トム・ベアデンの手紙(Tom Bearden’s Response to ARPA-E) に 電磁気学 の発達は、金融資本家であるJ・P・モルガンの命令により歪められたと指摘されています。そこで 電磁気学 の歴史と化学の発達史とを比較しました。
写真1 出典:ジョン・モルガン
化学の発達は18世紀後半からの産業革命と切り離せないものがあります。
図1 出典:Tech Note
図1によれば無機化学の基盤が整ったのは1740年~1780年にかけてであり、火薬や写真・塗料への展開が続きます。1820年頃からは種々の化学工業が興り、有機化学工業の基盤が成立したのもこの頃です。 図1を参考にしながら、物理学上の発見と電磁気学の発展を「原子」という視点から整理しました。
図2
左に原子の模型を置き、右欄に電磁気学・化学・原子の構造が発見されたトピックを年代別に並べました。 原子模型は中心に原子核があり、周囲に主な殻電子の配列を入れました。一番下の電子は原子の外にある電子を意味します。この原子の構造という視点で見たとき、化学の発達は自然だと感じます。
化学は18世紀後半からの産業革命により発達し始めるとともに、1869年にメンデレエフによって元素の周期律表が整備されました。しかしこの頃はまだ元素がどのようなもので出来上がっているかと云うことはわかっていませんでした。(物質が原子で出来ているという説はギリシア時代からあったようです。) 物理学者たちによる物質の成り立ち探求にかかる歴史は続きました。
- 1896年 ベクレルにより放射能が発見される
- 1911年 ラザフォードによる原子核の発見
- 1913年 ボーアによる原子模型
こうして、1913年にモーズリーによって元素の周期律表において、原子番号と原子核の電荷との対応が説明されました。 化学の発達は、現実の産業の必要性とともに物理学の発達によって元素の説明が原子の構造から来ると説明されることで促されていったと云うことです。 そこで、図2の右側に化学の物性は原子の構造から来ているという意味で括弧にて括りました。
では、電磁気学はというと大凡次の流れになります。(上記と一部重複します。)
- 1800年代初頭頃からの電磁気現象の研究
- 1864年 マクスウェルによる電磁方程式(20の変数を持つ20の常微分方程式:原方程式)
- 1884年頃 ヘビサイド、ギブス、ローレンツ(Lorentz)らによるマクスウェル方程式(ベクトル表記)
- 1896年 ベクレルにより放射能が発見される
- 1911年 ラザフォードによる原子核の発見
- 1913年 ボーアによる原子模型
- 1918年 ラザフォードによる陽子の発見
- 1932年 チャドウィックによる中性子の発見
電磁気学はほぼ電子の挙動を記述したものです。その内物質の磁性に関しては、主に原子の殻電子の配列によって生じます。 そこで、図2において電磁気学は殻電子と下に配置した原子の外の電子とを括弧で括りました。 原子核は電磁気学の確立した時点では発見されていませんでした。
原子核が陽子と中性子で出来ていることがわかったならば、 電磁気学 も化学の発達経緯と同じく原子核からの修正を受けてよいと考えます。現実はそうではありませんでした。これはとても奇妙なことです。 事実、手元にある電気磁気学の教科書2冊に関して、原子あるいは原子核の記述を調べてみましたところ、原子の記述はほぼありませんでした。
- 電気磁気学(改訂版)発行(社)電気学会・・・・・・・・・・・370ページの内、原子に関する記述「原子の本質:2ページ」、「原子分極:2ページ」の2箇所
- 工学系の基礎電磁気学 発行 マグロウヒル出版(株)・・・・・・310ページの内、原子に関する記述は無し
負の電荷を持つ電子と同じ量の正の電荷を持つ陽子が発見されたにもかかわらず電磁気学は原子核と核外の電子との相互作用に関して、その有無を含めて検討されていないように思います。とてもバランスを欠いていると感じます。 それでいて先般の記事 「とね日記 自然法則:量子力学による古典物理学の謎の解明」から引用したとおり高名な物理学者ファインマンは次のように述べています。ファインマン物理学「電磁気学」岩波書店刊:第17章「誘導法則」17-1より引用します。
われわれは物理学のほかの所ではどこにも、このように単純で正確な一般法則がほんとうの理解のために二つのちがった現象による分析を必要とする場合を知らない。普通はこのような美しい一般化は唯一つの深い、基礎原理から導かれることがわかる。しかるに、今の場合にはこのような深い意味は見られない。われわれは”規則”を二つの全く別の現象を結び合わせた効果と理解するより仕方がない。
2つの違った現象によると理解しながらも、数式が美しいからといってそのまま飲み込んだということです。とね日記に記されているように今までも謎のままだったということです。 2つの違った現象の内の1つが原子核と周囲の電子との相互作用かも知れないという発想が出てこなかったのかとても不思議です。 管理人は、実際にやってみて、そうだと感じます。
管理人はゲージ理論が理解できていません。それがどこから出てきたのか、いったい何時何処で誰が力の伝わり方について、近接作用だと判断したのかわかりませんでした。 今回、経緯を調べている内にゲージ場の理論は電磁気学から出てきたのだと知りました。これはとても驚きでした。 素粒子物理学の大系を図で示します。
図3 出典:意外と素粒子に関係あるメモの図を元に加筆修正
コメントにて教えていただいた井口和基氏のブログ記事「物質の原子論」vs「力の原子論」:「物理の若者よ、夏休みに夏目論文を読め!」に出てくる夏目賢一博士の論文「ファラデーの電磁気学研究における力・力能・粒子」はリンク切れなので、改めてリンクを貼っておきます。 internet archivesより「ファラデーの電磁気学研究における力・力能・粒子」
夏目博士の論文の序論P9から一部引用します。
このように困難な研究対象ではあったが、電磁気の作用については主に二つの立場から研究が進められた。一つめは、いわゆる近接作用説であり、可感ではないにせよ何らかの媒体の存在を仮定して、そのふるまいを論じることで現象を説明しようとする研究であった。二つめは、いわゆる遠隔作用説であり、作用が万有引力のような中心力として及ぼされていると仮定して、その中心力のあり方を調べようとする研究であった。
この分類からすると、ファラデーの研究は近接作用説に属することになる。ファラデーは、「物体は、それが存在しないところには作用しない」として遠隔作用説を否定し、力線と物質粒子の存在によって電磁気の作用を説明しようとしたからである。
注)ここで「可感」とは、「感覚を通じて外的な可感的事物を観察できる」ことのようです。
筆者はファラデーが近接作用説に属すると述べています。 また、wikiによればゲージ理論の歴史について「ゲージ変換の自由度を持った最初の理論は電磁気学における、1864年のマクスウェル(James Clerk Maxwell)による電磁場の公式である」とあります。 1864年のマクスウェル方程式は、冒頭の図2並びに箇条書きに示した様に、マクスウェルが出した(原)方程式の方です。 1884年頃にギブス等が出したベクトル表記の4つのマクスウェル方程式では無いということです。注)論文では1864年とありますが、ゲージ変換が本当に原方程式からなのか、ベクトル表記の方から出されたものなのか未確認です。
実験的事実として電子が粒子で、波動性の二重性を持つと認めざるを得ません。量子力学は、この事実を「電子が確率波を持つ粒子」だと定義しました。 いずれにしろ「波」が力を伝えるとして、波を量子化した粒子が力を伝えるとしたということです。 力が「波」によって伝えられるとするならば、媒質(エーテル)が存在するはずです。 過去記事にも書きましたとおり1880年代に行われたマイケルソン・モーレーの実験と1919年にエディントンによって行われた太陽と星の「食」に関する実験によって「エーテル」の存在は(一応)否定されたことになっています。注)2つの実験は幾度か行われています。そのあたりの事情は「七つの科学事件ファイル 科学論争の顛末:化学同人」に詳しいです。過去記事を参照ください。
近接作用として素粒子物理学は発達しました。これらをまとめたのが図3です。 ところが2000年頃に外村彰氏によってベクトルポテンシャルの存在が認められるようになってきました。電子波で見る電磁界分布 【 ベクトルポテンシャルを感じる電子波 】 何らかのエーテルを認めざるを得ないような事情のようです。検索すると外村氏の実験はゲージ場が存在する証拠と受け取られているようです。 注)管理人は「場」と「エーテル」との違いがわかりません。
まとめます。 1884年頃ギブスやヘビサイドらによってまとめられた電磁気学は確かに(数学的にも幾何学的にも)美しいでしょう。電磁波の予言という成功体験も得がたいものだったでしょう。 しかしながら、原子の構造がわかっても尚、電磁気学は原子核の発見からの修正を受けずに量子力学の発達に繋げたのは納得できません。化学の発達史の流れと向きが違います。
図4 出典:豆電球を、電池1個で光らすのと、電池2個を直列につないで光らすのでは、どちらが長持ちするか?
電子の電荷は「負」です。電流は「+」から「-」へ流れます。電気力線は「正の電荷」から負の電荷に入ります。
図5 出典:電場
しかし、電子による「正の電荷」は存在しません。電子が抜け落ちた状態に過ぎません。正の電荷とは、正しくは陽子の電荷のことです。 仮に陽子が物体に帯電するような現象があったとするならば、正の電荷による感電や静電気によって髪の毛が逆立つなどの現象が見られるはずです。マクロな到達距離を備えている故の現象があるはずです。 電磁気学には「正の電荷」と負の電荷との相互作用という概念が抜け落ちています。 マクロな現象があってもおかしくないと思います。 電磁気学 はある意味で対称性が低いです。
余談です。 1900年代初めの頃、「エーテル」の存在が否定されたのも奇妙なことです。ゲージ理論の「ゲージ場」の箇所を読んでいると曲率という言葉が出てきます。波を量子化した粒子が力を伝えるとしながら、かつエーテルの存在を否定しつつゲージ場のなかで(例え数学的にであっても)曲率を用いるのはどうも解せません。 そして外村氏の実験へ続いています。 前回の記事で書きましたように岡潔の云う「物質的自然」には一切の原因はありません。勿論のこと「場」あるいは「エーテル」は原因ではなくて、結果であるようです。 トム・ベアデンの指摘したとおり、物理学の曲がった発達の原因は、 電磁気学 にあるようです。 このような歪みは、他にもあると考えます。 「物質の質量とエネルギーに関する誤解」です。質量と運動と波の関係です。 それを仲介しているのが時間であると考えます。 何処かの誰かは、どうしても余分な次元軸を認めたくないのではないかという感じがします。認めるとしたら、一気に10次元とか11次元とかですから、これも奇妙です。
次回には「場」あるは「エーテル」と物質の質量、エネルギー、並びに発散トーラスの関係についての考察を記すつもりです。
追記 よく「時空の歪み」と表現されます。 「質量が原因で時空が歪む」といった説明も
追記図1
ビッグバンを説明するとききも同じ視点です。
追記図2
時間は運動から作りますから除外して、「空間の歪み」というのは奇妙なことです。例えばこのような絵を考えます。
追記図3
風船の表面上にあるA点とB点について考えます。今、C点を上から押したとします。A-B間が歪む(膨張あるいは収縮)というならば、表面上にあるモノサシも同じだけ歪むはずです。結果、観測者にとってA-Bの2点間の歪みを観測することはできません。モノサシも同じだけ歪むのですから当然です。 観測者自身が風船の表面上の存在ですから、自明のことです。 裏を返せば「空間の歪みを理由」に説明するとか「歪みを観測する」と云うことは、表面とは別のモノサシがあると云うことを「認めている」とか「観測事実が別の次元軸の存在を示している」ことの他ないということです。
追記 写真1 出典:A Hubble Space Telescope image showing gravitational lensing of a blue background galaxy CREDIT.NASA/HST
重力レンズや「遠くの銀河ほど加速度的に遠ざかっている」、あるいは「極微の物質は激しく運動している」ということは、「別の次元軸」が存在していることの証だと感じます。
追記 表1
あるところでは、地球の科学者は「エネルギーの量を正しく求める方法を知らない」と云われます。E=mc2の解釈を誤ったまま100年余り過ぎました。距離を示す光年は、時間[T]を用いています。素粒子の質量はGeV(ギガ電子ボルト)で表されます。正確にはGeV/c2です。c2は光速度の二乗ですから、やはり時間[T]が入っています。
物質の質量とエネルギー[ML2T-2]は、別の次元軸上にある実体の異なる面です。
エネルギー[ML2T-2]は、単位平面あたりにおける質量の加速度と云えますから、運動と言い換えてもよいでしょう。ただし、運動には運動量Pがあります。運動量Pは時間を含みますから使えません。そこでエネルギー[ML2T-2]のことをPにアンダーバー(_)を付けて運動Pと読み替えています。そして、別の次元軸上にある実体が持つ値を「真のエネルギー」と呼んで、エネルギー[ML2T-2]と区別しています。
GeVも光年のいずれもが、質量と真のエネルギーを混同しているということです。詰まるところ、自然科学(ことに物理学)において時間を計算に使うことによって、頻繁に無限大が出てくるのは「運動と運動を比較」しているからだと考えられます。繰り込みによって回避しているのでしょうけど、時間を自明のこととしている間は困難が付きまとうでしょう。物質的自然は、別の次元軸からの投影による映像だという理解に方針転換する以外に先へ進む方法は無いと確信します。 量子力学における計算の困難については過去記事を参照ください。
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そもそも位置エネルギーとは何か?直接測定できないそれは何なのか?と同じ話のように感じます。全箇所等質の場を仮定して、各部がポテンシャルを持つものとして表現する試み。
時間を非線形に拡張したらどうだろう。線形の”今”に対して、過去と未来の記憶は非線形。(面白いことに、未来の予測を表したら、その瞬間に過去の記憶になるんですね。)恒常的な、持続するものとして重力や生命を見ているけれど、それは拡大した線形の一部であって、全体的には生成・消滅がある。この数式化できない部分が知りたいメカニズムとすれば、数式が線形時間の記述になるのは合理的だと思う。
見えないものを見ようという試みは世界中で為されている。その一方で、見えているものに何を感じるか、それに注目することが疎かになっているのかもしれません。観測即数式ですから、これは一種の刷り込み。実際には人間の感覚は、数式を超えて遥かに高性能・高感度のものでしょう。
>ポテンシャル
最近、投影という仕組みの上では近接か遠隔かを含めて、どちらでもよいように感じます。ポテンシャルも投影によると考えるとその原因たる実体に注意が行きます。
>時間を非線形
面白いです。私自身は如何に時間を使わずに表現しようかと苦心してきました。
>未来の予測を表したら、その瞬間に過去の記憶
運動から作る時間は現在を含みません。つい最近まで古典力学は決定論だと信じて疑いませんでした。皆ほとんど何も考えていないということがわかってきました。岡潔だけですわかっていたのは。
どうも数式に抽象化することの限界を感じます。なぜなら物質とエネルギーと情報には密接な関係があるからです。人の脳も例外ではありません。人の思考による抽象化も物質とエネルギーと情報の関係の内に入ると考えるからです。人の思考が自然の外と考えるのは傲慢に思えます。言葉で云える思考は”シヰ”の現れですから、たぶん機械で置き換えられる類のものだと感じます。
>それに注目することが疎かになっている
同意です。物理学者はかなり昔に唯物主義を捨て去ってます。純粋思考が感覚より優先しています。これは間違いです。中村誠太郎も著書でクオークに懐疑的でした。
繰り込みって理論を成立させるための建前社会♪的なものか。それを言っちゃおしまいだろうけど。金利、経済成長率、持続可能性と発想が似てます。アル・ゴアの「不都合な真実」を、人間の自然への決別宣言だと感じたのも妥当かな。
空間も検証されずに導入された概念です。近接作用として考えるのなら、電磁波は、空気分子、星間物質を介在して、その電界、磁界の変化により伝播します。粒子と粒子の間は、遠隔作用として、電界、磁界が伝わるのです。
ttp://zao.jp/index.php?blog=12&p=393&more=1&c=1&tb=1&pb=1
検証するには、空気中、宇宙空間における光速度を精密に計測すれば、わかると思います。粒子密度の低い宇宙空間では、光速が空気中より速いと考えられるからです。
>空間も検証されずに導入された概念
同意です。岡潔が述べたとおりです。
>近接作用として・・・
ToM氏の論文によれば、論拠とともに「電磁波は惑星近傍に主に存在するのみ」と述べています。宇宙空間が真っ暗闇である事実に関心を持つべきと思います。ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~choreki/pdf/sme.pdf この件は過去に書いたことがあります。
最近では、近接・遠隔の違いは現れ方に対する考え方の違いの様に感じます。原因がM軸(物質空間)に無いと考えますので、結果的にはどちらでもよいと云えます。量子もつれが説明できません。距離ではなくて、投影角が重要です。投影による映像だと理解してます。映像ならば位置は重要ではありません。