科学的でないことは、「考える値打ちもない」というのは誤り

何故なら、自然科学は間違っているからです。(これまでの考察により、言い切れます。) 「非科学的だ」という理由で考えることを放棄するのは適切な態度ではありません。 示している対象が実在しようが、しまいがオカルト(を信じている人)もスピリチュアル(系の人)も、あるいは悪魔崇拝(の人)も現に「在る」し、「居る」のですから、何らかの存在理由があるはずです。 すべからく説明できるのが真の科学だとするならば、これらも対象として「適切な説明が可能」なはずです。 考え抜いたあげく到達したのは、「すべては相対的だ」ということです。  絶対というのはほとんどありません。

管理人には、信仰や宗教も同じレベルです。信仰に浅い深いがあるのかどうか知りませんけれども、どんどん剥ぎ取っていくと、ほとんど何も残りませんでした。さえも縄文哲学においては、「カミ」という宇宙の仕組みを説明するものでした。右サイト内検索で「カミ」に関する記事をお読みください。

大切なのは、ほとんどいつも例外の中に次への段階へのヒントが隠されているということです。ですから、当然のこと自然科学対象外の事が多いです。 ヲシテ文献しかり、紡錘図形・足跡しかり、日月神示も参考になります。 歴史から葬り去られたファラデーの単極誘導は、物理現象として何かを含んでいることは確かです。 単極誘導モータは、五感で誰の目にもしっかり分かる現象です。 これら例外にこそ、次へのステップのヒントがあると考えます。(対していっぱい【企図した】ガラクタがあるのも事実です。)  お読みの方で、ヒッグス粒子が五感でわかる人はご連絡いただけますと有り難いです。皮肉ではなくて、どういう感覚で分かるのか興味があります。

参考図

日月神示に面白い記述があるのを知りました。次回に記そうと思います。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 雑感 タグ: , パーマリンク

科学的でないことは、「考える値打ちもない」というのは誤り への8件のフィードバック

  1. Π のコメント:

    「絶対」というのは
    「人間は
    宇宙の外側や端には行けない。
    宇宙の外側や端に行けたとしても
    そこが宇宙となってしまう。
    だから理論的に外に出ることも、
    考えることも出来ない。」
    という意味での
    「絶対」だと思います。
    西遊記に出てくる
    お釈迦様の手です。
    ですから「絶対」というのは
    存在すると思いますよ。

  2. Π のコメント:

    ヲシテ文献研究者の
    松本善之助氏と池田満氏は
    カタカムナ文献を
    「原典を公開しない、検証不能」として
    偽書認定していますが、
    その根拠の初出は
    1980年7月に上梓された
    「〔ホツマツタヘ〕―秘められた日本古代史」
    の196~199Pです。
    しかし、
    カタカムナ文献の原典と思われる
    カタカムナのウタヒ全80首は
    1980年10月に発刊された
    相似象学会誌第十号を皮切りに
    2003年3月に発刊された
    相似象学会誌第十五号まで掲載されて、
    解読されているようです。
    松本氏と池田氏は
    カタカムナ文献に対する偽書認定を
    現在まで取り下げていないようですから、
    恐らく、カタカムナのウタヒを
    精読していないと思われます。
    少なくとも松本氏は2003年に
    亡くなっていますので
    カタカムナのウタヒ全文を
    精読している可能性は
    非常に低いと思われます。
    何が言いたいのかというと、
    ヲシテ文献が真書であることと
    カタカムナ文献が真書であることは
    両立しうるのではないのかということです。
    そもそも
    真書か偽書かという思考自体が
    間違いだと言えるかもしれませんが。

    • Π のコメント:

      カタカムナのウタヒ
      (ヤタノカカミ図象の周辺に存在する文字)と
      ヲシテ文字の特殊文字「ア」は
      左渦(左巻き、左回り、反時計回り)で書かれ、
      カタカムナのヤタノカカミ図象
      (カタカムナのウタヒの中心にある円)における
      「ヒフミヨイムナヤコト」の数え方と
      ヲシテ文字の特殊文字「ワ」は
      右渦(右巻き、右回り、時計回り)で書かれます。
      これらは完全に共通していると見て
      多分間違いないでしょう。
      カタカムナ文献と
      ヲシテ文献は
      同じ本質を
      異なる表現で現したものだと思います。

    • Φ のコメント:

      >両立しうる
      同意です。 誰がどのように表現しようと、同じものの異なる表現になろうかと思います。極論として、木の切り株の模様が紡錘図形であってもよいです。
      例え松本池田氏が創作した物であっても、記された内容が大事です。

  3. 佐々木 のコメント:

    世に喧伝される「科学的」にはかなりの弊害があります。γ-GTPのことなんてそれまで誰も知らなかったのに、今では健康診断になるとその語が出る。健康病にかかったことに気づかない。それはさておき。
    3種の神器への形状から来るイメージは、
     剣=貫くもの、父性原理
     鏡=映すもの、母性原理
     勾玉=胎児、陰陽合わさったもの、現象
    Wikiには、陰陽太極図の作者はわかっておらず天地自然之図という名称だった、とありました。 ttp://ameblo.jp/arayofhopeforlife/entry-10529370375.html ttp://www.cory-p.com/chen/stc/10.html 真ん中あたりの図。八卦の元でしょうか。何かの図式化というのは工学的要素と切り離せないように思えます。
    天照が鏡に映った自分を見て岩戸から出てきた。この話は面白いです。鏡に興味を持ったのか、自分に興味を持ったのか。宇宙は宇宙自身に興味を持ち、新たな発見をしていくのだ、と言わんばかり。

    • Φ のコメント:

      自分のことが最も分からない。
      >剣=貫くもの、父性原理  鏡=映すもの、母性原理
      初めて聴きました。ヲシテによれば権力以外の何かの象徴であることは確かです。
      >勾玉=胎児、陰陽合わさったもの
      昨年、出雲大社へお参りに行った際、勾玉、管玉以外にもいろいろ種類があることを知りました。ヲシテ文献は漢字で捉えては踏み外しますので注意が必要です。タマがメ(雌)とヲ(雄)を意味するがどうか、今までに読んだ記憶がありません。
      >図式化というのは工学的要素と切り離せない
      同意です。
      >天照が鏡に映った自分を見て岩戸から出てきた
      ヲシテ文献ではアマテルカミは男です。正皇后はムカツヒメ(ホノコ)ですね。
      ttp://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-bc99.html
      天の岩戸などの神話は、何かの象徴のような気がします。漢字を扱う人たちの話ということになります。

      • 佐々木 のコメント:

        確定的には受け取らないでください。3種の神器や古事記などは物語を最小限知っているに過ぎません。機能・形状として伝えるなら何か?とイメージしました。真っ先に出てきたのが勾玉=胎児で、形状が陰陽魚(太極図の白黒で表されるアレ)と似ていることでした。
        あくまで工学ベースで考えています。ネガの図面を含めて、古来伝わる何らかの図は直線(剣)や円(鏡)が基礎になっていると感じるので(そしてなぜか幾何学です!)、それは電気や磁気の単極性・双極性など、自然を模式的に表したものではないか。だから、宇宙の力を表すものとして、その形状を装身具に採用したのではないか。
        民俗学ではよくある話でしょう。権力は人から人に与えられるものではなく、常に人を超えた何かから与えられたというのは、それのことかと。政治的な思惑が無いとしたら、万人が共通に知っている、宇宙の力を示す何かを身につけることを代表者の証としたのかも知れません。

        • Φ のコメント:

          >あくまで工学ベースで考えています。
          わかります。どう捉えるかは様々です。でも概ね神剣を持てば権力が手に入るという考えはありふれた話です。
          >自然を模式的に表したものではないか。だから、宇宙の力を表すものとして、その形状を装身具に採用した
          同意です。
          >宇宙の力を示す何かを身につけることを代表者の証とした
          私は逆の考えをします。カミの仕組みを理解し則った実践をするから、代表者たり得るのでして、それ(仕組み)を分かり易く、皆の目標にすべく考え出されたのがミクサタカラです。それがいつの間にか、三種の神器として「持つ者が権力者」と反転したと考えます。さらには歴史を都合良く書いて権力は神権(訂正:天命)として授かったとしたのが古来からの権力者の言い分です。だから発掘された碑文は考古学的には貴重でも、内容は例外なくつまらない。

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