前回の記事で「 人権問題 等に胡散臭い利権の臭いがする」と書きました。何も差別は許されるという意味ではありません。
何年か前、某TV局のドキュメンタリー番組で、「両親が離婚して、養育されなくなった少女がトレーラーハウスに住む祖母に引き取られる。祖母の収入は年金だけ」というのを観ました。 確か母親である女性は違法ドラッグか何かで離婚になって、行き場を失った少女を祖母が引き取った話だったと記憶しています。 それだけでは、アメリカにおける貧困や病んだ社会の様子を知るだけです。でも、管理人には何かが残りました。
それが割とはっきりしてきたのは、 人権問題 に携わってだいぶ後になってからのことでした。日本において人権問題といえば、幾らかの利権が絡むことは必至です。男女共同参画にしても何かが違うと感じていました。特に個人情報保護法が施行されてから明確になりました。わかったことは以下です。
人が持つ基本的人権は絶対であることは確かです。しかしながら、現実の流れは違う方向へ進んでいます。 例えば、女性の人権を大事にするとされながら、結果として男と女はわかり合えなくなっていきます。 そういった流れの中、社会は「男女、人種、国、地域、宗教、職業、経済格差、性的マイノリティ、家族」がバラバラになっていくことを感じてきました。某TV番組で感じたのは、家族がバラバラになるという現実への引っかかりだったのです。
人々は自らの権利を主張し、それが通ったことによって”孤立”しています。自由の大義の下、より細分化され互いの権利を主張すればするほど、個人は孤独になっていくという現実です。
そんな折に見かけた画像が以下です。
図1 出典:カレイドスコープ 「主人と奴隷」-人々は自分たちの本当の力を知らない
サイト「カレイドスコープ」は時おり読むのですが、前回に書いたように「ミイラ取りがミイラになる」典型のような気がします。 時事についていろいろ検討すると、どうしても何処かの誰かに肩入れしたくなります。良くも悪くも「バラバラに成るよう荷担(加担)している」ように見えてしまうのです。
現状を分析した上で、陰謀論や陰謀暴露論を振りかざすでなく、権利や主義主張を述べるのではなく、何かに荷担するでなく、勿論のこと「板の端に乗った1%の連中を谷底に落とす」のでもなくて、「ミイラ取りがミイラになる」でもありません。
正解は、この世界がピースによってできているということを理解するところから始めるべきと考えます。ピースはパズル(人と物が起こすすべての物事あるいは事柄)の要素です。
写真1 ピースそのものに意味はない
ピースは互いに規定し合う関係にあります。調べてみたところ、仏教の縁起の考え方に近いようです。wikiには縁起について次のように記されています。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す
これまで検討したように、数学者岡潔が「自然数の1は決してわからない」と云ったことと全く同じです。【6】 数学の使えない世界 ピース、つまり「自然数の1」に意味は無いのです。 ここに別の次元軸を考える理由があります。 物質的自然に原因となるものは一切ありません。ピースが互いに規定し合うことによってできているからです。弧理論によるピースは基本粒子です。基本粒子は陽子・中性子・電子の3種類しかありません。この基本粒子が別の次元軸からの投影による映像だというのが弧理論の骨子です。
社会科学の本質は、「主義主張を述べて、議論して左右(あるいは善悪)に白黒つけること」にありません。ピースの成り立ちを理解することによって「我々人類は、互いに規定し合うことにより、成り立っている」を出発点にできます。 物や事の本質、原因は別の次元軸にあり、その上で私たちの心のあり方を学んでいこうというのが社会科学の本質だと感じます。(まだ、明確にはわかりません。)
右手は左手でない方の手。左手は右手でない方の手。
写真2
似たようなことは、幾らでもあります。けれども右とは何か、手とは何かを説明していません。手とは何か、右とは何かを説明できないのです。言葉の要素である素なる音にも意味はありません。
言葉は人の思考そのものです。 思考そのものである言葉もピースとパズルの関係にあることを考慮した上で、社会科学をどのように構築していけばよいの今のところかわかりません。 目指すべきは、孤立ではないことは確かです。
恐らく正解は、縄文哲学の「ロ」のヲシテに近いはずです。
図2
図2左下、ヲシテ文字、「口+人」と書いて「ロ」と読みます。 孤立と自主独立は似てはいても異なるものです。
いつも引用するある科学者の同僚とおぼしき若い女性が地球を観察して次のように述べています。
私たちが観測し、議論してきた人類のエゴ哲学はそれを観察することによって、かんたんに感染してしまうほどに伝染性がありうるのでしょうか。私たちは心の中で、過去において私たちや私たちの祖先が真の文明化への途上で援助してきた十二種族よりも、この人類は悪くはないということを知っています。
追記10/14 上記の通り、自由という大義名分がゆえに互いに分裂し、図1の「1%が支配し、99%が(時間とお金を使った)奴隷である状態」は変化しないでしょう。 時間もお金も量の裏付けがないのに時・分・秒や$・¥・€・£などの単位を付けて(量のふり)をした単なる数字に過ぎません。 一見、文句の付けようのない自由や権利の衣を纏いながら、その実どこか変な方向へ進むことはよくあります。どこか胡散臭ければ立ち止まって考えるべきと思います。
追記10/27 「人々が自由を手に入れた」歴史に関して面白い動画がありましたので貼ります。
動画1
動画の全部を信じるに値しませんけど、終わりの方1:06:10~から、ベンジャミン・フルフォードがイルミナティだか何者かの名言として、次のように述べています。
写真3
写真4
あの人たちの名言の1つはですね、「自分が『自由である』と勘違いするほどの奴隷、イイ奴隷はいない」ということで、「自由、自由」と言いながら、皆さん自由でありません。ほとんど”家畜”のように働かされているのが現実です。
皆が自由であろうとすればするほどに集団は分裂し、個人は孤立していきます。孤立する故に、本当は現代の奴隷なのに、自由だと勘違いした自分に気付かないのだということがわかります。
表題にしたフリーセックス・ウーマンリブ・・・という(人権問題の)流れの目的がおおよそ理解できます。
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