数学者岡潔は「数は 量 のかげ」と云いました。1971年8月15日に当時のニクソン大統領は、米ドル紙幣と金の兌換を停止しました。(ニクソン・ショック)これ以後、お金は量(この場合は金Gold)の裏付けはなくなり、単なる数字になりました。 また、これまでの考察により、時間は「過ぎ行く運動の記憶、即ち過去」であり、物質の運動にかかる位置から作ることがわかりました。伴って時間は運動そのものではないし、岡潔の云う 量 を伴っていないこともわかりました。
ふと思ったのですが、お金も時間も量の裏付けはないし、どうも素粒子物理も相対論も究極、「量」の裏付けがない数字に行き着くようだと思いました。
表
のように、大きさのスケールにおいて、人の持つ感覚で分かる範囲は赤い括弧の範囲内です。範囲を越える位置は、時間に対応しないと考えられます。
時間は人の感覚で分かる運動から作ります。例えば、日時計や機械式時計あるいはセシウム原子時計などです。
物質未満である素粒子が人の基本になり得ると考えるならば、素粒子の運動を元にした素粒子時計ができるかも知れません。(管理人はそうは思いませんが。)
ここで「計測・測定・観測」について考えます。
図1
自転車が位置Aから位置Bへ運動する場合です。手元のアナログ時計の長針がAにあるとき、自転車はAの位置でした。自転車がBの位置に来たとき、時計の長針はBの位置でした。時計の円板に割り付けた数字を読むと「Aは30で、Bは46」でした。結果、自転車は16分でLの距離を走ったと云うことです。注目すべきこと。距離は物理量[L]ですけれど、時間は位置と位置に数字を置いたものであって、量に対応していません。数字を差し引きして何分という時間[T]を求めました。時間は過去ですし、量を伴っていません。運動から求めますが位置でもありません。
岡潔の講演録【 2】 自然科学者の時間空間より引用します。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
下線は管理人による。 「運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。」の部分に大いに引っ掛かってました。岡潔の云ったこのことは、人が持つ「観念としての時間」だと理解するに苦労しました。こちらはどうしても「物理的な時間」をイメージしていました。 つまり、図1に示した時間です。 物理的な時間は、いくら「計測」について考えても表の赤い括弧の内側において「運動は時間に比例して起きる」と考えざるを得ません。ところが被測定対象物が図1の自転車ではなくて「天体や素粒子」になると人の感覚で分からない範囲になります。時間を用いている限り限界が見えています。 人の時間感覚は人が感覚として分かる運動にしか適用できません。何故なら(当該運動を)経験していないからです。 これが「物理的な時間」という事です。
岡潔が云った時間は、観念としての時間です。子どもの頃の1年は、大人になっての3年から4年にも相当します。 長らく悩んだのはこの点でした。 やはり、表の両端においては、量の裏付けのない数字に過ぎないようです。(被測定対象物が素粒子や超巨大な天体) 事実、教養番組で紹介されるブラックホールや素粒子あるいは超ひもなどはほぼ100%CGです。
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