先日の記事、「心の成り立ち」と「想念の経路」において
図1
を用いて説明しました。 大分分かり易くなってきていますけれど、まだ不十分だと感じました。
そこで、
図2 印刷用pdf
の様に、変更します。「想念経路」の部分を図の一番左に配置し、想念の特徴を弧理論の考え方により示しています。以下は図2を印刷されて見比べると便利です。
図は、上下左右に4分割します。上半分に心の「顕在的」な部分を、下半分に「潜在的」な部分を置きます。一番左には、想念の経路を示します。紙面の右4分の3ほどには、心の仕組みを各種の表現にしました。 一番右から順に、G・アダムスキー、日月神示、記紀にある「シラスウシハク」、縄文哲学にあるタマ+シヰの構造、そして、数学者岡潔の表現です。
下半分の潜在的な心の仕組みで云えば、
岡潔では 情じょう(趣がわかる) 縄文哲学では タマ 日月神示では 気(キ) G・アダムスキーでは ソウルマインド の順になります。
上半分の顕在的な心の仕組みで云えば
岡潔では 意 縄文哲学では シヰ(生命維持の欲求) 日月神示では 意識? G・アダムスキーでは センスマインド の順になります。
一番左に想念の経路について。 想念の特徴として、弧理論の考え方によれば、
- 想念は伝わる。(位置を持たない)
- 想念は、E軸上の実体とM軸上の物体(物質)との間をつなぐ。(経路①) 伝わりにくく、弱い。
- 想念は、シヰ相互の間をつなぐ。(経路②) 伝わりやすい。強い。
となります。これが図2の左下に示したものです。これは、
図3 弧理論の考え方の基本形
に同じです。 図2は、過去記事に何度か示した
図4
と深い関係があります。 図2と見比べることにより理解が容易になります。だたし図4は未だ不完全ですから、手直しをして入れ替えたいと思います。
少し説明しますと、図4の C 想念のチャンネル は経路①と経路②の特徴を重ね合わせたものです。 T タマシヰの均衡 が想念のチャンネルをグラフにしたものです。 大事なのは、経路①及び経路②のいずれのチャンネルにも「善悪の区別はない」ということです。 携帯電話のキャリアに善悪の区別がないのと同じです。 携帯の電波帯は総務省が割り当てます。電波帯により到達距離等の違いはありますが、善悪の区別がないのと同じです。
図4の I 想念 は、携帯電話で云えば「通話内容」にあたります。 携帯電話のキャリアによらず通話内容は様々です。ただ、図2の経路②による想念は、人の意識を通します。ですから、言葉で言えますし、五感を通しますから強いです。同時に経路②にかかる想念は、強いですけれど内容が本当のことか、実際のことか分かりません。 これは例えれば、携帯電話の通話内容が事実かどうか分からないことと同じだからです。
一方、経路①にかかる想念は、意識を通しません。ですから言葉で言えません。ただ情じょうがわかるだけです。その趣おもむきが何となくわかるだけです。それは潜在的であるが故に意識しません。 その経路①により受けた情がやがて意となる過程が知であり、シラスウシハクのシラスの元となった「シル:知る」です。 また、日月神示で多用された「気(キ)付く」なのです。
図2の左下図に注目してください。縄文哲学によれば、欲しい欲しいのシヰ、つまり生命維持の欲求であるシヰに地上の物質が寄り集まって生命となります。 経路②は、シヰの間をつなぐということです。これは人の意識を通すと同じ意味です。 対して、経路①は、心の本体であるタマと物質をつなぎます。 恐らくはE軸上の実体上にタマは重なるのではないかと考えられます。これは日月神示で云う気(キ)に通じるものだとも云えます。
経路②にかかる想念の経路での「通話」は、即言葉で言える、かつ意識することができますから、その内容は具体的ではっきりしています。日常的ですから大切な内容を含んでいません。これは例え神からのメッセージであっても同じです。 かたや経路①にかかる想念の経路での「通話?」は、言葉で言えませんし、すぐに意識することができません。しかもとても弱いです。ですから「何となく感じる」程度に過ぎません。これが情じょうです。 しかしながら、本当に大事な内容を含んでいます。しっかり把握するには注意深くある必要があります。
ここで、「情 知 意」の知も「シル知る」も「気付く」もすべて経路①であることが分かります。
神も悪魔も天国も地獄も善悪という概念の全部含めて、そこには「仕組みが在る」だけです。
金融資本家達が悪魔崇拝の儀式を行っているのは、すべて経路②による想念に過ぎません。実にくだらないことです。 彼らは自らの家系において欲しい欲しいのシヰを暴走させてきた結果、行き着いたことなのです。彼らは生まれながらに貪欲で心が貧しいのです。存在しない「お金」の偶像を追いかけた結果なのです。 彼らが生まれながらにお金に執着することについて、参考として「エリートキツネ」でサイト内検索してください。彼らが人類を自滅に追い込むことが理解できます。
ESPカードを使って、何が書かれているかを当てるなどどいうことはくだらないことが理解できます。G・アダムスキーが「ブードゥー教やこっくりさんをやってはいけない」ということの真の意味がここにあります。 なお、図2について、縄文哲学の部分において、わからないことがありますので、変更もあり得ます。
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世の中に存在しているものごとは、
あっても無くても困るものごとばかりですね。
そうですね。マスコミには報道しない自由があります。
マスコミの所有者は企業で、企業の所有者は株主です。金主の意向の通り報道しないのです。学者もパトロンのいいなり。経済は言わずもがな。
一方で、必要以上に持ち上げる事もあります。何が本当か、大事なことは何かを探ることが大事です。
しかし、個別のことに囚われてはいけません。民進あるいは自民などに投票しても現状が改善しないのは誰でも感じています。
「仕組み」に気付くことが、個別の善悪や賛否より何より大切です。
以下、コメントへの感想です。
2016年10月21日 10:35 PM
>人間が「文字」や「音声」に
「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけです。
そうでしょうか?私はそう思っていません。文字や音声を含む「物や事」の背景に自己の思考があります。それを想念が担っています。
我思う故に我有りです。
>「五感(タマ)」
私の図はそのように書いていません。
>「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけかもしれず、
ただの「偶像」かもしれません。
むしろ「物や事」は結果です。子どもの頃、私が見ている色と他の人が見ている色が等しいのか気にしていました。
そのような心配はせんないことだと気付きました。
2016年10月22日 12:11 AM
>書くという行為そのもの、喋るという行為そのものが
「欲望(シヰ)」であり、際限が無い方向に自他を突っ込ませます。
だけれども、シヰが無ければ生きていけません。縄文哲学において、「ロノヲシテ」は、各個人の自立を意味します。言い換えれば抑制された適切なシヰが必要だということです。ホツマ辞典を参考ください。
2016年10月23日 3:44 AM
>弧理論の考え方は、東海道新幹線の「のぞみ」とかなり似ているなと思いました。
論旨がよく分かりません。
2016年10月23日 10:36 AM
>ヲシテ文献の「あう(あふ)」と共通している
存じませんでした。私の興味はヲシテ文献に記されている縄文哲学にあります。登場人物は100名以上ですけれど、誰が何をしたかに興味はありません。
彼らが自然に対して何を感じて、何をくみ取っていたのか、何を残そうとしたのかです。
ヰクラムワタヲ ネコヱワケ 、 ミヤビ(アワレエダ ナサケエダ)が分かりません。考え続けています。
1.水槽と魚 2.携帯電話のキャリアと通話内容 は例え話です。
電話での通話には、友人家族との会話、会社の業務連絡、他人の噂や愚痴、FAX,教材や家庭教師の売り込み、振り込め詐欺、政治や宗教の話・・・等 様々です。 当たり前ながら、携帯電話のキャリアは通話内容とは無関係です。 通話内容として「※携帯電話のキャリヤ(dokomo softbank au)について」話すことはあります。
※の話と他の個別の話は分けねばなりません。
例え話を具体的に図2と図4に当てはめると、携帯電話のキャリア=「想念の経路①と②」で、通話内容=「G偶像 I想念」に相当します。
これが当サイトの主題です。
ですから、貴方が「五感(タマ)」であるという見解、あるいは個別の物や事に関する善悪等のご意見をお持ちでしたら、サーバーを立て、そこで貴方独自の論を展開されては如何でしょう。
図2や図4がわかりにくいことは承知しています。図の中で、「知」「知る」について「Aさんが結婚されるとメールで知った」の「知る」は、図の「知る」とは全く意味が違います。現代人の感覚では「気付く」に最も近いです。 現在、もっと理解を得やすいよう整理していますので、よろしくお願いします。
すみません。かなり混乱しています。凄く苦しんでいます。
間違いを承知の上で書きます。
マスコミ、企業、株主、学者、パトロンは
確かにお金持ちの言いなりです。
これはかなり恐ろしい問題で、
改善しなければならないが改善できない物事でしょう。
必要に持ち上げられる物事もあります。
民進や自民に投票しても現状が改善しないのは明らかです。
ですが、
彼らが積み上げて造り上げた物事や彼らの尽力にも
良くも悪くも存在意義があります。
「少なくとも無いよりはマシ(ベター)」ということです。
何故なら、
彼らが積み上げて造り上げた物事や彼らの尽力が
世の中の極一部(少数)を改善したという例
(具体的な例は挙げられませんが)があるのと、
積み上げて造り上げること自体に
大変な労力、お金、エネルギー、資源が必要だからです。
>>人間が「文字」や「音声」に
「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけです。
>そうでしょうか?私はそう思っていません。
文字や音声を含む「物や事」の背景に自己の思考があります。
それを想念が担っています。
我思う故に我有りです。
「我」を否定したらどうにもなりません。
「我」を否定したら議論、理論、会話が成り立たないので、
「我」を肯定する必要があるだけです。
心神喪失者、意識不明者、精神障がい者、外国人などの
「我」という言葉・概念などを理解出来ないであろう人々も居ます。
仮に「翻訳」などで「言葉」や「理解」の壁を取り払ったとしても、
「我」に対する理解が万人で一致している保証はありません。
>>「五感(タマ)」
私の図はそのように書いていません。
今思えば、完全に私のミスです。
三次元空間上で完全に静止している「五感」を
イメージしていました。
三次元空間上で完全に静止している「五感」は
http://www.kodenjiki.com/maeni.htmlの
7.正解はどこにあるのか? 「弧理論への入り口」の
図5の(2)の場合です。
ですが、その説明を完全に端折ってしまったので
誤解させてしまいました。
まあ、これを言ったら身も蓋もありませんが、
五感が静止しているかどうかを
五感そのものが判断出来るかどうかは分かりません。
地球上では、五感が静止していても
地球自体が動いているわけですから
静止しているとは言えませんし。
まあ、「弧理論」におけるものだと思ってください。
>>「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけかもしれず、
ただの「偶像」かもしれません。
むしろ「物や事」は結果です。
子どもの頃、
私が見ている色と他の人が見ている色が等しいのか
気にしていました。
そのような心配はせんないことだと気付きました。
確かに弧理論の内容からすれば、
「私が見ている色と他の人が見ている色が等しいのか」
という心配は不要でしょう。
ですが、
「弧理論」を展開すること、
「弧理論」を読者が読んで理解することにおいては、
「私が見ている色と他の人が見ている色が等しいのか」
という心配は絶対に必要です。
「物や事は結果」であることと、
「物や事は結果」であることを認識するかどうか、
認識できるかどうか、無視できるかどうかは別物です。
>>書くという行為そのもの、喋るという行為そのものが
「欲望(シヰ)」であり、際限が無い方向に自他を突っ込ませます。
>だけれども、シヰが無ければ生きていけません。縄文哲学において、「ロノヲシテ」は、各個人の自立を意味します。言い換えれば抑制された適切なシヰが必要だということです。ホツマ辞典を参考ください。
しつこいですが、
「シヰ」や「シヰ」が無ければ生きていけないことと、
「シヰ」や「シヰ」が無ければ生きていけないことを
各自が認識するかどうか、認識できるかどうか、
無視するかどうかは全くの別問題です。
机上論の上だけでは「シヰ」を否定することも出来ます。
>>弧理論の考え方は、東海道新幹線の「のぞみ」とかなり似ているなと思いました。
論旨がよく分かりません。
「想念」≒「のぞみ」だと思っただけです。
「のぞみ」が「E軸」や「M軸」に跨っていると思ったのです。
勿論、実際に存在する「新幹線」の「のぞみ」ではありません。
>>ヲシテ文献の「あう(あふ)」と共通している
これは私のインスピレーション(直観)です。
学術的な根拠は何もありません。
でもhave系の動詞に幅広い意味があることや、
人間という生き物に共通点があるであろう以上、
ある程度妥当性があると直観しています。
>私の興味はヲシテ文献に記されている縄文哲学にあります。登場人物は100名以上ですけれど、誰が何をしたかに興味はありません。彼らが自然に対して何を感じて、何をくみ取っていたのか、何を残そうとしたのかです。
ヰクラムワタヲ ネコヱワケ 、 ミヤビ(アワレエダ ナサケエダ)が分かりません。考え続けています。
自然を感じ取って自然から何かを汲み取り、何かを残す際に
五感やその+αが必要です。
ヰクラムワタヲ ネコヱワケ 、 ミヤビ(アワレエダ ナサケエダ)においても、五感やその+αが重要になることは間違いないと思います。
まあ五感に対する理解、五感とは何かなどの問題はありますが。
私の独断ですが、
これらは五感そのもの(しかも静止している五感そのもの)を
指していると思います。
五感で分かる分からないの問題ではないということです。
最後に。
前のコメントと食い違っていたらすみません。
また、Φさんや他の人々とは大同小異だと思いますから、
出来る限り、穏健に議論していきたいです。
丁寧にどうもありがとうございます。個別には書きませんが読ませていただきました。
図2や図4は、1年以上掛けて少しずつ改めてきました。繰り返しになりますが、目には見えない「人の心の仕組み」を知るために作業を行っています。
岡潔の言葉の(1ページに満たない)ほんの一部について、今も考え続けています。彼が「知る」と云わず、なぜ「知」としたかなど。他にもとても深い意味があると分かってきました。間違いなく日本語の根幹はヲシテにあると確信します。言葉は軽くないです。図の意図するところがよく伝わっていないことは承知しています。ヲシテ、岡潔などと比較しながら図を改めていきますので、今後もよろしくお願いします。
単極誘導モーターについての貴方のコメントありがとうございます。 前々より実験で感じてきたことを明確に意識しました。恐らく今までだれも考えつかなかった実験を提案しようと考えています。提案しようとする実験は、とても個人では実現できない物ながら明らかに物理学に影響があるものだと思えます。もう少し時間が必要です。
あと少しだけ。
自戒を込めたことですが、
ヲシテ文献や外国語などの
「慣れない言語体系」を理解して
読み書きする際には、
効率、体力、気力の為に
まず「綴り」、「形」から入って、
「意味」の理解は後回しにすること、
覚え込もうと努力し過ぎないこと、
視野が狭くならないこと
適度に休むことをお勧めします。
何故なら、
知能の開発が情(情緒、情操)を破壊するからです。
この場合の情(情緒、情操)は、
砂糖を舐めたら甘いとか、
お風呂に入ったら暖かいとかいう類いのものです。
それと無理にとは言いませんが、
以下のリンクを熟読することをお勧めします。
岡潔氏のことに関しても一部書かれています。
http://www.geocities.jp/kajiwara11339/
http://ikeda200012.blog48.fc2.com/blog-entry-20.html
英語のhave, ドイツ語のhaben, フランス語のavoir, スペイン語のhaber,
イタリア語のavere、ラテン語のhabere、中国語の有は
ヲシテ文献の「あう(あふ)」と共通していると思います。
もしかしたらヲシテ文献の「あう(あふ)」がhave系動詞の語源かもしれません。
haveは「~を持っている」、「~を所有している」、「~を抱え込んでいる」などと訳されます。
これらの翻訳でも、中核の意味(語幹)はなんとなく分かるものの、
ヲシテ文献の「あう(あふ)」の意味を当てる方が
意味も音も本当にしっくりくるんです。
弧理論の考え方は、
東海道新幹線の「のぞみ」とかなり似ているなと思いました。
「こだま」や「ひかり」よりも速い「のぞみ」です。
「こだま(音の速さ、音速)」や「ひかり(光の速さ、音速)」よりも
「のぞみ(人の望み、念、想念)」の方が速いのです。
勿論、
「こだま」、「ひかり」、「のぞみ」の名は、
東海道新幹線の新幹線の速さの順番
(こだま<ひかり<のぞみ)が理由で名付けられていて、
物質、質量、エネルギー、摩擦、音、光などに支配されることは間違い無いですが。
「こだま」、「ひかり」、「のぞみ」は
漢語ではなくて、和語(やまとことば、ヤマトコトバ)ですから、
宇宙哲学、岡潔、オカルト、神秘主義などよりも、
日本人にとっては直観(直感)的に分かりやすいですし、
ヲシテ文献とよく照らし合わせてみれば、
もっと深い理解が出来ると思います。
また、「こだま」、「ひかり」、「のぞみ」の意味合いを考えていくと、
アインシュタインの間違いもなんとなく分かってきます。
彼は「こだま」や「ひかり」に拘っていたんだと思います。
ですから、
「ひかり」より速い「のぞみ」を受け入れることが出来なかったのだと思います。
「こだま」や「ひかり」に支配されている「のぞみ」、
「こだま」や「ひかり」と同じ速さの「のぞみ」、
「こだま」や「ひかり」より遅い「のぞみ」、
人間の卑近な日常生活での人間の「のぞみ」、
極小な世界における「のぞみ」
これら位しか認めることが出来なかったのだと思います。
弧理論の言い方では、
三次元空間に位置と質量が存在している「のぞみ」だけに限ったということです。
恐らく「のぞみ」は未来への矢印みたいなものです。
アインシュタインは、
「こだま(音の速さ、音速)」、「ひかり(光の速さ、光速)」、「時間T」に拘る余りに、
未来への矢印と言える「のぞみ」を削って限ってしまった。
限られた「のぞみ」しかない「自然科学」、「物理学」が行き詰まるのも当然です。
「のぞみ」という言葉一つで相対性理論擁護者を論破することが出来ると思います。
最後に。
日本にはこういった素晴らしい名前を持つ新幹線が走っているのに、
思ったほど評価されていないことは本当に残念です。
人は
見飽きることも聞き飽きることも
喋り飽きることも読み飽きることも書き飽きることも
食べ飽きることも絶対にありません。
時間、お金(通貨)、資源、エネルギー以外の際限がありません。
また、文字を書くことは、
未来の読者に、
文字を読む時間とお金(通貨)を作ることを強要します。
つまり未来の読者から
時間とお金(通貨)を奪っているということです。
まさしくエンデの『モモ』の「時間泥棒」です。
文字自体や文明自体が「時間泥棒」なのです。
その中心には勿論、時間[T]、時計、お金(通貨)が居座っています。
いかに正しいことを書いたり、喋ったりしても、
書くという行為そのもの、喋るという行為そのものが
「欲望(シヰ)」であり、際限が無い方向に自他を突っ込ませます。
書かれた文章はいくらでも読むことが出来ます。
際限が無いのです。無限なのです。
ですが、文章を全く残さないのも別の問題(知識の喪失)を引き起こしますが。
お金(通貨)に関連して「文字」について考えてみました。
そもそも文字には意味はありません。
文字は炭素、インク、色、光、線、直線、曲線、円などの集まりです。
それぞれの部分の形には本来、何の意味もありません。
それと、文字と実体が必ず一致するとは限りません。
「犬(イヌ)」という生き物に必ず「犬(イヌ)」と名付けているのは日本語だけで、
その他の言語では「犬(イヌ)」という生き物に対しては他の名前があります。
それと、文字はねずみ講(無限連鎖講)の性質を持ち、
想念②とシヰを促進させる力を持っています。
文字は炭素、インク、データ量、時間、お金、体力、気力が許す限り、
いくらでも読み書きすることが出来ます。
媒体が壊れず、書き加えず、読み書きする側が意味を維持し続ける限り、
文字はそれ自体として意味を維持しながら存在し続けます。
書き加えない限り、
「一」という「文字」がいきなり「鬱」という文字に変わることはありませんから。
そして、文字は自然界には本来存在しないものでもあります。
文字の扱い方の約束事、ルールは人々の生活と頭の中にしか存在しません。
文字の扱い方、約束事、ルールそのものが崩壊してしまうと、
人々の間の日常生活、意思疎通に支障が出て困るので、
一般的な社会では、
「文字」そのものの性質や欠陥には余り触れないようにしているのです。
これらのことから、文字は「お金(通貨)」と全く同じ性質を持っていると言えます。
情報ということですね。理解します。情報理論の元は、サイバネティックスというところからきていると記憶しています。情報を蓄えるには僅かながらもエネルギーが必要です。ヒステリシスを用います。で、物理学のエネルギーは運動を時間で表したものです。弧理論の考え方は余分な次元軸上に真のエネルギーを持った実体を考えます。この実体がM軸上に投影されることにより物体(物質)となります。E軸上の実体が物体にかかるすべての情報を持っていると考えています。宇宙の全ての陽子中性子電子及びその他粒子等の配置と組み合わせです。これって手垢のついた言葉、アカシックレコードと同じ意味かと。
紙幣硬貨カード・ネットバンキングはお金の偶像です。文字として起こした数字も同じ関係にありそうです。私は物理現象とは「人に備わった五感で分かる」ということだと思います。そういうE軸上の実体が持つすべての情報の中には、宗教も数も哲学も、勿論オカルトも含まれるしお金と時間という概念も含まれると思います。そういう「仕組み」ですから、情報の対象が物理現象として存在するかどうかは、それぞれだということになります。自然科学は「オカルトUFO、UMA、オーパーツ」を非科学として「無」と扱いますが、実際は「できない」だけです。人々にオカルトは「存在」します。お金も同じです。どういうわけかお金だけ経済学として正当化されています。10年後から設立されたノーベル経済学賞は怪しいです。何もかも一発で説明できなければ、真の科学ではないと考えます。
「文字」は過去を記録するための道具ですから、
「時計」、「お金(通貨)」、「時間」の正当性を擁護する道具でもあります。
「文字」が無ければ、
「時計」、「お金(通貨)」、「時間」の発明は難しかったでしょう。
そうですね。物が存在するものと、存在しないものがあります。文字も時計もクレカも存在しますが、文字や言葉による思考そのものは存在しません。時間も存在しません。お金も存在しません。その場合、紙幣やコイン・クレカはお金の偶像です。時計は時間の偶像です。
音声は空気の振動として存在しますが、元となる思考は存在しません。脳内の電気信号は存在しますが、思考はそこに在りません。
一般的に
「線」、「曲線」、「図形」、「色彩」の集まりを
「文字」と言いますが、
「線」、「曲線」、「図形」、「色彩」は
「原子」、「エネルギー」、
「電磁気」、「熱」などの集まりであって、
「原子」、「エネルギー」、
「電磁気」、「熱」などの集まりの中には、
人間が「文字」の中に存在すると
思い込んでいる「意味」、「思考(思想)」、「感情」は
どこにも存在しません。
「音声」は「空気」の「振動」の集まりですが、
「空気の振動」の集まりの中には、
人間が「音声」の中に存在すると
思い込んでいる「意味」、「思考(思想)」、「感情」は
どこにも存在しません。
つまり「文字」も「音声」も
「時計」や「お金(通貨)」と同じ「偶像」です。
人間が「文字」や「音声」に
「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけです。
「原子」、「エネルギー」、
「電磁気」、「熱」も
「空気の振動」も
「脳内の電気信号」も
存在はしていますが、
それらを人間が「五感(タマ)」で認識しなければ、
存在していることにはなりません。
「原子」、「エネルギー」、
「電磁気」、「熱」ですらも
「空気の振動」ですらも
「脳内の電気信号」ですらも
それらに人間が
「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけかもしれず、
ただの「偶像」かもしれません。
「五感(タマ)」で認識出来ない人、
「五感(タマ)」で認識したくない人、
「五感(タマ)」で認識しようとしない人、
「五感(タマ)」で認識しない人にとっては、
何事も存在していないに等しいです。
「五感(タマ)」に関しても、
「五感(タマ)」で「五感(タマ)」を認識しなければ
存在していることにはなりません。
「シヰ」も「五感(タマ)」で認識しなければ
存在していることにはなりません。
「シヰ」は生命維持にとっては絶対に必要ですが、
「シヰ」を完全に無視して自滅すること(餓死、自殺)
も可能です。
「五感(タマ)」や「シヰ」ですらも
それらに人間が
「意味」、「思考(思想)」、「感情」があると
思い込んでいるだけかもしれず、
ただの「偶像」かもしれません。
聖書の地、聖書の悪魔、聖書の堕天使、聖書のルシファー、聖書の地獄は、
複素数の実部 ( 実数の部分 ) だと思います。
聖書の天、聖書の神、聖書のヤハウェ、聖書の天使、聖書の天国、
聖書の神の国、聖書の天の国、聖書のエデンの園、
聖書の人の子、聖書のイエス、聖書のキリスト、聖書のイエス・キリストは、
複素数の虚部 ( 虚数の部分 )だと思います。
いいえ、私たちが持つ宗教にかかるI 想念と C 想念のチャンネル は、別物です。 例え神やイエスを考えても、想念のチャンネルが「シヰ」寄りであるならば、貴方の云われる(実数の部分)です。(チャンネルが経路②ということ。)
聖書の神の本当は、「I 想念と C 想念のチャンネル」とは別物です。そういう人(宇宙)の「仕組みが在る」ということだと思います。だからむやみに「神」を持ち出せないのです。ほぼだれも区別できませんから。
一神教や多神教などの「宗教」が考えている「神」と
聖書などの教典が示している「神」は似て非なる別物だと思います。
一神教や多神教などの「宗教」の「教祖」や「信者」にとっては、
自分たちの「宗教」の「神」しか存在しません。
他の「宗教」の「神」は彼らの認識の外であることが多いのです。
この世に「宗教」や「教典」しか無いのならばそれで良いのですが、
問題はこの世には沢山の物事が存在するわけです。
「聖書」やその他の「教典」は本来、
五感で感じ取れるものごと全てと、
五感で感じ取れないものごと全てを指して
「神」と呼んでいることが殆どです。
「教典」の本来の目的は
「シヰ」の減少、「シヰ」の暴走のブレーキ役です。
勿論、読者が「シヰ」の暴走に基づいて
「教典」を読んで解釈した場合は全く意味がありませんが。
基本的には、
「宗教」は「言語」、「教典」、「文化」、「組織」、
「建物(教会、神社、寺)」などを
維持発展したいという欲求( シヰ )の暴走によって
人工的に造り上げられたものだと思います。
何故シヰが暴走するのかと言えば、
維持しなければ廃れてしまうからだと思います。
廃れてしまえば廃れる前よりも悪くなってしまうと恐れて、
「宗教」を維持しようとするわけです。
その過程でお金(通貨)が必要となり、
お金(通貨)稼ぎに躍起になってドツボにはまっていき、
更にシヰが暴走してしまうという悪循環となります。
私が図形を作成して工夫しているのは、人が存在することの「仕組みが在る」ことを説明したいからです。私にとって全ての宗教は同じです。知る・気付くあるいは、五感の刺激を「分ける」事により「分かる」という仕組みの中に宗教を含む人の活動の全てが「在る」ということです。人の思考や活動、つまりお金も時間も宗教も呪術も神も悪魔もみんな「仕組みが在る」ことによるのです。
例え話です。水槽に魚がいます。水は魚にとっての全ての物や事だとします。物や事には「内と外」「水槽」「水」という概念(思考)も含まれます。魚は水槽によって生かされています。もし魚が何千億光年も遠くへ行ったとします。でもそこには水があります。魚は何処へ行こうと、そこは水槽です。魚が「水槽」を思考したとします。でもその思考は「水槽」そのものではありません。水です。水槽という仕組みが在るだけです。
我々はこの魚と同じです。水槽を神に置き換えます。我々が神を思考してもそれは神そのものではありません。「仕組みが在る」ことを理解するだけです。我々はその仕組みによって生かされているのです。宇宙の外と考えることはできますけれど、その思考は宇宙の外そのものではあり得ません。だから、「仕組みそのもの」を示したいがために、母音のない、どう読めばよいのかもわからないYHVHなのです。 神を語るとき常に偶像崇拝の危険があります。私にとって神と悪魔という2つの思考の間にほとんど変わりがありません。神を口にする人がいてもタマなのかシヰに発するものかどうかは分かりません。善悪もそうです。仕組みが在るだけです。 ただし、生命維持の欲求であるシヰがなければ生きていけません。
魚が水槽に問いかけても水槽は魚に応える仕組みが在りません。ですから、旧約にモーセが問うて「在りて在りたる者」と応えたのは代理人です。
目が見えることと、
目で何かを見ることは全く違います。
前者の立場が言う「神」は本物です。
後者の立場が言う「神」は偽物です。
耳が聞こえることと、
耳で何かを聞くことは全く違います。
前者の立場が言う「神」は本物です。
後者の立場が言う「神」は偽物です。
何故、前者が本物で、後者が偽物なのか、
それは人が自分の力で見聞きしている訳
では無いからです。
「五感(タマ)」が人の独占所有物ではないからです。
前者は「五感(タマ)」であって、
後者は「欲望(シヰ)」です。
見えない人、見たくない人、
見ようとしない人、見ない人、
聞こえない人、聞きたくない人、
聞こうとしない人、聞かない人、
認識出来ない人、認識したくない人、
認識しようとしない人、認識しない人にとっては、
神も偶像も偶像崇拝も存在しないに等しいです。
何故なら、
「神」、「偶像」、「偶像崇拝」という言葉や概念を
目や耳で認識しない、認識できないからです。
点字、手話、テレパシー、超能力などでも
同様です。
「言葉」や「文字」で「神」を出した場合、
「言葉」や「文字」に「欲望(シヰ)」が
どうしても入り込む上に、
「言葉」や「文字」が「五感(タマ)」を刺激して
混乱させるために元の木阿弥となってしまう可能性が高くなります。
要は「五感(タマ)」の扱い方なのです。
「五感(タマ)」があるかどうかという
問題もありますけどね。
ちょっと飛び飛びですみません。
世の中の問題、犯罪、罪悪、害悪の殆どは、
数学の実数で数えられるものばかりです。
数学の虚数で数えられるものは殆どありません。
実数と虚数の関係を複素数平面座標で考えると面白いことが分かります。
複素数は
「 a + bi 」 で定義出来ます。
[ aは実部 ( 実数の部分 ) biは虚部 ( 虚数の部分 ) ]
実数が実数として成り立つ為の条件は、
「 bi = 0 」 [ 虚部 ( 虚数の部分 ) が0であること ] です。
虚数が虚数として成り立つ為の条件は、
「 bi ≠ 0 」 [ 虚部 ( 虚数の部分 ) が0以外であること ] です。
学者、科学者、専門家、政治家、官僚、マスコミ、教育者、金融資本家、政治家は、
実数の領域 ( 世界 ) に張り付いています。
つまり、
彼らは、
「 bi = 0 」 [ 虚部 ( 虚数の部分 ) が0であること ]が
前提の世界に居るわけです。
彼らからすれば、虚数などという数字は以ての外です。全く理解できません。
彼らが扱っている物事はほぼ実数で数えられるものばかりですから。
実部と虚部の間、実数と虚数の間には斥力が働いているようにしか見えません。
彼らは
実数を積み上げて、シヰを暴走させて、
実数のものごとを他者から奪って、無限を目指します。
無限こそが彼らにとっての自由ですから。
その過程で、実数のものごとを奪われた人々が
貧困、ストレス、疲労、病気、老化、死などに苦しむのです。
解決方法は、
実数の領域(世界)から実質的に抜け出して、
虚数の領域(世界)に実質的に向かうしかありません。
その為には、
実部 ( 実数の部分 ) を0とするか、
虚部 ( 虚数の部分 ) を0以外とするかの二択です。
ご存知の通り、
虚部 ( 虚数の部分 ) には絶対に位相(回転)が絡みます。
どうやらやはり世の中の問題、犯罪、罪悪、害悪の殆どを解決する為には、
位相(回転)がカギとなることは間違い無いですね。
面白いです。シヰ=実数ということですね。これは弧理論の考え方に通じます。縄文哲学にも通じることです。 図の左下の経路②が横方向であることと合致します。岡潔は「五感で分かるもの以外は無いとしか思えない。これが唯物主義」と云いました。当ブログで多用する表「五感で分かるスケール」と見比べてください。もっとよく理解できると思います。五感で分かる極大極小の物理現象を追い求めて、その先には何もないということです。
人は自ら信じたいものを信じます。紙幣硬貨カードを偶像とするお金、時計を偶像とする時間、いずれも存在しません。
>世の中の問題、犯罪、罪悪、害悪の殆どを解決する為には、位相(回転)がカギとなることは間違い無いですね。
半分同意。E-M軸平面での位相は井出治さんの超効率インバーターにかかるエネルギー源についての考察により重要な考え方です。E-M軸平面において、静止・速度・加速度・躍度に応じて位相が反時計方向に90度ずつずれています。位相がカギであるということです。井出さんの装置は恐らく公表されいる以外にノウハウがあります。技術的に困難な躍度が利用されています。宇宙で重要なのは回転(加速度)です。E-M軸内では位相が180度ずれている現象に相当します。特に単極誘導は重要です。
支配者に倫理道徳を説いても始まりません。過去記事を「エリートキツネ」で検索ください。元記事はttp://siberiandream.net/topic/pet.html にあります。
この記事は人間にも当てはまると考えます。何世代も存在しない「お金」に行動原理を置けば、ペットキツネ同様に生まれながらにお金に貪欲な人が増えてくると考えています。これは道徳倫理、善悪ではありません。実験的事実に基づき「人類がシヰの暴走により自滅する」ことを訴えるべきなのです。
これは記事に起こそうと考えていたことですけれど、日月神示に何度も記されている「抱き参らせる」とは、この説得のことを云います。正義感や宗教的信念、あるいは倫理観・善意などというもので「抱き参らせる」ことはとてもじゃないけど無理です。キツネに飼い主はいますが、人間に飼い主は居ません。人は自らの意志により抜け出すべきなのです。フリーエネルギーやUFO宇宙人などどうでもよいことです。
後半は納得しました。
人の言動、思考、思想、認識は、
人の自由な意思決定に任されていますからね。
でもどんな言動を行おうとしても、
必ずエネルギー、資源、材料、元ネタが必要です。
仮に倫理、道徳、善悪、法律を無視したとしても
エネルギー、資源、材料、元ネタが尽きればそれまでです。
まあこれらのことを認識しなければそれまでですが。
そもそも、
見えない人、見たくない人、見ようとしない人、見ない人、
聞こえない人、聞きたくない人、聞こうとしない人、聞かない人には
どんな言葉、宗教、倫理、道徳、科学、善意を説こうと
無駄&無理&駄目です。それら以前の問題です。
これは悔しいですが、限界ですね。
そうですね。分かるの語源は分けるです。感覚器官(意識)を通して分かることにより発達した事実がありますけれど、分かるの限界を越えるのは岡潔の知であり「知る」であり「気付く」です。見えないものの内に大事なことがあると、それこそ気付き知る必要があります。「気付け」というのは傲慢です。仕組みさえ分かればきっとうまくいくと思います。それは宗教ではありません。
そもそも、
「全ての人がほぼ同じ三次元空間を
ほぼ同じように認識している」という
一般社会での大前提に
正当性、正しさ、合理性、妥当性
があるのかどうかすら疑わしいです。
確かに大多数の一般人の一般的な常識では
この前提はほぼ絶対視されています。
何故なら、この前提が無いと
あらゆる人間の活動が成り立たないからです。
議論も会話も仕事も勉強もその他も
この前提が無ければ話になりません。
ですが、
植物人間、心神喪失者、
意識不明者、精神障がい者にとっては、
三次元空間は全くの無か、
かなり歪んだ形となってしまいます。
でもそれは
我々一般人の視点からの判断であって、
我々一般人が「三次元空間」を認識しているかどうか、「三次元空間」を正常に認識しているかどうかは我々一般人からは本当のところは分かりません。
これは大問題です。
これから先どれだけ科学が進歩しようが
解決するのは不可能に近いでしょう。
「教典(経典)」の本来の目的は、
大体のところ、
自他の「五感(タマ)」を
目の前の「欲望(シヰ)」の世界から救うことである
と言って良いでしょうが、
上記で言ったような
「五感(タマ)」の不確実性があるせいで、
解釈や議論が混乱しているのです。
また、「教典(経典)」の存在自体が
「欲望(シヰ)」の促進の原因
となってしまっています。
こういった理由から
「宗教」問題が根深く残っています。
他にも理由があるかもしれません。
拙い駄文長文失礼しました。
善悪は、
複素数の虚部 ( 虚数の部分 ) が善であり、0、無限が善であり、
複素数の実部 ( 実数の部分 ) が悪だと思います。
これは人間の善悪判断とは全く別物です。
人間の善悪判断には善はありません。
人間が善悪を判断した瞬間に、
その判断は
複素数の実部 ( 実数の部分 ) になってしまいますか、ら
自動的に悪になります。
学者、数学者、自然科学者は
自然数から出発して数の範囲を
整数、分数、少数、平方根、
負の数、超越数、実数、無限へと広げました。
その過程で彼らは虚数を発見したのですが、
学者、数学者、自然科学者は虚数を邪魔者扱いしました。
本当は真逆だと思います。
まず虚数が本質的に存在して、
虚数の対として実数が出来上がったということです。
それも0を中心とした形です。
そうは思いません。おそらく全ては相対的です。善悪も立場により異なります。実数虚数というのは、仕組みを説明するための道具です。仕組みに善悪はありません。
Φさんのその考えでは、
仕組みそのものが
実数なのか虚数なのかという問題が
絶対に残ります。
さてどちらでしょうか。
それと
Φさんは「シヰの暴走」が
悪であるとしていて、
「シヰが実数である」ということに
同意しているようですが、
もしそうであれば、
「実数が悪である」
と言っているのに等しいのではないでしょうか。