宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?

物理学者たちは宇宙を 数学 の数式で表せると考えています。 数学 が宇宙の真理を探す最適な道具だというならば、何故 数学 の難問に挑む学者は心を病むのでしょうか?

自然科学者とくに物理学者たちは、物を「分ける」ことによって、分かる(理解できる)と思っています。分かるの語源は「分ける」です。  数学 は、分けて考える道具として最適であることは間違いありません。しかしながら、数学の難問に挑む学者たちの中には心を病んでしまう人が多いとのことです。

このことは、何を意味しているのでしょう。管理人によるこれまでの考察によれば、自然の内、宇宙の仕組みが「分ける」ことにより、分かるものではないからだと考えます。 数学者の岡潔が一部認めたように、物質は「投影による映像」だろうからです。  「分けて分かる」と思っているのは、岡潔の云った「第1の心」です。数学は第1の心に発するようです。西洋人は心が2つあることを知らないということです。岡潔が指摘したように、実際のところ、「物質は分けて分かる」には、ほど遠い状態です。

恩師のF先生は、あるとき あることに対して「考え方が不健康」と云われました。第1の心の指向が「分けて分かる」ということであり、その行き着く先が「不健康」ということにつながると理解します。

哲学は「真・善・美」を求めると云います。数学が最適だというならば、「病」を付け加えるべきかも知れません。(冗)

 数学 で表せる大きさのスケール

人の感覚で分かる範囲を大きく越えて、理論計算できます。大規模実験によって確かめることができます。しかし、理論や実験を解説する際には、ほとんどがCGによります。 行き着くところ何も得る物がないようです。


研究は8年を終えて9年目に入ろうとしています。この3月に短時間ながら弧理論について発表の機会がありました。 終えてからは、これまでの数年分をまとめることにしました。とりあえずプレゼンの資料を作成中です。プレゼン資料の作成作業は、頭の整理ができます。その後論文形式にしようと考え中です。これまで、空想理論のようでしたが、段々とつながってきました。ここのところ記事の更新は滞っています。

  1. 自然科学は間違っている (時間空間というモデルの時間が問題)
  2. 時間は運動から作る
  3. 人の感覚で分かる「物質の運動」から時間を作る
  4. 時間は運動そのものではない
  5. 上表の左(極微の世界)と右(極大)の世界は人の感覚で分かる範囲を越えている
  6. 五感でわかる(赤い括弧内の)運動から作った時間と人の五感で分かる範囲を越えた物質の運動とを比較している (運動と運動を比較しているのではない。)
  7. 人の時間感覚は、表の両端では消失している
  8. ついでながら、相対論は、運動から作った時間を更に光速度に置き換えて基準としている(孤立系のまま基準をすり替えただけ)
  9. だから、素粒子物理学(表の左端)と相対論(表の右端)は相性が悪い

結局の所、人が持つ時間感覚は、表の赤い括弧で括った範囲にしか適用できないと考えられます。時間を用いるに「日常生活には支障がない」ことは明らかです。しかし、表の両端においては、時間は意味をなさないと考えます。 表の両端において立ち止まって考えることができないのは、「五感でわからないものは無いとしか思えない」という唯物主義なるが故だと考えます。

岡潔の言葉を元に時間について考えて早3年ほど経ちました。未だにすっきりしません。よくこんな誤魔化しを考えたものだと感心します。 1900年代初頭に孤立系である自然科学から開放系の理論に気付く機会を逸しました。 相対論の罪は重いです。

 

追記2022/6/30 この記事を書いてからだいぶ月日が経ちました。今では心を病む原因がわかっています。 原因は2つの心が乖離するからです。ヲシテ文献にあるタマシヰ、つまり、2つの心であるタマ(心の本体:岡潔の第2の心)とシヰ(生命維持の欲求:岡潔の第1の心)のバランスが崩れるからです。

人がわかるのは物と事です。弧理論においては、物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。

上から眺めると物質面(M軸という)が見えます。これがです。

図1

は、物質の運動です。これを運動と言います。物と事(運動)は同時には見えません。これが「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」という意味です。

人の心の本体は、岡潔が言ったように「第2の心(タマ)は、何となくその趣がわかる」という程度です。弧理論では静止画がわかると言います。これが時の現在で、”がわかる”です。

一方では運動であり、第1の心(シヰ)にあたります。これは時の過去です。弧理論では動画がわかると言います。これには時の現在(物がわかる)を記憶できる働きが必要です。その意味で人に肉体が必要です。

図3 タマ=時の現在(物がわかる:静止画がわかる) シヰ=時の過去(事がわかる:動画がわかる)→記憶する肉体が必要

事の複雑さに際限はありません。例えば、計算であれば、人の脳による生理的な電気信号の現れですし、これを紙と鉛筆を使うことで、論理としての整合性を維持したまま複雑化できます。これを抽象と呼んでいます。つまり、第1の心(シヰ)がわかるの複雑さに際限がないということです。

現代は偏差値が高い人ほど社会的に優位です。つまり、抽象的な論理を素早く入出力できる人が優位なわけです。概して(すべてとは言いませんが)知能の高い人ほどタマとシヰの乖離が大きい傾向にありそうです。これがタイトルの「数学の難問に挑むと心を病む」ことの原因です。

次図にまとめます。

図2

人は時の現在(ヲシテ文献にあるナサケエダ)と時の過去(ヲシテ文献にあるアワレエダ)がわかることにより社会性ができます。その結果、社会全体の文化文明の発達があり得ます。ただ、その行き着く先が図2に示す「すべての抽象化」です。繰り返します。事(運動)の複雑さに際限はありません。

例えば、おそらく多くの人にとって胡散臭いと感じるのが仮想通貨です。仮想通貨は論理的ではありますけれども、物ではなく抽象の極致であるです。

「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」という基礎がなければ2つの心の乖離により社会は崩壊すると感じます。2つの心の乖離はなんとしても避けねばなりません。

最近の記事で書いている通り、弧理論は、主義主張や思想信条などではありません。心の仕組みと働きを探っているにすぎないのです。絵画と画材に例えられます。絵画がありとあらゆる思想信条哲学宗教であって、弧理論により示そうとしているのは画材に相当します。 数学 は事を解析する道具ではあっても心の仕組みと働きがわかっていないと病む原因になります。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか? への3件のフィードバック

  1. 数学 のコメント:

    数学が趣味です

    数学だけではいけないことはなんとなく感じていました

    人間が秘めるまだ使えていない力があるような

    ちなみに巷で流れるスピリチュアルは好きでは無いです

    • Φ のコメント:

      ありがとうございます。数学出来ませんが、すべて同意です。物(量や嵩)から離れて数学のみ存在できるはずありません。物質とエネルギーと情報の間には密接な関係があります。数学も情報と同じだと考えます。
      スピリチュアルは好きではありませんけれども、存在自体は否定しません。これまでの考察によれば、地球上に精神科学はほぼ存在しません。社会科学は玉石混淆です。材料はあるけれど、玉も石もごちゃ混ぜです。心理学や祈祷や宗教や政治や経済など、スピリチュアルもすべて社会科学に属します。自然科学に対して「非科学的」と呼ばれるものはすべて社会科学の内に入ります。無視ではなくて、判断保留がよいと思います。中には玉もあり得ますので注意が必要です。恐らく「分ける」ことにより「分かる」には限界があります。その意味で道具としての数学にも限界があると感じます。自然とは何かよく分かりませんけれども、少なくとも宇宙は投影による映像です。そう考えると自然科学の置かれた状況がとても理解できます。

  2. タウ のコメント:

    気になるサイトを見つけました

    よければご参考に

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