数学者岡潔の言葉について、次の2点について考えた上で、その場合における「無限大とは何か」を考えます。
- 数は量のかげ
- 不安定な粒子にについて、「自然は存在ではない。少なくとも一部は映像と云ってよい」
(1) 数学者岡潔の言った「数は量のかげ」というのはとても意味が深いものと感じて、過去にいくつか記事を書きました。いろいろ考えますに、「量があるからこその数だ」とも考えられます。
人は数や数式などを思考するとき、あたかも数や数式が「物質的自然」とは独立に存在すると錯覚しています。
写真1
人の思考は頭脳によります。特に前頭葉と記憶を司る海馬の連携によるところが大きいようです。脳はタンパク質などで出来ています。タンパク質は元素の組み合わせによります。元素は原子によりますし、原子は「陽子・中性子・電子」で出来ています。 詰まるところ思考は、生理的な電気の流れに依存していることは誰も否定できません。 つまり、数や数式などの思考は物質的自然の持つ量があって初めて成り立つものです。 コンピューターでも同じです。例え紙に書いた数式でさえ、必ず某かの量を伴います。 量があってこその数なのです。決して物質的自然と独立に存在するものではありません。
(2) 岡潔は【3】西洋の唯物主義において次のように述べています。
大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。
実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。
自然は存在ではなくて、少なくとも一部は映像だと述べています。 これまでの考察によれば、全ては映像だと考えられます。
写真2 出典:ついに、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)の実験が本格的に始まります!
に示す陽子衝突実験によれば、「陽子衝突→陽子崩壊→素粒子生成」 だとされます。 けれども、その過程で媒介するクオークは単独で取り出せないとされます。この点に大きな矛盾を感じます。 むしろ「陽子衝突→陽子消滅→素粒子発生」だとする方が合理的です。 つまり、陽子は存在ではなくて、映像だと理解した方が納得できるのです。 中性子も恐らく映像でしょう。
電子はというと、質量を持つ粒子でありながら、ときには電子波であり、障壁を越えて現れます。これも多面性を持つ映像だと云えそうです。量子もつれに至っては映像だと考えざるを得ない現象です。(過去に何度か、重要なのは距離ではない。投影の映像にかかる角度だと書きました。この投影角によって様々な姿を見せるだろうと過去に考察しました。)
以上をまとめます。
- 何らかの量があって、数の意味があること。人の思考があること。
- 量を持った物質的自然とは、存在ではなくて映像だということ。
1.について考えるとき、神の数式などというのは何処か変だという事に気付きます。
写真3 出典:NHKスペシャル「神の数式」より
宇宙を記述したという数式が宇宙の量に依存しているのは矛盾です。 2.を併せて考えると、我々の思考そのものが映像であることになります。
では、映像とはどのようなものか。
図1
を想像しますけれども、これは誤りです。 視点が観客ではありません。我々は映像です。
図2
我々はスクリーンの登場人物であるという事です。 映像たる我々が無限大を思考しても投影たる空間(スクリーン)を超えることはありません。 自然科学者が考えた物質的自然、即ち宇宙は広大無辺ではあるけれども映像です。 映像である我々にとっては「実際上」広大無辺である訳です。これが開放系のモデルです。 これが「弧理論が開放系のモデル」だということの説明になります。これが別の次元軸を考える根拠です。「客観的に観る」ということは、図1の視点ですが、これではダメだと気付きます。孤立系の視点だからです。孤立系をいくら拡大しても孤立系のままです。
何度か取り上げている「外の無い内」という考え方は開放系のことです。
図3
この考え方は、図2において成り立つことがわかります。
映画の登場人物がタトゥイーンに行こうが、
写真3 出展:いよいよモス・エスパ タトゥーイン星へ
デススターにのりこもうが、
写真4 出展:デススター
彼らにとって宇宙は広大無辺なのですが、行動や思考そのものに映像としての限界があることがわかります。彼ら登場人物の全ては、映像にはありません。投影元にあることは自明とでも云えることです。
まとめます。 開放系のモデルは、投影による映像だということにおいて成り立つだろうと考えます。 映像である我々にとって物質的自然は、広大無辺であることは事実ながら、その思考や行動には映像としての限界が存在します。メタ客観視(図1より図2の視点)とでもいうべき思考が必要だということです。
ここからが伝えたかったことです。 弧理論の考え方の基本形は
図4
です。E軸上の実体が投影により質量を持つ物質の位置が決まるということです。映像そのものです。 考察の出発点は紡錘図形でした。
図5
この図は、弧理論(Ark Theory)による原子模型でした。そして、図5を中心とした宇宙図が足跡です。
図6
図4~図6は、いずれも開放系のモデルです。即ち、「外の無い内」を示しています。 2012年ころから図6について、「宇宙の外については、一切言及していない」と何度か記してきました。 この表現がもどかしくて、適切な言葉を探し続けてきました。 やっと見つけたのが「外の無い内」でした。※山崎弁栄記念館の中程の記事を参照ください。
ヲシテ文献を参考に図5を解析した結果得たのが次の図でした。
図7
この図は、図1の観客の視点で描いたものですが、図7を映像の登場人物側として描いたものが図6に示す足跡図です。 2つの中心(アとワ)があり、2つの中心からの投影によってM軸(という映像)ができています。 M軸上の映像から観た中心は2つありますから、図6のように両方の足跡になります。(足跡のどちらがアであり、ワなのか現時点で判別していません。) 映像である我々から観て投影の元(中心)は、全方位にあります。特別の場合を除いて方向を特定できません。 開放系のモデルを理解するのはかなり難しいです。
特別の場合を除いてM軸上の我々はE軸の方向を特定できないことについて補足します。定義では、E軸はM軸(物質空間)に直交しています。4つの次元軸は、4つの3次元空間に分けられます。
図8
M軸上の我々は、x、y、z のどの方向に運動してもE軸は直交しています。ですから、E軸がどの方向にあるかを特定できません。 ところが図8左のようにxy平面での回転運動だけはz軸方向にE軸が重なることがわかります。 回転軸の方向にE軸が重なりますから、E軸上の実体に何らかの作用を及ぼすことが可能なのは、唯一、回転運動する電子機器あるいは機械装置だろうというのが管理人の到達点です。 物質空間が(投影の仕組みからくる)何らかの緊張を持っており、かつ開放系であるならば、所謂フリーエネルギーなる装置は回転運動する機械装置によって実現可能だろうということです。 ※記事に直接コメント可能です。
追記 自然科学者たちが追求する物質的自然が存在ではなく、投影による映像であるならば、要素に分ける行為には終点があるはずです。 要素の最小単位を映像に例えるならば、画素に相当します。 弧理論においては、要素の最小単位は陽子・中性子・電子だと考えます。(その他多くの素粒子は破片に過ぎません。投影という仕組みによる多面性の表れだと考えます。) 当サイトでは、この3つの粒子を基本粒子と呼んでいます。 物質空間という映像にかかる画素です。 ですから要素還元主義には終端があります。「分ける」ことによりわかるという行為には、限界があるということです。2017年11月3日の記事「唯物主義者は要素還元の「終点」に気付けない」を参照ください。
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自然数は、[絵本][もろはのつるぎ]で・・・
? 意味不
『自然比矩形』は、左縦辺[1」横(底)辺[eー1)」の長方形で。右縦辺は、1/e と 1-1/e に分割します。
左縦辺と横(底)辺の比は、 1/(eー1)
右縦辺の分割比は、(1/e)/(1-1/e)= 1/(eー1)
となり、直交比(2次元比)と直線比(1次元比)が同じに生るお話です。
岡潔「数は量のかげ」は、正比例・反比例を『自然比矩形』で観照すると
自然数が、縮約(縮退)されたような(内包)自然数を素朴に示唆できよう。
コメントありがとうございます。
>観察・・・縮約・・・素朴に示唆
もっと単純に考えます。ソフトはハードの裏付けが必要と考えます。人の思考と人というハードとの関係も同じと考えます。思考としての「数」も「量のうち」、即ち量があっての数と考えます。神の数式なるものが存在します。そのような数式は人が居てこそ意味を持ち得ます。自己を排した(含まない)理論は無意味と考えます。開放系には自己も含むのです。弧理論は人の思考の仕組みを(縦と横の経路として)含む開放系理論です。開放系を考える際には、余分な次元軸を持ち出して投影による映像だと考えることは有効だと思います。数式において空間時間について積分しても開放形に至らないと考えます。そこ(数式)に自己を含んでいないからです。
惑星は太陽の内側を回っている。最近そんな発想があります。
小さいものが共通な何かを持っていて大きなものをつくりあげる。これを逆にして、大きなものが分化して小さな様々なものになっていくと考える。
太陽系対太陽系は運動が定義できる。では、太陽対惑星は定義できるのか。空の白い丸いものを太陽としているけど、その境界を可視光で区切るのが妥当なのかどうか。どこからどこまでが太陽なのか。
太陽が惑星を引き連れて太陽系を成しているのではなく、運動の定義が確実な方から見れば、太陽系の内側を覗くことで初めて、太陽と惑星という構造があると知る。階層とはそういうものです。
ダメな設計物では、階層の意味が無くなる程、グローバルな変数が各層に紛れ込んでいます。同じ事が物理でも起きているかもしれません。素粒子への還元がそうですね。
要素還元の考える向きは実は逆で、大きなものに還元していくのではないかな。運動の相対性と階層構造から、こちらだと思う。
うーん。紡錘図形を眺めていると、「小は大を兼ねる?」と感じます。原子の成り立ちそのものが宇宙を形作っている仕組みの現れだと感じます。
>その境界を可視光で区切る
鳥獣戯画は線画です。ディズニーのカラーアニメは境界線がありません。文化の違いを感じます。
>ダメな設計物 ・・・・ グローバルな変数が各層に紛れ込んで
井口和基氏はブログで「物理学者は数学オタクで、本当は物理のことをわかっていない」と書いていました。理論と実験が合致しているからといって、正しいとは言い切れないように思います。見えているモノと仕組みとが異なることがある。見えているままに記述するととんでもなく複雑になる。その際には、無意味な階層と変数が必要になります。万華鏡の見える様を数式で表そうとするようなものです。これが投影による映像だとすると途端に簡単になる。複雑な結晶構造やフラクタルな現象も投影角と投影の多面性により理解が簡単になりそうです。
>同じ事が物理でも起きている
同意です。紡錘図形が原子を表しているらしいと早い段階で気付いていましたけれど、まさか宇宙の仕組み(カミの仕組み=2つの円の重ね=投影による映像の仕組み=空間の成り立ち)に直結しているとは思いませんでした。
>運動の相対性
アインシュタインの相対性理論について。表題が「相対性」となっていながら、ちっとも相対的ではないと感じます。これは皮肉です。どこから着想を得たのかわかりませんけれど、結論ありきで理論付けしたのではないかとも感じます。
大→小、小→大のどちらも各階層の似姿を考えるのは同じですか。
>見えているままに記述するととんでもなく複雑
ギターの弦を弾いて、音の原因は振動部なのか、弦を留めている端なのか、穴の部分か、共鳴している本体か、個別に考えるようなものですね。
>万華鏡の見える様を数式で表そうとする
三球儀や太陽系儀は優れた模型で、階層構造をうまく表しています。関係性を示すギアがある。対応するメカニズムがあって、その後に数量化できるわけで、数式一辺倒なのはいまいち。
作図で考える宇宙の方がわかりやすい。 ttp://blog.livedoor.jp/art32sosuu/archives/70812761.html
>各階層の似姿を考える
万華鏡を見るに、階層を考える内に、まったく異なる仕組みだと気付くのであって、方向ではないように感じます。どこかの段階で止揚があると思います。アランが幹の分岐点まで戻れと云った上で「一つの実体の異なる面」という「投影による映像」だとまでアドバイスしました。岡潔も先達が映像だとしたことを受け入れようとしていました。投影による映像だという線は、止揚であって、受け入れ難いことながら大きな可能性だと思います。
>音の原因・・・・個別に考える
そうですね。過去に「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか」と書きました。「鐘と撞木の相が鳴る」というのは少し腑に落ちません。原因を遡っていくとM軸上に原因は見つかりませんでした。
>関係性を示す
そうですね。関係性に囚われます。国語辞書の「匙とスプーン」の関係です。【「分ける」ことにより分かると思っています。分ける事によってわからないものはどうかというと、そういうものは無いと思っている。「無い」と云っているのではありません。「無い」としか思えないのです。だから仮定とも何とも考えていませんから。だから、それについて検討することはしません。】ttp://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-shizen03.html
すべて映像だとわかれば、画素に本質は無いことがわかってきますし、関係性の中にも本質は無いと悟ります。電子が粒子であり、波であって、障壁を越えて現れる。しかも双子の電子に至っては離れても関係し合うということの関係性はとても理解できません。(投影元にあります。)
>作図で考える
同意です。数学が出来ないので助かります。たぶん空間の性質にかかわるのだと考えます。つまり、日常にサブセットとして入り込んでいる。映画の仕組みに似ているといえば、誰にでもわかります。
ところで、2016年と2017年でカミの仕組みが大まかにわかってきました。各要素も出そろっているようです。そろそろ弧理論によるフリーエネルギーの仕組みを考えようと思います。今年、開放系の意味が理解できてよかったです。「外の無い内」と一言で言えます。
止揚。確かにそういうのもあるかもしれません。
宇宙は一つの弦であり、分化して空間を形成するというのも、ある種同じです。
しかし同時に、万能性を仮定して棚上げをしてはいけないんだろうとは思います。
>万能性を仮定して棚上げ
確かに。何でもこじつけになってしまいますね。ただ、私が目指していることの方向は、引用してきたある科学者や岡潔の言葉に合致しています。もっと云えば、縄文哲学に通じます。G・アダムスキーの資料に端を発していますが、単に偏屈だから故に興味を惹く記事を書いているのではないつもりです。前に書いたとおり、切り口の筋が良ければ広がりますし、深く追求できるでしょう。でなければ直ぐに詰みます。
昨年までに仕組みの概略はわかりました。今年は物質科学の一端である単極誘導、ことにモーターについて研究を進められればと考えます。有名な外村彰氏の実験で残ったのはベクトル・ポテンシャルだとされますが、電子線が影響を受けたのは磁石を構成する原子核からではないかとの仮説を持っています。外部に磁力線が漏れない磁石で単極誘導の実験が出来ればと考えますけれども、そのような磁石を個人で作れるはずはありませんので、別の方法がないか模索しています。