紡錘図形を長く見続けていると「空間は曲がっている」らしいことに気付きます。 それも2種類あることがわかります。
- 遠くの天体が加速度的に遠ざかる運動をしていること。
- 微少な物質が互いに高速で運動していること。
1.は、よく知られているようにビッグバン理論の根拠としているところです。2.もよく知られています。 そのいずれもが「空間が曲がっている」ことによるのではないかと考えています。
今回書きたいことは、次の3つです。
- 空間が曲がっていることによって、遠くの天体が加速度的に運動していること。並びに極小の物質は、その距離(にかかる空間の曲がり)故に互いに運動していること。
- 空間が曲がっていることによって、時間空間という自然科学は、その適用に限界があること。
- 天文学的な距離があることによって、2つの物体における同時ということの意味は無くなること。同じ理由によって、量子もつれの突然死は起きること。
(1) 2016年11月30日 「宇宙が等しく膨張しているとするならば、ビッグバンはあり得ない」と書きました。 この記事の概要は次のようです。
- 宇宙背景放射並びに赤方偏移の分布が全天に渡ってほぼ均等ならば、ビッグバンの中心は地球だということになってしまう。
- 海上に浮かぶ船が遠くにあるとき船の帆先しか見えない。これは地上(平面)が曲がっているからである。
- 「2次元の平面が曲がっている」を空間に拡張すると「空間は曲がっている」になる。
この「空間が曲がっている」ということの説明がうまく出来ませんでした。 大きな疑問があります。宇宙が膨張していることを合理的に説明する場合、視点を宇宙の外に置いたことです。
図1
説明には右図が使われます。 これはどう見ても変です。左図のように孤立系の視点を拡張しただけです。宇宙という入れ物は、一体何処に存在しているのでしょうか。? 図が示されるだけで、そのような説明はこれまで見たことも聞いたことも、読んだこともありません。 入れ物が膨張しているのならば、その入れ物の入れ物は何なのでしょうか。さっぱりわかりません。 前回までにご説明したように、宇宙は「外の無い内」だろうと考えます。
図2
で、そのような宇宙の一部が「曲がっている」のだろうと考えます。
表1
冒頭に記した遠くの天体の運動が表1の右端です。極小の世界の運動が表1の左端です。「外の無い内」と考えられる宇宙が膨張しているということをイメージすることは出来ません。
これまでの考察の結果、物質的自然、あるいは物質空間は、存在ではなく投影による映像だろうと結論しています。 それは例えば、このような図です。
図3
我々は、映写機の前にいる観客ではありません。スクリーンの登場人物です。スクリーンが大きいか、はたまた小さいかを登場人物が知る術はありません。 スクリーンが大きくなるのではなくて、スクリーンの映像の一部が曲がるのに例えられます。 登場人物は遠くの天体を観るに、「曲がり」によって天体が加速度的に運動していることを知ります。この「曲がり」は、油絵で云えば絵の具の盛り上がった様子に例えられます。 この例えが、どれほど正しいのかわかりませんけれども、このような「曲がり」であれば、宇宙の何処に居ても、遠くは等しく遠ざかっているはずだと理解できます。 極微の世界も同じだと考えます。如何なる場所においても、原子より小さな世界は空間の「曲がり」によって、運動せざるを得ないのだと理解します。
紡錘図形は、弧理論による微少な世界を説明する原子模型ですが、同時に「外の無い宇宙」という極大の構造も説明しています。
(2) これまでの考察、主に数学者岡潔の言葉を考察することによって、時間と云う物理量は存在しないと結論づけました。 時間は運動から作ります。時間は過ぎ行く運動の記憶(あるいは記憶に基づく経験から来る)観念です。 つまり、物質的自然における(物質の運動という)現象から作り出したもの(観念)に過ぎません。決して物質空間とは別に時間が存在する訳ではありません。
また、時間は、人が持つ観念の一つだという性質上、人の感覚でわかるものである必要があります。 「人の持つ感覚でわかる」とは、「質量を持った物質の運動」が「感覚でわかる」ということです。 質量が無ければ運動はわかりません。 「E=mc2」の説明について、ある科学者が云った言葉は以下ででした。
物質はエネルギーに転換するし、逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。
この言葉は、 簡単に云うと「物質の質量と運動の関係」について説明したものです。端折りますが、この言葉から、得たのが弧理論の考え方の基本図形です。
図4
E軸上の実体が投影されることによって、M軸上に質量と位置と持って現れます。これが投影による映像だと考える根拠になっています。 この考え方が元で図3に示した映画のスクリーンの例えを用いました。 いろいろ考察を続けた結果、上記の言葉を言い換えたのが次です。
物質は運動Pに転換するし逆にもなるというが、本当は真のエネルギーを持つE軸上の実体の異なる面に過ぎない。
図4の投影角は90度として描いています。この投影角が鋭角になるにつれて、投影された映像は運動Pとして現れます。運動Pが増すにつれて、質量は次元を失い見えなくなります。投影角がゼロのとき、物質は質量を測定できななり、すべて運動Pとなります。
図5
で示す運動P3が「全て運動」の状態であって、質量を測定して決定することはできません。これは人の感覚でわからない状態です。 つまり、時間は、運動から作った観念に過ぎないので質量を測定で決められない運動P3においては、意味を持たないということです。
この運動P3の状態が表1の右端と左端の状態です。つまり、もの凄い速さで遠ざかる天体について人が経験から持つ観念に過ぎない時間は意味を持たないという事です。同様に、電子より小さな世界の出来事も時間は意味を持たないという事です。 これまでに何度か記したことですけれども、時間を用いた数式によって得られた理論と「実験の結果得られた事実」が合理的で整合がとれていたとしても、表1から一歩も出ることは出来ませんし、理論も実験も意味を失います。これが時間を用いた自然科学の適用限界だということです。 この様な解釈は、冒頭の「空間は曲がっている」というところから辿り着いたものです。
(3) 管理人は、相対性理論を読んでも「同時」ということの意味がわかりませんでした。手元にあるのは「相対論:平川浩正著」ですが、古本でも結構な値段するので驚きです。
先日のコメントで頂いたのは、次の言葉でした。
>2箇所における同時
ビリヤードで2つの玉の真ん中に打つ。
なるほど、と思いました。
図6
ところが、上図の距離L1とL2が問題です。例えば、周囲に何もない空間において、手元から発した2つの物体AとBは、等速で離れて行きます。見通しの距離ならば問題ないのですが、天文学的な距離になると空間の曲がりによって、互いに非線形の運動(互いに等速ではなくなる。)になります。これによって同時の意味は失われます。あるのは互いの運動だけです。
例えば、2つの電子が同時に放たれたとします。電子の大きさ(※ここでは便宜上、古典的な大きさとします。)と比較して原子や分子の大きさ位まで離れたとしますと、「空間の曲がり」によって、互いに非線形の運動(互いに等速ではなくなる。)になります。これによって2つの電子の間における同時の意味は失われます。これが量子もつれの突然死だと考えます。 光子の場合は、電子の突然死よりも、距離を伸ばせるのではないかと考えます。光子は遠隔にある電子に運動を引き起こします。
ついでながら、物質的自然が投影による映像ならば、双子の光子の間、あるいは電子間に情報が伝わることの理解は容易です。投影元に全ての情報があるからです。スクリーンの映像上に情報元が無いのと同じです。映像は画素の集まりです。投影元は、投影によって情報をスクリーンの如何なる場所にも与えることが可能です。距離は問題ではありません。
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