こうやっていろいろ考えてみるに、教育とは何処かの誰かが(従順な)奴隷を作るために、本当に大事な物を取り除いた残りの教えであって、教科書や参考書は残り滓(かす)をまとめたものだと思います。
滓とは
① 液体の底にたまる沈殿物。液体をこしたあとに残る不純物。② 必要な部分を取ったあとに残るもの。くず。③ ねうちのないもの。ひどくつまらないもの。 「バーゲン-セールで-をつかまされた」 「人間の-」④ 花合わせで,一点ふだ。かすふだ。
だから、難しくて分かり難いのですし、学ぶのにも動機付けがやりにくいのです。面白くない。楽しくない。彼らは権威付けが大好きです。
それに対して、ヲシテ文献は凄い。ヲシテ=ヲシヱ=教えですから。 どうりで、日本人は人に教えたがる訳だ。
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自動車会社、電気屋、携帯屋、銀行、大学、学校は
日本や世界の急所だと思います。
ヲシテ文献や日本語に関して興味深い記事を見つけました。
もしかしたらΦさんは既読かもしれません。
http://gejirin.com/
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/English/mitinoku-eng01.htm
これらの記事と池田満氏との関係は不明です。
http://gejirin.com/mitinoku.html
弧理論の根本と日本語の根本が恐らくほぼ一致すること、
ヲシテ文献がヤマトコトバ(和語)だけではなくて、
英語などを含めた諸外国語の問題、
更には原始の言語の問題にも直接通じる代物であること
(私が読み取った大意ですが)
が上のページに書かれています。
是非読んでみたらどうでしょうか。
弧理論の中身をヤマトコトバ(和語)だけで表したバージョンも
作ってみたらいかがでしょうか。
昨年より、幾つかの図を作成しながら考察を続けてきたのはこのためです。
第一人者の池田満氏は、ヲシテの写本を元に実に忠実に複製し整理し読み込んで、読み込み抜いて私たちに解説してくれています。池田氏は日本の国語がヲシテにあるとしてヲシテ国学の復興に40年余り努力されています。
同時に、私たち日本人は漢字を受け入れて千数百年経ちました。言文一致に辿り着いてまだ百年です。私はここに来て、二千年以上前に戻ることはムリだと感じています。
縄文哲学の神髄たるトノヲシテとロノヲシテは、ミクサタカラ(タマ、カガミ、ツルギ)に結実しています。これは象徴です。これを精神科学、社会科学、物質科学と読み替えることが既に、弧理論の考え方を適用しようと意図することなのです。
ヤマトコトバを持ちつつ漢字仮名交じり文を使う私たちには、やむなく言い換えるしかないと考えます。
池田氏は反対されるかも知れませんが、そう考えます。それにしても、ヰクラムワタが五臓六腑だとバカな解釈は決して致しません。
http://hotsumatsutae.xxxxxxxx.jp/
このサイトについてどう思われますか。
私は漢語、カタカナ語、外来語を捨てろとは言ってません。
それをやったら本居宣長の失敗を繰り返すだけです。
社会環境を無視した純粋主義は絶対に成功しません。
ヲシテ文字やヲシテ文献に価値があるのは
本当に良く分かりますが、だからといって、
2000年来の日本語の漢字仮名ローマ字交じり文に
価値が無いとも言えません。
あっても無くても困るのです。
池田満氏の誤りはこれです。
まあ40年以上続けてきてしまったが故の
学者特有の職業病ですね。
私が言いたいのは、
弧理論のヤマトコトバ(和語)だけのバージョンと
弧理論の現代の漢字仮名ローマ字交じり文のバージョン(現行版)の
二つを作ってみたらどうかってことです。
特に前者は、
小学校低学年~中学年(高学年?)の教科書レベルの語彙、
小学校低学年~中学年(高学年?)が理解できる言葉で
表現すべきです。
何故なら、
中学校高校大学と進むにつれて
どんどん専門的に複雑になっていくからです。
本当の当たり前な真実は複雑な専門分野にはありません。
単純かつ素朴な言葉で説明できるのが
本当の当たり前な真実です。
回転、直線運動、接触、曲がること、落ちることなどがそうです。
「エンデの遺言」という本に気になる記述がありました。
>ヨハネ黙示録にはバビロンの記述があります。
>そこではバビロンは生物であると同時に大きな都市でもあるとされます。つまり文明です。
>バビロンは聖書には淫売行為の母と書かれています。
>神父はそれを性的な方向に解釈するのですが、
>私はまったく違うことを意味すると思っています。
>ここで淫売行為が意味することは、
>本来捧げられるべきものが売買されているということでしょう。
>性愛とは強制されたり、売買されるものではなく、お互いに捧げるものなのです。
>バビロンは売買してはいけないものが売買されていることと同義語なのです。
>ここで現代の世界を見渡せば、
>私たちはバビロンの真っ只中にいることに気づくでしょう。
>現代社会では芸術から宗教まで、
>売買の観点から見られているものはひとつもありません。
>ヨハネ黙示録にはバビロンはすぐに亡びると書かれています。
>皆が信じられない早さで滅亡すると。
「エンデの遺言」p53
これらの文章はエンデの思索の一部ですが、
これらの文章が本当のことだとすると、
お金(通貨)やお金(通貨)によって運営されている物事(文明)は
バビロン、偽キリスト、闇、淵、堕天使、ルシファー、悪魔、宵の明星であると
解釈することが出来ます。
反バビロン、キリスト、光、霊、天使、明けの明星は、
反お金(通貨)、反時間、反文字、反文明でしょう。
長らくお金について考えてきた中で、エンデのモモを知りました。wikiによればモモはエンデが「時間をお金に変換し、利子が利子を生む経済システムに疑問を持たせる」意図で書かれたとのことです。
「本当」とは何ですか?「反」とは何ですか?「偽」とは何ですか?
岡潔が時間の本質を述べた以上、それで十分です。
>「本当」とは何ですか?
「本当」は「前提とする」「信頼する」という意味です。
文章を吟味する時間が無くてミスしてしまいました。失礼します。
>「反」とは何ですか?
「反」は「経済システム」の「外部」です。
要するに「自然環境」です。
「市場の失敗」にも絡みますが、
利子が利子を生む「経済システム」が
有限の「自然環境」を破壊しているので、
「経済システム」と「自然環境」が相反していると見て、
「反」という言葉を使いました。
>「偽」とは何ですか?
「経済システム」が「人間」にとって、
「自然環境」に似せた「第二の自然環境」となっている現実から
「偽」という言葉を使いました。
>岡潔が時間の本質を述べた以上、それで十分です。
確かにそうです。正しいです。
ですが私がここでやりたいのは、
岡潔の主張や弧理論と
「エンデの遺言」の記述や「聖書」の記述とを
照らし合わせることです。
結局は同じ結論に行き着きますが。