数学 者岡潔「自然数の1は決してわからない」 ヒントは「道具としての数学」にあった

管理人は 数学 ができません。数学者岡潔が言ったとされるこの言葉の意味も気にはなっていましたけれども何が云いたいのかわからない状態でした。注)最下段の追記が簡潔でわかりやすいです。2021/05/02

以前から、不思議に思うことがことがありました。 数学 は人間が使う道具として最強だとされます。そして、数学 を行うとき人には「緊張と集中」を要します。 ところが岡潔はある時期から「人の心」の探求に向かい、何十年も考え続けた結果、「大宇宙の本体は情である」、「人の心は二つある」、「心は情知意の順に働く」などということに至ったのです。 人の心の探究に必要なのは「弛緩と関心」です。

「弛緩と関心」は、「緊張と集中」と対極の状態にあります。数学者である岡潔が何故、どのような理由により、対極の状態に飛躍したのか謎でした。 ところがいろいろと考察しているうちに岡潔が数学から「人の心」の探求へと向かった理由がわかりました。それが以下です。

(1) 複数のピース → 木組みパズル

写真1

パズルから見て、ピースのことは何もわかりません。パズルからは、ピースの何たるかを説明できません。

(2) 複数の音素(50音あるいはヨソヤコヱ「48音韻」) → 日本人の言語・言葉

日本人にとっての日本語=日本人の思考そのものです。

表1 出典:日本ヲシテ研究所

これは外国語でも同じです。 英語圏の人の思考は英語によります。

(3) 時間・空間 → 自然科学

自然>>自然科学(時間・空間というモデル)であって、自然科学は自然のごく一部です。 岡潔が名付けた物質的自然は自然そのものではありません。(五感でわかるもの)を参照ください。 自然科学は自然を(時間空間)として理解しようとする方法の一つに過ぎません。自然科学は時間を用いていますから循環論法です。時間は物理量ではないにもかかわらず、単位を持っています。過去記事を参照ください。

図1

(4) 自然数の「1」あるいは数 → 数学 =思考の道具

岡潔の云った「数は量のかげ」でありながら、数学に用いるから離れていますので単位を持ちません。


以上をまとめて表にします。

(1) 複数のピース 木組みパズル
(2) 複数の音素(50音あるいは48音韻) 言語 => 思考の道具
(3) 時間を用いて自然を科学した集合 自然科学 => 自然を理解する方法のひとつ
(4) 自然数の「」あるいは数 数学 => 思考の道具

(3)はちょっとわかり難いです。 自然科学は時間という物理量から離れた数に単位を付けたものです。時間を用いて自然を科学したものの寄せ集めが自然科学です。自然科学の各分野は時間を用いることによって循環論法になっています。

(1)~(3)は、いずれもピースとパズルの関係に似てお互いに規定し合う関係になっていることに気付きます。

図2 出典:手のポーズ集

例えば、手とは何かと問われて、右手は「左手の反対」、左手は「右手の反対」と答えているようなものです。

複数の「」なるものの「組み合わせ」により構築しているに過ぎません。それは(4)の数学も同じだということに気付きます。 数学は人の思考の道具ですけれども、言語と同じです。数学で云えば、「自然数の1」は何かと問われても答えることができないのです。

だから岡潔は、「自然数の1は決してわからない」と云ったのです。数学が道具だから、道具で何かをなすとき、道具で道具そのものを直接作り出すことはないです。(たぶん。) ノコギリでノコギリは作れませんし、ノミでノミを作り出すことはできません。

余談になります。セロハンテープは凄いです。くっつくべきところにくっつくけれど、自身の表と裏はくっつきにくいです。最近のヨーグルトの蓋も凄いです。

従来品 TOYAL LOTUS®写真2 出典:4ポット史上初!ヨーグルトが付着しにくいフタ

某有名な物理学者は「素領域」にて理論を構築しているそうです。時間を用いて素領域の物理現象を記述しようとしているのですから、二重の意味で誤りだということになります。 素なる空間と素なる時間を用いて説明しても「自然科学の(循環論法の形式)をとった一分野」に過ぎません。 岡潔にならえば、「素なる空間も素なる時間も決してわからない」と云えます。


ここでやっと最初の疑問に答えることができます。

自然のうちに数学という道具を使って理解を進めても「数」の素もとである「1」は決してわかりません。このことに気付いた岡潔は、自然科学が取りこぼして決して扱えない「人の心」の何たるかを求めなければ、自然を理解できないことに気付いたのでしょう。

だから「緊張と集中」を要する仕事を持つ岡潔は、対極にある「弛緩と関心」の状態へ移行することができたのだと考えます。 岡潔の天才は、超のつく天才です。 実は岡潔の文章を読んでいて、難しい語句が出てこないにもかかわらず難しいと感じます。簡単に読み下せないのです。本当に難しいのは、易しい言葉で核心を示すことだと思います。

今年はまだ2ヶ月余りありますけど、(2)がわかったことが大きいです。 人の思考が言語をして、ピースとパズルの関係にあるということは、自然を科学するとき必然的に循環論法にならざるを得ないのです。 そこから、抜け出て「(物質的自然が)投影による映像」だという思考に行き着くことが必要です。別の次元軸を考えることによって、ピースたる基本粒子(陽子・中性子・電子)のことが理解できると確信します。(2)の理解は社会科学の基礎になると考えます。3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)のことを当サイトではミクサタカラと呼んでいます。

図3 ミクサタカラハ ミナノモノ

これでやっと「M軸上に原因は一切無い」ことに納得できました。仏教でいう縁起です。原因と結果です。物質的自然には、原因となるものがありません。昔の人は偉かった。

9/22追記

言葉は互いに規定し合っています。物質的自然も互いに規定し合っています。ならば物質的自然に原因はありません。

岡潔は数学も互いに規定し合っていることがわかっていたはずです。 素なる数かずである「自然数の1が決してわからない」のは物質的自然に原因がないからと考えたのではないかと思います。何せ「数は量のかげ」ですから。 そうして、岡潔は物質的自然以外の自然に原因を求めたのだと考えます。その対象が人の心でした。  その結果として「大宇宙の本体は情である」に行き着いたように思います。

 

2021/05/02 追記 本記事を書いてから随分と考察が進みましたので、補足します。岡潔は「自然数の1は決してわからない」としました。

仮にゼロと1を使う2進数の場合を考えます。ここで質問です。「1とは何か?」と問われると「ゼロでない数」と応えるしかありません。また、「ゼロとは何か?」と問われると「1でない数」としか答えられません。つまり、ゼロと1は互いに規定し合うことにより成り立つ循環だということです。ですから、1は決してわからないのです。

これは10進数でも、16進数でもn進数でも同じです。これはそのまま、意識を通し言葉で言える第1の心の限界です。因みに第1の心の特性として、互いに規定し合うことにより成り立つ循環ですから、ネットワークであり外のない内です。第1の心は一切、外に出ることはありません。

数学は曖昧さを排除した思考の結果(第1の心の表れ)です。であれば、プログラム言語と同様の曖昧さが欠片もない言葉が世界に一つだけあればよいはずです。しかしながら、世界中には100以上、細かくわけると数百の言語があります。プログラム言語も何十とあります。考えてみれば奇妙な話です。

何故かというと元々、言葉は人の五感でわかるどのように名付けてもよい(音素を割り当ててもよい)からです。その根本が岡潔の「自然数の1は決してわからない」にあるということです。

重ねて言うと、人は物と事を言葉でわかっているのではないということです。これが岡潔が強く主張していた第2の心です。意識を通さず言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかっているから、言葉という形式が成り立つのです。

 

岡潔の「数は量のかげ」・・・・人の五感でわかるのはです。事の違いはです。つまり、岡潔の言葉を丁寧に言えば「数はの量のかげ」であり、岡潔が云わなかった言葉として「数はの質のかげ」です。数は量と質のかげなのです。この2つを弧理論では質量mと運動と呼んでいます。質量mと運動は、別の次元軸上にある実体の異なる面に過ぎません。物と事は別の次元軸上にある実体の異なる面に過ぎません。

ついでながら、質のかげであるには2種類あります。一つは統計力学としての熱力学的エントロピー、そしてもう一つが情報理論による情報エントロピーです。出来の2つの面がまったく同じ数式なのは偶然ではないようです。

 

Follow me!

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  

Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 未分類, 解説 タグ: , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA