付いた」ときと同じ状態なのではないかと考えます。 つまり、
人は、「気がついて」はじめて「意識」を持てるのです。
ボクシングの試合などにアンモニアなどを
写真1 出典:無帽録
気付け薬として用います。気付け薬は、「感覚器官」を通して意識をはっきりさせようとするものです。気をしっかり持たせる効果を期待するものです。
過去記事、「「情 知 意」の働きと「想念」の関係について」で挙げた
図1
を参考に考えます。
幼な児の持つ情は、朝目覚め「気付いた」状態と同じと考えるならば、岡潔の情と気は等しいとも云えます。そして、次のように云えそうです。
- 気は意識を支えている。 (日月神示より)
- 情じょうは意を支えている。 (岡潔より)
- タマは(強いる)のシヰを支えている。 (縄文哲学より)
- ソウルマインドはセンスマインドを支えている。(G・アダムスキーより)
これら4つは、同じ事を示しているのはないかと考えます。
そして、シラス・ウシハクのシラスの元となった「シル:知る」について云えば、「シル:知る」は、「感覚器官からの刺激を分けることにより分かる(理解する)」を下支えしている、とも云えそうです。
表1
人の五感で分かる範囲は限られています。(表1の赤い括弧の範囲) 「シル:知る」とは、図1の想念の経路①のことを云いました。(説明は省略します。過去記事を参照ください。) 言い換えますと、
「シル:知る」とは「気付く」ことです。
岡潔の云う「情じょう」とは、物や事の趣おもむきがわかることでした。気付くとは、図1の「情 知 意」のプロセスのことを云います。 「気」付いて=「知」り、やがて「意」識となります。 決して「分ける事」により分かる訳ではありません。感覚器官を通したものしか分ける事はできないからです。
脳しんとうで、気を失った人が「気付いた」としても「意識」がはっきりするのはその後です。
ここまでくると、G・アダムスキーによるテレパシーとは大分イメージが異なります。 「情 知 意」、「シル:知る」、「気付く」、「タマ+シヰ」は、人にして普遍的な事だと気付きます。
図1の経路②は、強いるのシヰによる暴走へ繋がります。(五感に訴える想念はとても強い。でも「想念により持った印象とする対象物が」実在するかどうかは別です。例えば悪魔や神。それだけに危険です。想念が持つチャンネルについて、「お金」という偶像が持つ想念の「幅」と「チャンネル」、考え方が「不健康」ということ & 想念のチャンネル、などを参照ください。)
弧理論の考え方において、想念は位置を持ちません。(「想念は伝わる」の言い換えです。) シヰ、つまり感覚器官に直接働く想念は、人を信仰あるいは、シャーマニズム(神頼み)へ走らせます。 この信仰の究極がグローバルエリート(国際金融資本家等)が行っている悪魔崇拝、サタニズムです。(図1の経路②により五感に訴えた想念により彼らが持った印象=悪魔・サタン)
.
動画1 (ただし、ジャーナリスト等は悪魔崇拝が何かをわかっていないでしょう。オカルトというだけでは不十分です。)
図2
それらの形代(かたしろ)が紙幣や硬貨あるいは、クレジットカード・電子マネーです。 実際はお金など存在しないのです。人は信じたいものを信じると云います。 あえて云えば日月神示において、繰り返し云われている「人々よ気付け」とは、存在しない「お金」を捨てよということです。紙幣やカードは偶像であり、これを捨てよということです。 現代は信仰の時代です。この信仰の大本は、占星術からきているようです。
随分むかし人権学習の際に、ある人が言いました。「あの人は気付きが足りない。だからダメだ。」 管理人はこの人の言葉を未だに覚えています。 気付きが足りないからダメというのは、他人に気付けということです。人が人に気付けというのは傲慢です。 気付くのは自身であって強制されるものではありません。 日月神示で人々に「気付け」と繰り返し云っているのは、自動書記した岡本天明の責任ではありません。 (かといって管理人は、日月神示のすべてを信じている訳ではありません。悪しからず。)
追記 もう一つの(キ)について
ホツマツタヱの1アヤ「キツノナト ホムシサルアヤ」について、この時代には東西(中央)南北のことを「キツ(ヲ)サネ」といいました。 キは東、ツは西、ヲが中央でサが南、そしてネが北のことをいいます。(日本列島の何処を中心としたかが問題です。アワノウミ=即ちびわこ周辺、ことにアツミ:滋賀県高島平野あたりがトコヨクニ建国の地です。) 1アヤの一部を抜き書きします。ほつまつたえ 天の巻き1 きつのなとほむしさるあやより
わかひめさとく
かなさきに きつさねのなの
ゆゑおこふ
をきなのいわく
ひのいつる かしらはひかし
たけのほる みなみるみなみ
ひのおつる にしはにしつむ
と続きます。現代語訳は池田満氏著「ホツマ縄文のたから」(株)展望社 p203より引用します。
ワカヒメさんも幼なくから聡明なところがありました。そして、天地自然の成り立ちについて勉強したいと養父カナサキさんに尋ねました。
「東ひがし西にし中央なか南みなみ北きた」のことを、別名で、キツヲサネとも呼ばれるのには、何か特別な意味が込められているのでしょうか?」
カナサキのヲキナは、適切な質問を受けたので喜んで答え教えました。
「よいことに気がつきましたね。東ひがしをキと呼んだり、西にしをツと言ったりするのには、実に深い意味合いが込められているのです。
そもそも、東ひがしや西にしなどの呼び名にも、語源が考えられています。東ひがしはヒ太陽の出いずる頭かしらの意味から、ヒカシラ、つまりヒガシと言います。南みなみは、明るくなって皆みんなの顔が良く見えることから、ミナミル、で、ミナミと呼ばれます。西にしは、ヒ太陽の日没の時、真っ赤(ニ)に大きく(シワ)なって地面に沈しずんでゆくことを”シワ”と言います。真っ赤(ニ)に大きく(シワ)なる光景から、ニシワ、ここから西にしと言うわけです。
ヲシテの時代には既に東西南北のことをヒガシ・ニシ・ミナミ・キタと呼んでいたことがわかります。更に古くは「キツ(ヲ)サネ」と呼び、ヒガシ(ヒカシラ)は元々「キ」と呼んでいたようです。これについては、喜びの種さんのサイトにヲシテ時代の地図がありますので引用します。
図3
古の人々は、キはヒ太陽の昇る方角であり、キ(ヒガシ)は「気」に通ずると考えていたのではないかと想像します。
追記2
床につくとき、意識して寝に入れません。(管理人は) 知らずに意識がなくなります。意識のオン・オフのスイッチは、別の何かが管理している。これが気だと考えます。 本文の字句の訂正、若干の追記を行いました。
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