数学者岡潔は、次に様に述べました。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。
岡潔講演録(2)「2つの心」【3】西洋の唯物主義より。
自然科学は、「五感でわからないものは無いとしか思えない。」という人たちが自然について調べたものです。言い換えますと「意識できる物、言葉で言える物以外は無い」という考え方です。その行き着いた先が素粒子物理学です。
宇宙に見る極大の世界も、極小の素粒子も
表1
五感でわかる範囲を遙かに超えています。 管理人がヒッグス粒子の発見に違和感を覚えているのはこの点です。 はっきりいえば、宇宙物理学も素粒子物理学も先端ではなくて、末端です。
西洋文明は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五つの感覚器官による刺激が(宇宙の)すべてであると仮定することにより、岡潔が指摘した状態に至ったのです。 自己とは何かについて、まったく考えていません。
人の身体は、骨格に筋肉があり、呼吸器系と循環器系、消化器系の臓器を持ち、これらを統合する神経系の働きにより成り立っています。
筋肉には、
図1 深層筋を鍛える方法より
自己の意識により概ね自由に動かせる随意筋と
図2
自己の意識によっては、早く動かしたり停止したりできない、自由に動かせない不随意筋があります。
最近、腰痛の原因の一つに「寝返り」があると報道されていました。 腰痛に悩む人は、就寝時に寝返りが少ないとのことでした。
夜間の就寝時には、足腰や肩腕の随意筋を使って寝返りします。 唯物主義の人は、就寝時に寝返りしないのでしょうか。寝ているときは、意識がありませんので、「死んでいる」のでしょうか。その間、誰が寝返りを指示しているのでしょうか。 唯物主義の人は、何も考えていません。 素粒子や宇宙について研究をされている人は、観測者自身について何も考えていないとしか思えません。
ヲシテ文献の中に「想念」に相当する記述があるはずとの考えの元、ホツマツタヱ等について学んできました。 とりわけ「ヰクラムワタ ヲ ネコヱ ワケ」のいずれかに含まれると狙いを付けてきました。 「ネコヱ」については、過去記事の通り意味がわかりました。 どうも、「ヰクラムワタ」は、肉体の「目・耳・鼻・口・皮膚」と対応する五つの感覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)に対応するのではないかと考え始めています。
5つの「クラ」と6つの「ワタ」では、一つ余ります。よく分かりませんけれど、G・アダムスキーによれば触覚は(touch)と(feel)に分けられます。 そして(feel)が「心の本体」だと読んだ記憶があります。 しかし、それとて岡潔の云う「言葉で言えない・意識を通さない」深い心とは、異なるように感じます。もっと表層的です。つまり、タマ+シヰの構造において、「シヰ」に近いということです。
まとめますと、「ヰクラ」は、肉体の「目・耳・鼻・口・皮膚」に対応し、「ムワタ」は、五つの感覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚「touch」)+触覚(feel) なのではないか、ということです。 まだ、はっきりしませんけれど、五臓六腑などでは決してありません。
「意識を通さない・言葉で言えない」何かがあるから、人は寝返りを打つのです。 もう一つ、自然科学は、表1の赤い矢印のあたりに、「五感でわかる」現象を見落としているはずです。でなければ、自然科学は終端に来ています。次はありません。
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体性神経系の反射ですね。随意筋が出す状態信号が神経系と連動して随意筋を動かします。寝ている時は疲労回復と骨格修正が自発的に起こります。腰痛の人は信号がレンジ外に固定されてしまっているので、神経系の演算がオーバーフロー/アンダーフローになり、それ以上歪ませないように命令を出さなくなる。一種の防衛機能です。寝返り運動をすると痛みは緩和します。大抵の報道は結果を原因として伝えるので、翻弄される人が多い。考えると逆のことって結構あります。
なるほど。と言ってもよく理解できません。随意筋を使って「反射」により統合的な運動としての寝返りができる、しかも意識せずに・・というのは理解しがたいです。反射といえば脚気の腱反射を思い出します。これは納得です。でも反射や防衛本能と云えばわかったような気がするだけのように思います。
私が言いたいのは、誰かの脳や身体の運動や神経系を第3者的に観察測定することでなくて、自身の心の内を知ることです。岡潔が目指したのもこれだと思います。
現象面を捉えることは大事です。でも捉える(観測者)自身のことに関心を持たねば始まらないと思います。お金や時間や空間あるいは自身、はたまた10進数を自明のこととして考えをスタートしては、それこそ「何が何だかわからないけれど役に立つ(自然科学)」ものができあがります。 川の中流を原因とし、下流を結果としていたのではダメだと思います。
>脚気の腱反射
同じです。私が理解し治療に使っているのはいわば「家庭の医学 整体版 小学生向け」程度の内容なので、システム的にはこうなる、といった私が得意な表現になります。それで十分に治せます。勿論、本職の治療家がやっているのはもっと高度です。
自発的に起こすのは何か。それは言葉で言えない何かがあるとしか。
なぜ寝ると疲労回復するのか。今の医学では化学物質はどうだと云う回答が来るでしょう。東洋医学では期の流れの話などが出るでしょう。では、それらを支えるものは何なの?と追究していくと、言葉にできないものがある。DNAの話などもある意味で無粋。そのコードはどうやって組まれたの?どのようにスイッチが入り機能が発現するの?そこを考えなくても、DNAを編集できるソフトは既に公開されている。誰も疑問に思わない、コンビニ文明です。
心も同じで、やはりそれを支える何かがあるとしか。
結局、現象を観測者と分離して考えると、言葉で言えない何かまで辿り着かない。心の内で全てを一致させることができるものが科学の方法だと思うんですよ。
>十分に治せます。
否定はしないです。
>言葉で言えない何かがある
岡潔が追求したものが、それです。縄文哲学はもっと深いです。
>ある意味で無粋
同意です。
>現象を観測者と分離して考えると、言葉で言えない何かまで辿り着かない。心の内で全てを一致させることができるものが科学の方法だと思う
まるっと同意です。 某教育番組で「神の数式」なるものが出てきます。このとき研究者(観測者)は「己を除外」していることに気付きません。先の議論でも出てきたように、自身の頭脳という(量)がなければ「数式という概念」も成り立たない。人による数式や概念も宇宙の内だと結論づけられます。すると「神の数式」に矛盾を孕んでいることが理解できます。これに気付かない。 以前の結論「脳あるいは身体は(何かへの)コネクタに過ぎない」と同じです。
>神の数式
こんなのやってたんですね。タイトル見て「だっせーーー!!」と思ってしまった(笑)
数学という思考ツールを使って世界を解き明かしたいという科学者の気持ちがわからないから、こんなことになるのか。何というか日本人向けですね。天才の偶像を追わせてスタンピード現象を起こさせる。これでは理系離れなんて当たり前です。科学立国はバブル期までだった。
洋画はあまり観ません。矢鱈CGが多いからです。面白いことに天文学や素粒子物理学などの教養番組はCGが多用されています。何故なら五感で分かる範囲を越えている故にCGに頼らざるを得ないのです。CGを多用する=虚仮威しです。科学に興味が無くなる理由です。数学を使うのは精密ではあっても、高尚・高等ではありません。アランの云うとおり、真理はいつも簡単で理解が容易なのだと思います。心で受け入れられることです。ただし、12進数は理解できても使えない。本当にハードルが高い。