「分ける」ことにより「分かる」のは、「物と事の関係性」であり、行き着くところは「統合失調(分裂)」だろう

うまく書けるかどうか分かりませんけれど、やってみます。

自然科学は、五感による刺激によって感じる「物や事」を「分ける」ことによって、「分かる」ようにするのが目的です。 自然科学の対象とする「物や事」は、岡潔のいう「意識を通す」「言葉で言える」ものが対象です。 「意識を通さない」「言葉で言えない」物や事について、彼ら自然科学者は「無いとしか思えない」のですから、何も考えていないということになります。

図1

の様に、物や事を分類整理することにより、物や事の本質が「分かる」と思っています。しかし、実際は、研究者が全体を見渡すことが出来なくなっています。いつも引用するある科学者の言葉を示します。

我々は科学者たちが既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果遠い道のりを後戻りしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと易しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気付かないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事うまくゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。同様に知識の探求者は常に確固たる者であった。基本的法則がいまや分かれ始めて、反対の方向に散らばり始めていることに気付く。すると科学者は心によって受け入れられる知識の限界に近づいていることや、あらゆる物理的法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。これは地下鉄の列車に乗って行くようなものだ。たぶん最後には目的地へ着くだろうが、どこへ行くのかがわからないために、同じ場所へ着くのにもっと短くて容易な方法があることを確かめることができない。

ある科学者の言った、「あらゆる物理的法則は究極的には全く統計的なものになる」というのは量子理論のことを云っています。 ある科学者の物の言い方は穏やかです。けれども管理人は、自然科学の行き着く先は「統合失調(分裂)」になるだろうと考えます。唯物主義者たる自然科学者は、心で受け入れることができない分裂的(統合失調)な状態でも「平気」なのです。

「物や事」を「分ける」ことにより「分かる」のは、物や事の本質ではありません。分ける事により分かるのは物や事の関係性が分かるのです。

以下は例え話です。

写真1

について、考えます。写真1の物は、言葉で言えます。 これは匙(さじ)です。 その意味を理解するために辞書をひきます。ここでは、goo辞書を使います。

図1

辞書を一回ひくことにより①を得ます。アンダーラインを引いた語の意味が分かりませんので、もう一度辞書をひきます。すると②が得られます。しかし、②で得られた中にも分からない語が含まれていますので、3度目の辞書をひいて③を得るとします。さらに、これを繰り返します。

ここで、②あるいは③の段階で、当初の写真1の意味は「分散、拡散」あるいは「分裂」して、霧散してしまいます。よく見ると「匙(さじ)」は辞書で「スプーン(spoon)」とあり、「スプーン(spoon)」は辞書で「匙(さじ)」であるとされています。 つまり、「循環」であることがわかります。 そのほかにも循環があることに気付きます。例えば匙(さじ)の①にある「すくい」は、②のすくう(掬う)に元の語である「さじ」を含んでいます。  私たちが辞書を使うのは、「知らない語の意味を調べる」「忘れた語の意味を思い出す」のが目的であると考えていますけれど、それは違います。 辞書は、物や事の関係性を書いてあるのです。

(余談ながら、確か1980年代ころのこと、人工知能AIの研究が始まった頃、知識データベスさえできれば人工知能はできると考えられていました。結果はうまくいきませんでした。医師の診断支援システムやファジーコンピュータなどが当時の研究成果だったと記憶しています。)

自然科学の各分野は細分化され、専門化されています。他分野の科学者が何をやっているのかを知ることはできない状態です。だからといって専門家が「物や事」の本質を理解しうるかというと、できないと考えています。 「分ける」ことにより「分かる」には、限界があります。

過去に「基本粒子は、無個性だからこそ、概念と言葉が生じ得る」と記しました。これは「物や事」に本質が無いということを意味しています。 物や事に本質はなく、かつ言葉にも本質はないということです。

では、本質はどこにあるのか? 冒頭で除外した「物や事」の内、「意識を通さない」「言葉で言えない」ものの中に本質があるはずです。  数学者岡潔の言葉を引用します。(リンク先のページを表示します。)

日本人は情の人である。・・・・ 人は、「意識を通さない」「言葉で言えない」により「物や事」の本質が分かると考えます。

数は量かげ。・・・・ 言い換えると、「言葉」は「物や事」の「かげ」だと考えます。

自然数の「1」は決してわからない。・・・・ 基本粒子が無個性であるからこそ「言葉」や「数」が生じると考えます。ヨソヤコヱ(48音)、アワノウタにあるア~ワも決してわからないと考えます。

大宇宙の本体は情である。・・・・ 人の本体が情であり、かつ大宇宙の本体に等しいならば、縄文哲学にある「タマ」に近いと考えます。詳しくはわかりません。

自然科学の無知 ・・・・ 「物や事」のほんの一部分を対象にしているとの自覚が必要と考えます。

 

もう少し別の表現をします。

紙にコーディングされた(コンパイラ、アセンブラ)  コンピュータ(ハード)  情報処理

言葉  ヒト(ハード)  物や事に対する活動

を対比させて考えます。

紙にコーディングされた(コンパイラ、アセンブラ)は、そのままでは使えません。コンピュータというハードがあって初めて処理が可能です。同様に「物や事」の関係性を表した「言葉」や「数」は、人間というハードがあって初めて「物や事」に対する行動や活動ができます。その対象は、「意識を通す」「言葉で言える」「物や事」です。

仮にロボットに「寝返り」をさせる必要があったとします。コンピュータでいうところの「スリープ」や「halt」あるいは「nop(no operation)」の処理では、ロボットに寝返りをさせることはできませんけれど、人は寝ていて意識が無くても寝返りを打ちます。 物や事、あるいは言葉や数に本質はないようです。情は休んでいるのではないし、停止しているのでもありません。意識を下支えしていると考えてよさそうです。

ついでながら、意識に対して無意識といいます。 これはおかしな言葉です。 リンゴとは何かを説明するとき、 「リンゴとは、無リンゴ以外の物」と云っているのに等しいです。意識に対する無意識では、何も説明していないのに等しいです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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「分ける」ことにより「分かる」のは、「物と事の関係性」であり、行き着くところは「統合失調(分裂)」だろう への2件のフィードバック

  1. 千田 のコメント:

    パラレルワールド、異次元(別次元)、異空間(別空間)、世界線、タイムリープ、タイムトリップ、ループといったSFの架空の概念がまさにその「統合失調(分裂)」の典型的な症状ですね。「物や事」を「分ける」ことにより「分かる」「理解」の手法を「広がり」、「空間」、「次元」、「世界」に対する「理解」において絶対に捨てたくないが故に、そういう病的概念(妄想)を人々が許してしまってる。しかも喜々になって受け入れてる節すらある。「物や事」を「分ける」ことにより「分かる」「理解」の手法を捨てれば簡単に解決する問題なのに、それは自分達の「理論」「教義」「仕事」「お金儲け」「生活」「趣味」に反するから絶対にやりたくない。どこか狂ってますね。

    • Φ のコメント:

      同意です。井口和基氏もブログで、素粒子物理や宇宙物理を紹介する番組はCGばかりで「妄想」に近いと書いています。極大の世界も極小の世界も人の五感で分からない範囲になります。これまでの考察から、この範囲は「物理現象」としてフェードアウトしていると思います。あとは妄想に頼るしかありません。 私は、人というのは結構「ベタ」な存在だというふうに感じます。「具体」から離れてはいけないと。ある科学者が述べたように「心に描ける」必要があります。
      >自分達の「理論」「教義」「仕事」「お金儲け」「生活」「趣味」に反するから絶対にやりたくない。どこか狂ってますね。
      私の恩師の云う「考え方が不健康」そのものです。

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