自然科学において時間は特別であって、 宇宙 を数式で表そうとすると必ず時間を含みます。例えば 宇宙 を近接作用として表したとき
式 出典:こちら
上式のように、物質粒子と力の粒子と物質に質量を与える粒子の合計になります。 この式の各項には時間を含みます。しかし、これまでに書いたように、時間は(物質の)運動から作ります。(日本標準時をつくる、岡潔「自然科学者の時間空間」)
物質の運動から時間を作り、かつ時間を用いて物質の運動を記述しています。これは循環論であり、矛盾しています。
これまでの考察によれば、時間は運動から作りますが、運動そのものではありません。運動の位置や角度です。しかも現在を含みません。過去です。
図1
例えていえば、A地点とB地点があったとき、「A住所-B住所」の差をとって時間と呼んでいるに等しいと考えます。時間は位置や角度であって、量ではありません。基本物理量に不適です。岡潔は「数は量のかげ」と云いましたが、時間は量の裏付けがないということです。 (注:これは大変重要なことです。”数”という一見確固たるモノサシ(量)であると認識されるのに「物の運動」に対して伸び縮みするようです。お金に似たところがあります。お金も数なのに量の裏付けがなく、これまた「物や事」に対して伸び縮みします。これが詐欺の構造です。)
振り子について随分考えましたけれど、振り子の運動について等時性は(一応)成り立っていると思います。しかし、(振り子など)手元の運動から時間を作っても、上表の両端の運動に時間を適用できるかどうかが問題です。数学的には計算できても、手元の運動から作った時間を表の両端に示す運動に適用できないのではないかとの疑問を持ちます。 事実自然科学者は1960年~1970年代にかけて単独で取り出せないクオークを物質と認めてしまってからは、抽象的な数学理論を優先してしまいました。これは唯物主義を放棄したということです。このことは過去にも書きました。
では、どうすればよいか。それは別の次元軸を想定して、物質的自然を記述するほかありません。勿論のこと時間を用いずに。 自然科学は孤立系です。そして、上式も孤立系のままです。しかも自然科学の枠組みである「時間・空間」という枠組みでは無く、事実上「空間」の内に理論は閉じています。空間を空間の性質のみで説明しようとするのが自然科学だということです。これはムリな注文です。
量子もつれや量子もつれの突然死、あるいは宇宙背景放射や赤方偏移にゆらぎはあっても方向に偏りが見られないこと。(ビッグバンの中心は地球になってしまう。)さらに重力によって空間が曲がるなどの現象は「余分な次元軸」を想定することによって楽に理解できるようになると考えます。何より上記の空間の性質を以て空間を説明しようという矛盾を回避できると思うのです。
もう一つ。「物質とエネルギーと情報」、この3つの間には密接な関係があります。同時に「物質の運動と時間」には関係があります。 どうも情報と時間には似たところがありますし、何か関係がありそうです。もう少し考えます。
こう考えると相対性理論はもの凄く胡散臭く感じます。 ミヒャエル・エンデのモモの「時間とお金」を想起します。思いっきり何処かの誰かに都合良くつくられた世界です。
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