弧理論による 精神科学 とは? 唯一、数学者岡潔による第2の心に近い

弧理論は、 精神科学 ・社会科学・物質科学という3つの分野に分けられます。

図1 互いに重なり合っており、明確な境界はない

これまで3つの科学について、詳しくは説明しませんでした。一般に精神という語も科学という語も馴染みがありますから、精神科学とすれば理解容易と思われます。 しかし、ここでいう精神科学は単なる熟語ではありません。検索して出てくる精神科学は、「心理学・倫理学・言語学・経済学。歴史学・社会学などの総称」であるようです。あとは精神科医の学会などです。

まったく異なるものです。 実際のところ、精神科学は地球上にほとんど存在しません。例を示しながら説明します。

弧理論によれば、空間は別の次元軸からの投影による映像だと考えられます。質量を持つ物質は投影されることにより位置を持ちます。 我々の存在する空間を一次元のM軸とし、別の次元軸をE軸とします。

図2

このとき、宇宙の中心は2つあり、その一つの中心からの想念を「の想念(経路)」と呼びます。我々の存在する空間(M軸)に存在する想念を「の想念(経路)」と呼びます。


補足:M軸上における物質の運動に直交するのがE軸です。空間(3次元)+1次元とすると、これらの次元軸は、4つの3次元に分けられます。

図3

通常、物質にかかるE軸の方向は特定できません。しかし、例外があります。xy平面内で回転運動する物体にかかるE軸は、z軸方向に重なります。(図3の左図) 我々がE軸にアクセスすることができる唯一の手段です。


想念は、空間において位置を持ちません。例えば、AとBの間における会話を考えるとき、想念はAからB、あるいはBからAへと伝わるわけではありません。位置を持たないからです。これが図2に示す横の想念です。これが社会科学の基本です。これが「分けることにより分かる」、つまり還元主義に相当します。この一部分が自然科学です。(正確に言えば、物質科学の一部が自然科学であり、物質科学と社会科学はオーバーラップしています。 また、社会科学は、手付かずで未整備のままです。)

冒頭述べたように、図2に示した縦の想念についての科学はほぼ存在しません。唯一、数学者岡潔が述べた「情じょう」、第2の心が近いです。岡潔によれば、その現れ方は「情、知、意」の順に現れると述べています。情から知に至る部分が図2に示す縦の経路です。これが 精神科学 です。知から意に至る部分が図2に示す横の経路に相当します。つまり、社会科学です。 注:縦横の想念という表現も縦横の経路という表現も同じ意味です。 検索して出てくる精神 科学とはまったく異なることがわかります。

 

では、具体的な例を挙げます。

(1) 先日、NHKのコズミックフロントNEXTなる番組(村山斉の宇宙をめぐる大冒険 私たちはなぜここに存在するのか?)を観ました。MCの村山斉氏が京都産業大学を訪ね2008年ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏にインタビューしました。

写真1 出典:京都大学

インタビューの応えは次のようでした。

  1. 最長52時間考え続けた。
  2. それでも解けず。諦めかけた。
  3. 気分を変えるため、お風呂に入って
  4. あがるときにひらめいた。
  5. クオークの種類を3つから6つにすればよい。

益川氏の1と2は、数学を用いた作業で「緊張と集中、そして持続」です。3と4は物理問題に対する「関心と弛緩」です。何も考えずゆったりとしたリラックスした状態です。

この3~5が岡潔の述べた「情・知・意」の順の働きです。

(2) 漫画家の手塚治虫氏は、62歳ころ亡くなっています。

写真2 出典:手塚治虫の肉声で紐解く人物像、ラジオ特番に細野晴臣、コムアイら

確か現役の頃のドキュメンタリー番組でのことです。たぶん1980年代の1時間番組だったと思います。

  1. 自宅からほど近い一室に缶詰になり作画を続ける。
  2. とめどなくアイディアは浮かぶけれど作品にする作業が追いつかない。

という話でした。1の作画執筆作業は「緊張と集中、そして持続」です。2のアイディアが浮かぶということは、「関心と弛緩」です。アイディアは、集中を要する作画作業とは別の事柄です。岡潔の「情・知・意」で云えば、1が「意」で2が「情・知」の領域に相当します。

因みに、番組のインタビューで手塚氏は、「若い頃はフリーハンドで円が一発で描けたのに、歳をとって描けなくなったのが悩み。」と応えていました。

 

(3) ここで益川氏と手塚氏における違いを検討します。 益川氏は「分ける事によりわかる」道具としての数学を用いて物理の問題を解こうとしました。

表1

益川氏の場合、問題のクオークは人の五感で捉えられないものです。概念や観念は経験から得られるものです。しかしながら経験し得ないクオークなどの問題にかかる新たな概念は、数学を用いることによってしか得ることができません。

物理学者たちは、問題にあたり取り組む姿勢として「関心と弛緩」が必要であると同時に「緊張と集中、そして持続」が必要な数学を道具として用いています。 互いに相反する姿勢を同時に持つことは不可能です。人のより困難な有り様ようによって問題にあたっているのです。

一方の手塚氏です。作画の作業は「緊張と集中、そして持続」が必要です。しかし、アイディアはリラックスした睡眠や休憩などの「関心と弛緩」状態にあるときに浮かぶはずです。2つの状態が競合しません。

こうしてみると益川氏の場合、目的(新たな概念:理論の樹立)と手段・方法(数学を用いる)が相反しているとわかります。原因は、物理現象が既に人の感覚でわかる範囲を越えているところにあります。

クオークは誰も経験していません。(単独で取り出せない物質)だから抽象的な数学に頼らざるを得ないのです。手塚氏の場合は、緊張とリラックスが目的と手段の上でうまく共存しています。 これは芸術家に多いです。

以上のように、弧理論におけるそれは、既存の精神科学とまったく異なるものです。唯一、岡潔が第2の心として上記に近いことを述べています。

そういえば、ニコラ・テスラの遺した言葉として、

  1. 18年間、電磁気学に関する論文や資料を読んだがフィクションのように感じられた。
  2. 記録しておく事や確かめることができないほどに、とめどなくアイディアが浮かんだ。

とどこかに書いてありました。 1は彼が数学に堪能であったとわかります。同時に2のアイディアを受け入れる状態にあったことがわかります。

過去記事に「宇宙の真理を探究するに最適の道具は数学だという。ならば、何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」と記しました。  「分けることによりわかる」という還元主義の行き着く先は緊張と集中による狂気だろうと考えます。  ところが数学者岡潔は数学者でありながら対極の「弛緩と関心」という状態に至ったのです。彼にいつかの時点で何かが起きたと考えざるを得ません。 ニコラ・テスラはいわゆる天才ですけれども、それ以上に岡潔は超天才であって希有な存在です。

自然科学におけるそれは、脳科学に代表されるように人をブラックボックスとして扱います。 弧理論におけるそれは、自己を含む人そのものを対象とし、自然の仕組みの内だと理解します。(そういえばブラックボックスは、人工知能のニューロネットワークのニューロンにそっくりです。)

まったくもって、数学や理論物理学をやる人々を観るに付け素直で純朴な人が多いようです。既存の学問(常識)を素直に心から受け入れています。とてもナイーブなことで才能の浪費と感じます。

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Φ について

2010年より研究しています。
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