数学者岡潔は「数は 量 のかげ」と云いました。また、「物質は顕微鏡などで拡大するなど工夫してもよいが、最後は人の肉体に備わった五感でわかるものでなければならない」とも云いました。
これまでの考察によれば、時間もお金も「 量 の裏付けがない」単なる数字でした。 次表によれば、人の五感でわかる範囲は赤い括弧で括った範囲です。 この範囲が「物理現象」と云ってよいように思います。
表
では、現代の物理学が対象としている範囲(表の両端)はどうでしょう。時間は手元の運動から作ります。(しかし、時間は運動そのものではありません。) 手元の運動から作った時間と被測定対象物にかかる運動を比較しているに過ぎません。具体的には時間を含む数式で表しています。前回の記事を参照ください。
量 とは何でしょう。管理人は 量 とは人の五感でわかる「物や事」だと思います。つまり、(概ね)表の赤い括弧で括った範囲だと考えます。その範囲を越えて計算するということは、単に数式遊びに過ぎないと考えます。計算を可能にしているのが量の裏付けのない時間だと考えます。では、素粒子実験はどうかというと、そういう粒子は存在するでしょうけれども、そこに意味を見いだすことは出来ません。自然は存在ではなく映像だからです。自然は投影による映像だというのが弧理論の骨子であり、仮説です。
少し横道に逸れます。次の写真はあるものを液晶画面に映し出してデジタルカメラのスーパーマクロで撮影したものです。何だかわかりますか。
写真1
正解は
写真2
みかんです。 写真1において、ある画素と隣の画素の間に相関はありません。個々の画素は状態を変化させているだけです。当たり前のことです。 それは前回の記事でも使った次式についても云えます。
式
何かを表していて、対応する某かの素粒子は存在するでしょうけれども、陽子中性子電子でできた物や事の一切とは関係ありません。 話しを戻します。
岡潔は「(自然科学者は)運動は時間に比例して起きると決めてかかって、そういう時間はあると決めてかかって、時間はわかると思っている。」と述べました。この点について、随分悩みました。 最近わかってきたのは、岡潔が時間と云うとき、「人が持つ観念としての時間」を云っているのだと気付きました。例えていえば、象の時間、ネズミの時間です。あるいは子どもの頃の時間と大人になってからの時間です。
一時は、振り子の等時性について考えましたけれど、これを疑うことはできません。つまり、赤い括弧の範囲内に於いて、「運動は時間に比例して起きる」として問題ないわけです。しかし、岡潔の云う時間は観念ですから、「運動が時間に比例して起きるかどうかわからない」のです。 結局、赤い括弧の範囲内では、手元の運動から作った時間は、被測定対象物の運動と比較することは可能だと云うことですし、範囲を越えては次第に意味を失う(数式遊びになる)ということです。
因みに表の右端に向かっては、距離を光年で表します。時間を含みます。表の左端に向かっては質量をGeV/c2で表します。これも時間を含みます。表の両端においては「手元の運動から作った時間と被測定対象物にかかる運動を比較」することに意味は消失していると考えます。 既出ながら量子力学の数学的困難(計算における発散の問題)は、運動と運動を比較することによって出てくるのではないかと考えます。
ここまで考えるとわかってくることがあります。 情報を蓄えるには僅かばかりのエネルギー[ML2T-2]が必要です。 物質があり、運動があり、情報があります。この3つには密接な関係があります。 時間は物質の運動から作りますが、運動そのものではありません。時間には量の裏付けがありませんし、お金も量の裏付けがありません。 一方で情報は量の裏付けがあります。(情報をエネルギーに変換する技術)
結論として云えることは、数学や言葉を使った抽象的な理論や理屈が高尚なのではありません。量を離れたこれらは数式遊びや言葉遊びに過ぎないということです。 恐らく 量 とは五感でわかる「物や事」であって、表の赤い括弧で括った範囲だということです。ことに陽子中性子電子が基本となります。
物理学がこのように抽象的な理論計算を優先しだしたのは、単独で取り出せないクオークを物質と認めてしまった1960年~1970年代の頃だと認識しています。 およそ実験で確かめることが不可能なクオークは量ではありません。考え方が不健康。
先日家人に、情報と時間ならびにお金の関係について話していました。情報には一次情報と二次情報以下があって、株式の専門誌などは三次情報くらいで、日経などの経済誌は四次情報、一般の新聞などはそれ以下であって、情報は時間とともに拡散し、陳腐化する(価値が無くなる)という話しをしました。そのついでに、一次情報を知る立場で守秘義務がある人間がフライングでお金に換える場合をインサイダーというと話していました。話しの流れでロスチャイルドの話しをしました。
ロスチャイルド家が大富豪となる切っ掛けとなったナポレオンのワーテルローの戦いについて、マイヤー・ロスチャイルドがとった行動が有名です。 気になってロスチャイルド ナポレオンで検索すると、「ロスチャイルド家はなにをして大金持ちになったのですか?」というのがありました。 そこには「初代インサイダー取引」と「初代風説の流布」が出ていました。実に面白いです。
ここで云いたいのは、我々は量の裏付けがある情報は大事なのに、実際は量の裏付けの無い時間やお金を一番大事だと思い込まされているということです。 物や事から離れてはダメということです。 一番肝心な情報を隠匿しているのは何処のどいつだろうか。肝心というのは、本記事に書いたことそのものです。人々は物や事を欲しているし、かつ必要なのに、お金や時間に囚われています。
補足。因みに本記事に書いてある事は、3つの科学(精神科学・社会科学・物資科学)の内、社会科学の部分です。
自然科学者はわからないことを「分ける」ことによって、「わかる」と思っています。相手をブラックボックスとしているのです。 でも、自然が存在ではなく映像ならば、分けてわかることはありません。 物理学者のリサ・ランドールは興味深いことを云っています。
「問いを見つけられる人が、その答えを見つけられる。」18:20
動画1
追記2021/08/03 その後わかったことを書きます。
岡潔は「数は量のかげ」といいましたが、人の感覚でわかるのは物と事です。物には量があり、事には質があります。岡潔が云わなかった言葉として「数は質のかげ」があります。
つまり、タイトルの訂正が必要で、正しくは『量 とは、五感でわかる「物」であり、質とは五感でわかる「事」である』となります。
何故か岡潔はいろいろ端折る癖があります。
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