これまでの考察により、自然科学に限界があることがはっきりしてきました。 右リンクに「時間とは何か?」を示しました。 この記事は、当初2015年11月に掲載したものを2018年9月に全面改定したものです。数学者岡潔の言葉を出発点に足かけ4年かけてまとめたものです。 現時点で見直して、80%~90%くらいの出来だと感じます。過不足はあるようですが、大筋では正しいようです。
2016年4月14日の記事に「時間は存在しない。自然科学は何処へ向かうのだろうか?」として、ある科学者の言葉を引用しました。
物質科学の進歩を止めることなどできやしない。それは進んだりもどったりはするにしても。もどるとすると、それを支えている要素は退化のプログラムによってまず弱くなってきてそして崩壊することになる。 基礎的には地球の物質科学に悪いところはないんだ。もし、人々がそれを支えることができるような基礎を用意しないとそれは夢想だにしなかったほど水平に広がって進歩してしまう。「もし、基礎がなかったら?」 -略- 「君たちの文明は終わるさ」
強調は管理人による。 退化のプログラムという考え方は、1950年代には存在しなかったと思われます。これを読んで管理人は、 アポトーシス という言葉を思い出しました。
最近のノーベル賞を観ても、段々と小粒になってきているという印象を持っていました。(あまり、よい例えを思いつきませんが、) 例えば、インターネットを抱え込む大規模な通信システムによって支えられている携帯電話網の根底となる基礎であるトランジスタの発明は1947年です。様々な改良を経て日常生活に実用化されるまでにはとても長い年月を要します。
しかしながら、ある科学者が云ったように「(自然科学の成果として)実用に供される装置は手が出ないほど複雑になる」のです。そしてまた、岡潔が云ったように、「最後は肉体に備わった五感でわかるものでなければなりません。」 これは絶対条件です。 現在のノーベル賞の受賞対象は、今後何十年か後に、五感でわかる某かの装置にできるようには思えません。仮にできたとしても手が及ばないほどに複雑になって、不具合が起きたときに誰も原因を突き止められないようなシステムになるように思います。もう経済的に引き合わなくなります。
元素から原子の構造を解明し、素粒子を経て超ひも理論へ至りました。さらにはより複雑なM理論なるものは、何を目指しているのでしょう。専門家とされるわずかばかりの科学者にしか理解できないのです。しかも、人の五感でわかることは決してありません。 複雑な物や事の本質を「有限な脳」で理解しようとすることの限界を感じます。打開策として別の次元軸を考えたのが弧理論です。
すでに自然科学は先へ進めなくなっていると感じます。つまり、自然科学は アポトーシス の過程に入っているようです。
自然科学とは何かを以下に書き下します。番号が下るほど詳しく書いています。
- 時間を用いた要素還元主義に基づいて科学したものを寄せ集めたもの。
- 運動から作った時間を用いた要素還元主義に基づいて科学したものを寄せ集めたもので、循環理論の集合。
- 人の五感でわかる運動から作った時間を用いて、「わけることによりわかる」とする要素還元主義に基づいて科学したものを寄せ集めたもので、大きく3つの部分(古典物理、素粒子物理、宇宙物理など)からなる循環理論の集合。
以上をまとめたものが下図です。
図1 物質的自然とは、自然科学者が自然をどういうものかということを岡潔が代わりに考えて名付けたもの。
五感でわかる運動から作った時間を用いる点において、五感でわかる範囲においては時間は有効であると理解できます。これが古典的範囲です。
時間には2つあります。
- 観念としての時間
- 物理的な時間
人の五感でわかる物質や物体の運動の記憶あるいは経験からできるのが1.です。人の五感でわかる物質や物体の運動から作るのが2.です。
1.は2.に優先します。つまり、人の五感でわからない物の運動には時間の観念はありません。 だから素粒子物理や宇宙物理の解説は、ほぼCGを使ってしか説明できないのです。
当たり前の事ながら、経験していないことに対する時間の観念はあり得ません。素粒子は肉体でできた人の感覚器官より、遙かに小さくて五感でわかりません。だから、時間を用いて、どんなに精密に計算できても人とは関係の有り様が無いのです。
図1を眺めていると、3つの内、2つの部分(素粒子物理、宇宙物理など)がそれぞれ循環論法になっていると理解できるとともに、量子力学と相対論の相性が悪い理由がわかってきます。相対論にはどう見てもムリがあります。 この辺のことは既出です。
表1 自然科学は、括弧の範囲(古典的範囲)を境におおむね3つの部分にわけられる
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。