確か一昨年頃より数学者岡潔の言葉を基礎として、自然科学の限界等について考えてきました。併せて昨年の夏頃よりヲシテ文献について考察を続けてきました。 これまで数枚の概略図を元にいろいろ考えてきましたけれど、漸く全体像を図表5枚にまとめる段階に来ました。 ここに過去の図表を差し替え併せて各図のpdfを示します。 また、各図表の解説は別にしようと思います。
縄文哲学の核となる「トノヲシテ(トノヲシヱ)」並びに「ロノヲシテ(ロノヲシヱ)」を象徴するのがミクサタカラであるタマ、カガミ、ツルギです。この3つの象徴を弧理論の考え方による3つの科学に対応した図です。
弧理論の考え方による経路を左に挙げました。右3分の2あまりは、人の心の成り立ちを上下に「心の本体(潜在的)」と「意識(顕在的あるいは表層的)」の面に分けて、縄文哲学を含む幾つかの表現を配置し比較したものです。 ここで、右側に示した「知」、「シル:知る」、「気付く」は、弧理論の考え方に示した想念の経路①に相当します。 ただし、縄文哲学における「タマ」と「シヰ」を結ぶのが「ヰクラムワタヲ ネコヱワケ」のいずれかにあるのではないか?というのは、管理人による判断でして、池田氏が示したものではありません。想念、あるいは想念の経路①が「ヲ」あるいは「ネコヱ」にあるのではないか?ということを考えています。確証はありません。因みに「ヲ」をあえて漢字に直すと「緒」が近いかと思います。
写真1 出典は麻の繊維より
神社の祭典で用いる麻の繊維で、「を」といいます。
人が外界の「物や事(MK)」にあたり、五感を通して人が持つ想念をそれぞれ I とします。このMKとIの関係は、想念の2つの経路の内の経路②に相当します。 ここで大事なのはI想念とK経路②とは、関係が無いということです。例えていえば、携帯電話会社と携帯電話を通してする会話の内容とは全く関係が無いのに似ています。経路②の想念は「意識を通して」「言葉で言える」内容であって、その想念は「シヰ」つまり、人の欲望を表した内容だろうと考えられます。それは五感を通した「物や事」に根ざした想念だからです。 かといって、想念の経路①が必ず、宇宙の真理を伝えているかどうか、定かではありません。
右側の各表現は、図2に示した想念の経路①にかかるものであって、縄文哲学の骨子(図4左上)である「トノヲシテ(トノヲシヱ)」に相当すると考えられます。 図4左の「トノヲシテ」と「ロノヲシテ」の解説は、ホツマ辞典:池田満著展望社のp189「トノヲシヱ」より引用しました。
気になるのは、氏による「トノヲシテ」の解説には、「国民に普あまねくわかち及ぼす」とあることです。 管理人は、経路①には「両手を差し上げてアメ(天)の恵みを受ける」役目はあっても、「わかつ」役目は「ロノヲシテ」が受け持っているだろうと考えます。
国語辞書によれば「わかつ」は、「それぞれに分けて配る。配分する。」とあります。ですから、「トノヲシテ」にて「受ける」とは経路①であり、「知」であり「シル:知る」であり、「気付く」であろうということです。 むしろ「ロノヲシテ」に「わかつ」があるということです。 氏の解説による「ロノヲシテ」は、「自分自身の自主独立の幸せがあってこそ」というのは、理想ではあります。しかし、現実は「物や事」を「分ける」ことによる「分かる」によって得られた「物や事」を特定の人や組織が独占していることは周知の事実です。 自然科学が孤立系である以上、得られる「物や事」は有限です。ですから「シヰ」に根ざしたものであるから「分け与える」ことを渋るのは当然だということです。
大事なのは図4の右端、自然科学には、「知」「シル:知る」「気付く」が乏しいことです。つまり経路①にかかるものに人々が気付いていないことが問題です。これが唯物主義の限界にあることは明らかです。
図5 五感で分かる範囲(数学者岡潔の言葉と自然科学に関する考察)
2年余りに渡って考察してきた自然科学にかかる限界について、表:五感で分かるスケールの表にまとめました。 図5下段の考察に関して、実験とは、「現在(の運動)」を測定という行為により「過去」に固定することです。{運動/時間}の比率が「現在の運動」に適用できる保証はありません。深く考えることが必要です。
各図表は、文字が細かい部分がありますのでpdfにてご確認ください。
昨年の夏頃に紫霄閣(ししょうかく)というサイトにある聖徳太子が封印した日本の優れた古代文化を読んで、ヲシテ文献を知りました。 この頃から弧理論の考え方の骨格が池田満氏の提唱による縄文哲学の骨子と恐らく同一であろうという直観の元、考察を進めてきました。 その本質は、今日私たちが使っている日本語、特にヤマトコトバに定着したものであって、ヤマトコトバを用いれば極めて容易に表現理解することができるものだと確信してきました。ここにお門違いの日月神示を持ち出してきた意図があります。
ヲシテ文献 漢字 かな カナ 和製漢語 外来語 和製英語
日本語は多層構造をしています。これらを用いることによりより明確に弧理論の考え方が理解できると考えています。
まとめて云えば、管理人が最善だと考える思考方法は、
意識を通さない、言葉で言えない経路①にかかる想念を受け入れる、ということであって現代日本人に最も理解されやすい言葉で言えば「気(キ)付く」である。
まあ、過去記事にも管理人が感じる考察の仕方を書き記したことがありますけれど、ほとんどの人には意味不明だったと思います。自身の経験を言葉で表現すことほど難しいことはありません。
次回は、上記図表を統合した結論について記そうと思います。 これがある科学者が述べた言葉
(人類の)科学が進歩し続けようとする場合に必要なのは、君たちがとまっている枝から幹との分岐点まで降りて、ふたたびのぼりはじめることだ。
に示された「分岐点」です。また、
宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するならば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかし、ながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ物質科学の発達はありえない。
と、ある科学者が述べたとおり、自然科学に足りないのが精神科学と社会科学であることは明白です。
なお、上記図表5枚は、管理人による自己評価は60点くらいの出来だと考えておりますので、ご自身でお考えいただくことが肝要と思います。
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横幅が余りにも狭いので戻しました。
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/mitinoku2.html
によれば、
やまとことばの動詞の意味は
以下の五つに絞ることが出来るそうです。
A.合う/合わす。
原義は「陽(あ) と 陰(わ) が近づき結びつくこと」です。
「あう/あふ」は「あ(陽)」と「わ(陰)」のふるまいを動詞化したものです。
B.離れる/離す。
原義は「隔たりが大きくなること」です。
便宜上、独立しているが A.合う/合わすと実質的には同じです。
視点を変えているだけです。
「離れる」という動きは、必ず同時に他の場所に「合う」という動きを伴います。
「一つの場所から離れること」は視点を変えれば「他の場所に近づくこと」と同じです。
また「在る」ということは、他の物から「離して(別個に)」認識されることです。
C.行き来する/させる。
原義は「回転すること・循環すること」です。
回転運動は往復運動とも言えます。
D.正の方向に離れる/離す。
合う(離れる)/合わす(離す)に方向性が加わったものです。
正の方向とは
「上・大・多・高・先・中・熟・明・美・早・過去」などへの方向を意味します。
一般人にとってのプラスのイメージです。
E.負の方向に離れる/離す。
合う(離れる)/合わす(離す)に方向性が加わったものです。
負の方向とは
「下・小・少・低・後・端・粗・暗・汚・遅・未来」などへの方向を意味します。
一般人にとってのマイナスのイメージです。
正の方向/負の方向も相対的であって、
視点によっては正と負が逆になります。
この五つの意味は明確に区切られているものではありません。
五つの意味の境界線は曖昧です。
結局、
やまとことばの全ての意味は
「あう」の様々な面を様々な視点から見ているだけだ
ということです。
以前コメント欄に投稿したページを再掲載します。
やまとことばのみちのく
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/mitinoku2.html
やまとことば(和語)の成り立ちについて独自の視点から解説しているサイトです。
にしのくにのことばのみちのく
http://gejirin.com/English/mitinoku-eng01.htm
英語の成り立ちについて独自の視点から解説しているサイトです。
長くなるので細切れに投稿します。
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/mitinoku2.htmlによれば、
「やまとことば」は、
「二つの音から成り、”う”の母音で終わる動詞」が基本だとされます。
具体的には、
「*う」「*く」「*す」「*つ」「*ぬ」「*ふ」「*む」「*ゆ」「*る」という動詞たちです。
続きます。
長くなるので細切れに投稿します。
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/mitinoku2.htmlによれば、
「やまとことば」の単語は、
「子音の並びが同じであれば、
母音は他の子音や母音に変わりうる」そうです。
例を挙げます。
くぐまる(KuGuMaRu)=かがまる(KaGaMaRu)=こごまる(KoGoMaRu)
ローマ字における子音の並びを見ると(K-G-M-R)で同じ。
なぐ(NaGu)=にぐ(NiGu)=ぬぐ(NuGu)
ローマ字における子音の並びを見ると(N-G)で同じ。
さかる(SaKaRu)=しげる(SiGeRu)=しきる(SiKiRu)
ローマ字における子音の並びを見ると
(S-K-G)、(S-G-R)でほぼ同じ。
しぼむ(SiBoMu)=すぼむ(SuBoMu)=せばむ(SeBaMu)
ローマ字における子音の並びを見ると(S-B-M)で同じ。
長くなるので細切れに投稿します。
http://gejirin.com/mitinoku.html
http://gejirin.com/mitinoku2.html
によれば、
「やまとことば」の単語は、
子音の並び、使われ方、ニュアンスが異なっても
根本的な意味が同じであれば、
発音のバリエーションと見ることが出来るそうです。
例を挙げます。
わする(忘する、WaSuRu)
うする(薄する、uSuRu)
あする(褪する、aSuRu)
やする(痩する、YaSuRu)
子音の並びは違うが、
根本的な意味(失せる)は
同じであると言えるから、
「わ・う・あ・や」を
発音のバリエーションと見ることが出来る。
つまり子音の並びが同じである場合と
同じように扱うことが出来るということ。
また、
「母音は他の子音や母音に変わりうる」ことから、
「あ行・や行・わ行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
同様に、
さひし(寂しい)=さみし(寂しい)
まさご(真砂)=いさご(砂子)
であるから
「あ行・は行・ま行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
あはす(合わす)=あわす(合わす)
ねむり(眠り)=ねふり(眠り)
であるから、
「は行・ま行・わ行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
うつほ(空)=うつろ(空)=うつお(空)
あゆ(鮎)=あひ
であるから、
「あ行・は行・や行・ら行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
はた(端)=はな(端)
であるから、
「は行・な行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
はなつ(放つ)=はなす(離す)
であるから、
「さ行・た行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
のく(退く)=ひく(退く)
であるから、
「な行・は行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
いな(否)=いや(否)
であるから、
「な行・や行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
わかつ(別つ)=わかる(別かる)
であるから、
「た行・ら行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
ひねもす=ひめもす
であるから、
「な行・ま行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
また同様に、
き(気)=い(気)
であるから、
「あ行・か行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
続きます。
長くなるので細切れに投稿します。
前のレスをまとめます。
「あ行・や行・わ行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「あ行・は行・ま行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「は行・ま行・わ行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「あ行・は行・や行・ら行は発音のバリエーションであり、根本的には同じである」とすることが出来る。
「は行・な行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「さ行・た行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「な行・は行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「な行・や行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「た行・ら行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「な行・ま行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
「あ行・か行は発音のバリエーションであり、
根本的には同じである」とすることが出来る。
更にまとめます。
あ行≒や行≒わ行
あ行≒は行≒ま行
は行≒ま行≒わ行
あ行≒は行≒や行≒ら行
は行≒な行
さ行≒た行
な行≒は行
な行≒や行
た行≒ら行
な行≒ま行
あ行≒か行
続きます。
上のコメントの続きです。
更にまとめると、
か行≒あ行≒な行≒は行≒ま行≒な行≒や行≒ら行≒わ行≒た行≒さ行
となります。
もっと分かりやすくすると、
あ行≒か行≒さ行≒た行≒な行≒は行≒ま行≒や行≒ら行≒わ行です。
五十音図の行、子音が
全て発音のバリエーションであり、
根本的には同じであると言えるわけです。
五十音図の行、子音の間で
自由自在に音が変わりうるということです。
続きます。
最初のコメントで、
>「やまとことば」は、
>「二つの音から成り、”う”の母音>で終わる動詞」が基本だとされま>す。
>具体的には、
>「*う」「*く」「*す」「*つ」「*>ぬ」「*ふ」「*む」「*ゆ」「*る」>という動詞たちです。
とコメントしました。
それと、
あ行≒か行≒さ行≒た行≒な行≒は行≒ま行≒や行≒ら行≒わ行を
組み合わせると以下の結論が得られます。
「二つの音から成り、”う”の母音で終わる動詞」、
「*う」「*く」「*す」「*つ」「*ぬ」「*ふ」「*む」「*ゆ」「*る」は
発音のバリエーションであり、
根本的には同じである。
具体的には、
「*う」≒「*く」≒「*す」≒「*つ」≒「*ぬ」≒「*ふ」≒「*む」≒「*ゆ」≒「*る」
特に「あう」が中心である。
何故ならば、
「あう」は「*う」「*く」「*す」「*つ」「*ぬ」「*ふ」「*む」「*ゆ」「*る」の共通点であり、
これらの中で
唯一子音が無いからである。
「あう」の名詞化の一つが
「あわ」である。
続きます。
ホツマツタヱ、フトマニ、ミカサフミの原文と漢訳を載せているサイトを見つけました。
ヲシテ文字はなかなか見つからないので貴重です。
是非参考にしてください。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sindaimonji/hotumatutae/hotuma00.htm
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sindaimonji/hotumatutae/futoimani01.htm
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sindaimonji/hotumatutae/mikasafumi.htm