数学者岡潔は、自然科学者が研究している対象を「 物質的自然 」と呼びました。 紡錘図形について、永く研究しているとM軸(物質空間)には、その原因となる物や事が一切ありません(見つかりません)。
紡錘図形は、開放系の模型です。開放系とはM軸(物質空間)が余分な次元軸であるE軸上の実体からの投影による映像だという考え方です。
図1
管理人は、岡潔が云った 物質的自然 と弧理論の考え方に示すM軸(物質空間)は同一と考えています。 M軸(物質空間)には、その原因となる物や事が一切無いと考えると、物質的自然にも物や事についての、原因は一切無いと考えざるを得ません。
自然科学は孤立系の学問です。知りたい対象を常にブラックボックスと考えます。
図2
ブラックボックスにおいて成り立つことは、思考的にも(数学的にも)、全空間に渡って積分すると開放系のそれに等しいと無条件で考える様です。しかし、孤立系をどれだけ拡張しても孤立系のままです。
放系系とは、外の無い内です。
図3
例えば、重力は物質の質量によって空間が歪むことによるとされます。次の図は、よく説明に使われます。
図4
これだと何に対して空間が歪んでいるのかわかりません。ビッグバン理論に使われる図も同じです。
図5
いったい視点はどこにあるのでしょう?視点が孤立系から抜け出せていないのです。
また、自然科学者は、わかる(理解)為には、「分ける」ことが必要と考えます。分ければわかると考えています。
図2
しかし、「分けられた部分」は、相変わらずブラックボックスのままです。
その良い例が人工知能です。とても強い将棋のプログラムを作った作者自身は将棋プログラムに勝てないと云います。 コンピュータ内部でどのようになっているかよくわからないようです。ブラックボックスのまま人工知能は可能だということです。(過去記事に書きましたが、人と人工知能の違いは「気付く」仕組みが在るかどうかにあります。)
物や事の間にある関係性(リレーションシップ)にもその本質はありません。辞書にて「匙さじ」を調べて、最後に「スプーン」と書かれてあります。「スプーン」を調べて、最後に「匙さじ」と書かれてあります。知られているように知識データベースができても人工知能は出来ませんでした。 物や事の本質は、そのものや関係性の中にないからです。
「分ける」ことにより「わかる:理解する」ならば、素粒子あるいは超ひもに行き着けば「わかる」はずです。しかし、究極的に何か掴めた感じはまったくしません。素粒子あるいは素粒子の関係の中には本質がないからです。
何故、そのようなことになるのでしょうか?原因が 物質的自然 の中に無いからです。 物質的自然 が開放系だと考えることによって疑問は解決します。 これまで考察してきたように、物質的自然は「余分な次元軸からの投影による映像」だと考えることによって多くのことがうまく整理できそうなことがわかっています。 過去の記事を参照ください。 疑問点もありますが、大雑把に書き出します。
- 物質(の質量)と運動Pは、一つの実体の異なる面である。(物理学でいうエネルギー[ML2T-2]を弧理論では運動Pと呼ぶ。特殊相対論にあるE=mc2の新しい解釈。)
- 電気と磁気は、一つの実体の異なる面である。
- 運動Pと”波”は、一つの実体の異なる面である。(1.の別の解釈)
- 陽子に内部構造はない。衝突により「消滅」し素粒子が発生する。陽子が映像ならば理解が容易。単独で取り出せないクオークは不要である。中性子も同じ。
- 電子が見せる様々な性質は、投影による映像だとするならば理解が容易である。
- 特に量子もつれは量子力学としての解釈にムリがある。
- 安定な粒子である陽子・中性子・電子のいずれも映像である。
- およそ200あるとも云われる素粒子の分類に意味を見いだせない。素粒子は破片に過ぎない。
- 孤立系において、原因と結果の組み合わせを考えたときにどれだけ遡っても最初の原因を掴めない。原因をビッグバン理論に求めるのは、孤立系として破綻している。
- 力の原因も同様。衝突の原因を遡っても際限がない。
- 余分な次元軸をエネルギー軸と呼ぶ。真のエネルギーを持つ実体が余分な次元軸上に在ると考える。
- 実体が投影されることによって、映像として現れる。
- 岡潔は、山崎伝栄上人が云ったということを紹介している。「本当に実在しているのは心だけ。自然は心があるために映写されている映像にすぎない」【3】西洋の唯物主義
- 岡潔は、不安定な素粒子をして「自然は存在ではない。少なくとも一部は映像と云ってよい」と述べた。【3】西洋の唯物主義
他にもあると思います。うまく整理できていませんことをご了承ください。
自然科学は、ありとあらゆる物や事を分類してきました。過去に自然科学は統合失調だと書きました。また「群盲象を評す」の状態にあることも書きました。
図1
今や「その分野の専門家にしかわからない」という状態に陥っていることは、誰もが感じていることです。それらのほとんどがあまりに抽象化し過ぎて、理解が困難です。というか理解不能です。 それらが余分な次元軸からの投影による映像だと考えることによって、すべてが整理できるはずと考えています。
いつも引用するある科学者は、「科学知識を求める人間を木に登るアリ」に例えて、次のように述べています。
自分では上方へ動いて動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気付かないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。・・・ だがその枝が急に無数の小枝に分かれいていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。・・・ 基本的法則がいまや分かれ始めて、反対の方向に散らばり始めていることに気付く。すると科学者は心によって受け入れられる知識の限界に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。
君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に替えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほど複雑になる。
図2 科学者たちは低い枝の一本を昇るアリのようなもの。低い枝を知識の全体だと考えている
また、ある科学者はこうも述べました。
正しくながめれば基本的な真理は常にかんたんで理解が容易なのだ。だから幹の上から眺めれば枝は”枝”としてかんたんな理解の容易なものになるのだ。てっとり早く言えば、君らの科学が進歩し続けようとする場合に必要なのは、君たちがとまっている枝から幹との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。
直接の証拠となるものはありませんけれど、多くの状況から見て、「自然は存在ではなくて、投影による映像」だと考える方が理にかなっていると考えます。
2015年頃から2017年にかけての考察により、弧理論(Ark Theory)の大枠を掴むことができました。 これからは演繹的に物質科学への適用に考察を進められそうです。 2012年頃に、井出治氏によるトランスにかかる第3起電力のエネルギー源とはどういうものか考察しました。(第3起電力のエネルギー源について) その結果、得たのが発散トーラスでした。この考察は弧理論の考え方を井出氏のトランスに適用したものです。(当時は弧電磁気論と呼んでいました。)
図3 右
が発散トーラスでし。発散トーラスを3DのCGにしたのが下図です。
発散トーラスは、様々な特性を持っていると考えます。その到達距離は極めて短く、かつ極めて強いです。距離の7乗に逆比例する力の場です。質量は持ちません。(M軸上からは測定できない。) 2017年5月24日の記事「発散トーラスの性質について」を参照ください。
どうも弧理論による原子模型が発散トーラスの組み合わせによって出来上がっているらしいことがわかっています。
図4 弧理論による原子模型の例
この組み合わせによる性質がトム・ベアデンの書簡に記されたヘビサイドが発見したという「巨大な回転性電磁気エネルギー流」と同じではないかと考えます。ビーデン博⼠のエネルギー先端研究局への返答(DISCLOSURE PROJECT)より一部引用します。
ヘビサイドはまた、比較的⼩さな発散性ポインティング成分に加え、あらゆる電池や発電機の端子から放出される巨大な回転性電磁気エネルギー流を発見しました。このヘビサイド回転成分の大きさは、比較的弱いが発散性であるポインティング・エネルギー流成分よりも1兆倍以上も大きいのです!任意の座標系(特殊相対論の状況)において、回転の発散はゼロです。そのため、通常このヘビサイド成分 – 発電機のシャフトを回す単位時間当たりの機械的エネルギー入力の1兆倍以上 – は、何かと相互作用を起こすことも、また外部回路に発散していくこともありません。代わりに、それはただ空間に向かってうなり続け、浪費されます。
発散トーラスの性質についての考察により、原子から発散トーラスによる力が外部にほとんど漏れ出さないことがわかっています。 もし仮にヘビサイドの発見による「回転性電磁気エネルギー流」が発散トーラスと同じであるならば、「回転性電磁気エネルギー流」が「何かと相互作用を起こすことも、また外部回路に発散していくことも」ないかの説明になります。 そこで、発散トーラスの性質を原子の視点から考察したいと考えます。
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