縄文哲学について、調べ学ぶ前に「日本教」について調べたことがありました。 2015年8月の聖書の原罪とは何か?日本人には関係ないや2015年9月の漢字伝来以前に文字は間違いなくあったなどの記事です。
そのとき掲載したのが社会学者小室直樹氏による
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動画1
でした。 動画1では、司会者が「日本人には神様はない」という言葉に小室氏は同意しています。また、小室氏は、日本人は「何者にもなり得ない」と述べています。ただそこで日本人の特性を「日本教」という言葉に置き換えて議論を終えています。
日本人は「何でもあり」で、何でもコピーします。 しかも元のモノとは似ても似つかぬ何かに変えてしまいます。 管理人は、まるで何でも丸呑みする
写真1
カオナシに例えていましたけれど、その理由までは分かりませんでした。
2015年後半よりヲシテ文献について調べるとともに、文献に書かれた縄文哲学を学んでいます。その結果、池田満氏によるヲシテ文献に記されている「カミ」の定義について、
カミとは、「繋がり・齎もたらし・生じさせる」
だと知りました。 これを宇宙の仕組み(アウワ)と繋げますと
「ア」と「ワ」は、つながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。だから「ヒトハ アノモノ」であり、「ヒトハ ウナリ」。
幾何図形で示すと
図1 右
となります。 ただし、最後の「ヒトハ ウナリ(人は原子で出来ている)」の部分は、管理人による補足です。これに弧理論の考え方を繋げて、詳細に書き下しますと
「見えないエネルギーあ」と「見えない物質わ」は、つながり、「見える物質う」をもたらし、「見える物質う」より「人」を生じさせる。だから、「人は、見えないエネルギーあのもの」であり、「人は、見える物質うである。」
となります。 一言で云えば、縄文哲学における「カミ」とは、宇宙の仕組みを示しているということです。縄文哲学の「カミ」と弧(Ark)理論の関係についてを参照ください、
日本人以外の人たちの持つ「神」と日本人の心の深奥にある「カミ」とは根本的に異なるということです。 これは無神論とは異なります。 無神論は、神が存在することを前提としています。 だから、「日本人に神様はない」と云えるのです。 ※ただ、アメノミヲヤだけは別です。何を意味するのか、どこから出てくるのか、現在のところ理解できません。
カミという宇宙の仕組みが在るというのは、仏教もイスラム教も、あるいは神道さえも含めて「宇宙の仕組みの内」だということを意味しています。だから「何でもあり」なのですし、裏を返せば、「何者にもなり得ない」ということになります。 宇宙の仕組みの内にヒトを生じさせるということは、人を中心として、神や仏さえも人の都合によると考えることが出来ます。
管理人はこれまで、大戦で死した英霊を靖国神社に祀るということの意味が分かりませんでした。この人が死すれば神と祀りたてるの意味は、恐らく次の通りです。 縄文の時代には、カミの仕組みを理解し実践した人々の治世(カミノヨ)でしたが、争いが増えてシャーマニズム(神頼み)が台頭してくるとともにカミの仕組みを忘れ去った人々による治世(ヒトノヨ)となりました。以来ずっと日本に神頼みの時代が続いています。(これが自覚のないお金への信仰です。) 古来より日本人にとって、カミとヒトは地続きだったのです。人は死してカミという宇宙の仕組みに返るのですから、カミと祀るのです。これは神と混同しては成り立たない理屈です。
ついでに申せば、数や言葉の概念さえも「カミ」の仕組みの内です。それを媒介するのが想念です。数や言葉の概念もわずかばかりのエネルギー(次元に時間を含む[ML2T-2])が必要です。アウワのウ、即ち(物質・原子・エネルギー[ML2T-2])があってこそ、我々の思考があり得ると考えます。 紙媒体に設計されたアセンブラやコンパイラが電算機ハードがあって初めて機能するのに似ています。 それには、思想信条宗教哲学数秘術魔術占い、ありとあらゆる人の思考を含みます。ですから、「宇宙の外」という人の思考に何らかの意味は見いだせません。スパコンにて地球をシミュレートできますけれど、本当の地球とは異なるのと同じです。
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現実と仮想の話。
アインシュタインは
光(現実に存在する実在物)と
時間(仮想に存在する概念)を結び付けました。
その結果、
時間(仮想に存在する概念)を
現実に存在する実在物のように
扱うことが出来るようになった反面、
時間(仮想に存在する概念)に
縛られている人々は
光(現実に存在する実在物)の速度以上の物事を
認識することが出来なくなりました。
本来、現実が先に存在しなければ
仮想は存在出来ないし、
現実と仮想は全く異なるものです。
なのに、彼は現実と仮想の区別を
破壊してしまいました。
その結果、
彼の理論に基づいて
造り上げられた物理学は
現実と仮想の双方を含むようになり、
時代が下るに従って、
仮想の色合いが強くなります。
その結実が
「ビッグバン理論」「量子力学」です。
実際の地球(現実)と地球儀(仮想)が
全く違うのは誰でも分かるのに、
実際の「時」(現実)と「時間」(仮想)の違いが
分かる人が非常に少ないのが本当に不思議です。
アニメ、ゲーム、漫画、
映画、ドラマ、小説、演劇、
マスコミ、学問、教育、
インターネット、コンピューター、
スマホ、タブレット、ケータイなどの
「現代の文明の利器」は
「仮想」の概念を多く含む「現実」ですね。
所謂「仮想現実」、「バーチャルリアリティー」です。
去年流行した
「君の名は」も
「Play Station VR」も
「ポケモンGO」も
「現実」に「仮想」が
大きく入り混じってしまう
「現代」の「病理」の「象徴」であり、
アインシュタインや
彼の流れを汲む物理学者たち、
また通貨発行権を握っている連中や
お金持ちの連中が招いた
「結果」の「現実」なんですよね。
彼らや彼らに無自覚に引っ張られている人々には
確実に責任がありますが、責任を取ることは無いでしょう。
標準的な今の大多数の現代人は
「現実」と「仮想」が
入り混じっている「病的状態」に
置かれていると思います。
「精神病患者」と全く同じです。
岡潔氏の「情」は
同氏が指摘した「時」や「量」と密接に関連し、
岡潔氏の「知」は
同氏が指摘した「数」や
自然科学の「時間」という概念と
密接に関連していると思います。
前者は本当の地球、実在物だと言え、
後者はスパコンでシミュレートした地球、
地球儀、時計、地図、座標に代表されるような
人間の「利便性」の為に造り出された
「概念」、「道具」、「機械」だと言えます。
「相対性論物理学者に捧ぐ」の筆者は
「空間」を
”広がり(アプリオリに存在する実在物)”、
”座標(人間の「利便性」の為に造り出された数字上の「概念」)”、
”真空(「空間」そのものの物性)”の
三つに分類して定義すべきと主張していますが、
同様に「時間」も
上記の三つに分類して
定義すべきだと思います。
実在物と概念と実在物そのものの性質(物性)は
全く違うことを明確に意識すべきです。
岡潔氏の「情」、「時」、「量」は
現実の実在物です。
岡潔氏の「知」、自然科学の「時間」、岡潔氏の「数」は
仮想の概念です。