前回の記事において、人々の収入は概ね
労働 ∝ 時間 ∝ お金
の関係にあると書きました。 パートの時給であったり、月給、年収であったり、講演の報償などです。経営者やスポーツ選手の年俸もこれに当てはまります。 労働とは(量)を伴います。質の向上を伴います。人にとって実質的な利便性(富)を提供する行為です。
これまでの考察により、お金も時間も存在しないことがわかっています。特にお金はある時期に不換紙幣となり(量)を捨て去りました。 また、単なる数に過ぎないお金は価値ある労働に対して伸び縮みすることによって、人々から実質的な価値を掠め取ることができます。(この仕組みは巧妙であったり、大胆であったりします。)
補足・・・物価の変動(インフレあるいはデフレ)や、株価の上げ下げ、為替の変動、デノミ、新通貨切り替えなど
上記の通り時間は、「単なる数に過ぎないお金の制度」を維持するに必要不可欠です。 当然のこと、自然科学においても時間[T]は、有用であり続ける必要があるのです。 自然科学者が時間について詮索することは(恐らく)タブーだと考えられます。
人は五感の内に住んでいます。五感でわかるのは(量)だけです。 五感は肉体の感覚器官につながっています。 人の思考は肉体という「量」を伴わねば存在し得ないことが理解できます。
図1
自然科学はお金の制度からの要請により、どうしても五感でわかる範囲を越える必要が出てきます。そこで問題になるのは(運動/時間)の比率です。 その比率の問題が図1の両端に現れてくると思われます。 図1の左端は、エネルギーの単位としてGeV/c2が使われます。右端は距離の単位として光年が使われます。いずれも時間が入っています。 時間は過ぎ行く運動の記憶(記録)です。 時間が運動の現在と未来に適用できるかどうかは、わかりません。保証はないのです。ここが問題です。図1の両端では(運動/時間)の比率が変化しているだろうと考えます。 また、量子理論において無限大がでてくる原因となっていると考えています。
ここで、もし量を時間を使わずに表せるようになったならば、冒頭に示した「比例式」は意味をなさなくなります。 金融資本家が人々から富を搾取する手段がなくなることを意味します。 そのようなことが可能かどうか、今はまだわかりません。 ですけれども、お金と時間に対する自覚のない信仰を解くには必要なことだと感じます。
ここ何年かに渡って、お金と時間に関して考察を進めてきました。ここに一応の結論を得ました。果たして(量)を時間を使わずに表せるのかどうか、弧理論の考え方を以て(方向だけでも)示せたらと思います。
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