これまでに出尽くした事ながら、再度書きます。数学者の岡潔は、『自然科学は「時間、空間」という簡単な模型だ』と云いました。特に時間が問題だとしました。時間に関しては、岡潔の言葉を起点に約2年間考察を続けて
図1 pdf
の様にまとめました。 岡潔は、空間について詳しくは述べていませんけれども、これについても解決のしようがない問題を含んでいます。
(1) 自然科学は「時間、空間」を要素とする模型です。 まず空間があり、その中に物質があると考えて、時間とともに物質が運動すると考えています。空間とは何かについて全く考えていません。
これまでビッグバン理論について何度か取り上げてきました。自然科学と対比して図にします。
図2
左側が「自然科学」です。XYZの3次元物理空間の中の一部空間を切り取り、この中に物質が存在し運動しています。 重要なのは、自然科学者が空間とは何かということを一切考えていないことです。 (時間の問題については右リンク「時間とは何か」あるいは図1を参照ください。)
このとき観測者は切り取った空間(孤立系)内での物質が持つ運動等のエネルギーについて考えています。仮に読者の部屋を考えてみますと、部屋に貴方が居て、身体から発熱します。夏や冬にエアコンを入れます。場合によっては石油ファンヒーターを用いるでしょう。 発熱などの運動により部屋は暖まりますし、もしくは冷やされます。部屋の壁を通して熱が通ります。このとき物質の運動等について、時間とともに起きると考えます。
限られた空間である部屋を基準に、熱などのエネルギーの収支は(時間の経過に対して)必ず成り立つことになります。熱力学の基本ですから当然のことです。自然科学が孤立系であることの由縁です。 このとき観測者の視点は図1左の様に、一定の限られた空間の外にあります。
(2) ビッグバン理論について、図1右のように説明されます。 図1右では空間をX軸Y軸の2次元平面として表します。縦軸を時間としています。どうもwikiではビッグバン理論のモデルにおいて、「宇宙は時間と空間の区別がつかない一種の(無)の状態から忽然と誕生し」とあります。 岡潔の述べたように時間は存在しないでしょうから、図1右はダメだと理解できます。
更に問題は、観測者が「宇宙の地平面」の外にあることです。事象の地平面とは、光の届く限界をいいます。その向こうに物質があるのか無いのか誰にも分かりません。観測で分かる限りを加算して「宇宙の全体」として、かつ、これを「宇宙」としています。このとき図1右において、観測者は「時間、空間を越えて」外に視点があります。
何もない空間とは何を意味するのでしょうか?物質で出来た自己(観測者)が物質が存在しない?何も無い空間に居るとは、何を意味するのでしょうか?管理人にはまったく分かりません。 かつてある人が拙著弧電磁気論(現弧理論)について、「奇妙な空想理論」と呼びました。 どう考えてもビッグバン理論は空想理論といわざるを得ません。
結論を云えば、孤立系の模型を出発点にして、いくら拡張しても「ほぼ」開放系であると思われる「宇宙の姿」を適切に示すことは不可能です。
(3)これまでの考察によって、つぎの3つは開放系の考え方を持っていることが分かっています。
- 「在りて在りたる者」 ・・・・ (旧約)聖書にある「神」と名乗るものです。
- カミの定義「つながり、もたらし、生じさせる」 ・・・・ ヲシテ文献に記される縄文哲学による「カミ」です。
- 弧理論の考え方の基本形 図3左 「E軸上の実体が投影されることにより(質量を持つ)物質が(位置を持つ)」
上記の3つに共通するのは、
- いつ (いつからいつまで)
- どこに
が抜け落ちていることです。異なる言い方をすると、「無始無終、無辺」となります。 ただし、3.弧理論の考え方だけは、少し異なります。 実体が投影されることによって、「物質なにが」と「位置どこに」が決まります。しかし、「いつ」はありませんし、「どこに」はあっても「どこまで」というのがありません。 弧理論の考え方では、「物質」が存在すれば、そこが「宇宙」という意味になります。上記の3つの共通点は、いずれも「宇宙の外」という概念が存在しないことです。
管理人は、宇宙の外に視点を置くことにどこか傲慢さを感じます。 上記1は問題ないのに、[1]神が人格をもっている、もしくは[2]「神との契約」という形をとったことにより、3つの宗教に傲慢さが備わったようにも思います。2000年来続く、中東地域での紛争の本質は
3つの宗教の「聖地が隣接している」ことが原因だけでは無いように感じます。一神教多神教との違いでも無いように思います。欧米契約社会の根本『神との契約』が参考になります。
ついでながら、
写真1 11.聖書アラビア起源説より
カマール・サリービー著の聖書アラビア起源説は、難しいながら興味深い本です。(旧約)聖書の起源が今のイスラエルがあるパレスチナ地方ではなくて、
図5 11.聖書アラビア起源説より
アラビア半島のアシールという地方にあるとのことです。 2000年ほど前に、人々が(旧約)聖書の舞台がアシール地方であると理解していたならば、図4のように3つの聖地が隣接しなかったかも知れません。 訂正 古代に話し言葉として使われていたヘブライ語は、子音のみで書かれていたそうです。子音で書かれていたのは、神を意味する「YHVH」だけでは無かったようです。管理人の勘違いでした。お詫びします。 同書によれば、ユダヤ教の学者たちによって子音原文に母音が付加された際に、解読にあたった学者たちが、かつて聖書のヘブライ語がどう発音されていたか知らなかったとのことです。かつすでに聖書はパレスチナであるという先入観を持っていたため、誤った母音付加がなされ、以来、旧約聖書は間違った読まれ方をされたまま、今日に至っているといいます。(同書訳者はしがきより引用)
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アブラハムの信仰、契約とモーセの信仰、契約は全く違います。
アブラハムの信仰、契約は開放系です。
モーセの信仰、契約は孤立系です。
だからモーセは十戒、掟、律法を作ったのです。
その証拠にモーセの十戒は
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけないこと
姦淫をしてはいけないこと
盗んではいけないこと
偽証してはいけないこと
隣人の家をむさぼってはいけないこと
などという内容であり、
これらは全部、
「孤立系」の中に居なければ認識出来ない物事ばかりです。
アブラハムは十戒、掟、律法のようなものは作っていません。
ただ平伏しただけです。
平伏したということは、
アブラハム自身の「孤立系」を認めずに、
「開放系」を黙って受け取ったということです。
これは縄文哲学の「シル(知る)」に相当するものだと思います。
彼は五感で「分かる」ことを分けようとはしていません。
ただ平伏すことによって、知ったのです。
問題は、
モーセが誤って
「開放系」の信仰、契約を
「孤立系」の信仰、契約に
切り替えてしまったこと、
モーセの子孫、ユダヤ人が
アブラハムを実質的に無視して、
モーセを信望してしまったこと、
更にはモーセすら実質的に無視して、
タルムードやミシュナを崇拝してしまったことです。
それとイエス・キリスト自身の教え、信仰、契約も
本来は「開放系」であって、「孤立系」ではないと思います。
だから「限りなき永遠の命」なのです。
言い換えると、
原罪、悪魔、堕天使、ルシファーは
「孤立系」そのものだと思います。
ですから日本人も例外ではありません。