前回記事の過程で気付いたのは、人は物や事の具体の中に生きていることだということです。だから人の心が受け入れられる抽象には限度があると書いたのです。
それで、気になったのがいつも引用するある科学者の言葉です。2箇所あり、それぞれ長いです。
科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める
そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。
略
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。
だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。
君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるんだ。
君たちにとって最も必要なのは、自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見することだ。
下線と強調は管理人による。
自然科学者(物理学者)は、「電子は確率波をもつ粒子」だと考えています。これは波動関数で記述されるのであって、「電子は原子核の回りを回っているのではない」とよく云われます。極小の世界は確率で起こるのだとの説明です。これが量子力学の始まりです。管理人もそう習ってきました。
これは心で描くことができません。だから(抽象的な)数学を使うのです。このとき質量を持つ電子という具体から数学としての抽象へ移ったのです。
知識は情報です。情報を蓄えるに僅かばかりのエネルギーが必要です。その機能を脳に頼っています。脳には物理的な制約があります。 その脳に抽象的な概念を知識として蓄える必要が出てくる訳です。言い換えると、脳や書類やコンピュータといったエネルギーを蓄える媒体がなければ数学も存在し得ないようです。
ある科学者が云った「心で受け入れられる 知識の限界 」とは、脳が蓄えられる抽象の限界だということです。
物理学は100年以上、量子力学 素粒子物理 相対論 統一理論 超弦理論 M理論 へと続いています。
図1
向かっている先は、誰にも理解できない(誰の脳にも抱えきれない)抽象概念の世界です。時間を使っているのですから当然です。 少し説明です。
時間は人の五感でわかる物質の運動から作ります。しかし、時間は過ぎ行く運動の記憶、あるいは経験からくる観念に過ぎません。 つまり、人は五感でわかる運動にのみ、時間の観念を持てるのです。 素粒子や超ひもが五感でわかる人がいるでしょうか。電荷を持つ素粒子を大量に浴びて五感でわかるのは、おそらく火傷です。百歩譲って、ヒッグス粒子を大量に浴びて人にわかるのはたぶん火傷です。 調べたところ、ヒッグス粒子は電荷を持たないようです。基本粒子【陽子中性子電子】と相互作用しないならば火傷もしないはず。つまり、五感でわからないということです。
数学者岡潔が唯物主義について云ったように「五感でわからないものはないとしか思えない。」のですから、(自然科学者は)どうしようもない「原始人的無知」の状態にあります。「【3】五感でわかるもの」
100年以上前に彼らは具体を捨てて抽象を受け入れたのですけれども、気付けなかったのです。その問題の根本に「時間」が存在したからだと今なら理解できます。 人の持つ観念に過ぎない時間を用いて抽象的な数学を用いれば幾らでも精密・緻密に計算できますから。 どう考えても時間は基本物理量ではありません。少なくとも基本物理量に不適切です。やっと自然科学が持つ問題点の本質が納得できました。 時間は抽象なのに単位を持ちます。
次のことを云いたい。「抽象は高等・高尚・上等ではない。【五感でわかるもの】とは具体のこと。具体に勝るわけが無い。英語による行きすぎた細分化は病むだけ。」 「宇宙の真理を探究するに最適の道具は数学だという。ならば何故数学の難問に挑むと心を病むのだろうか」が参考になります。
余談です。
だとしたら、素粒子とは何か。弧理論では次になります。
基本粒子(陽子・中性子・電子)は内部構造を持ちません。素粒子は基本粒子未満の破片のようです。物質未満の「波の干渉」のようです。素粒子は、波の干渉を量子化した物というのが近いような気がします。いわば基本粒子が起こす縞模様です。 基本粒子はE軸上の実体6種からの投影による映像だと考えます。どうも反転するようですから、6×2=12種類の運動Pの状態がありそうです。(映像として波が離散的に現れると言い換えできます。) 運動Pの一形態が「波」だと考えられますので、この波を量子化すると12の倍数の干渉があり得ることになります。これが素粒子のことと考えれば辻褄が合います。 力の説明は最も難しいです。力とは一言で云えば「忘れようとしても思い出せない」といったへそ曲がりです。 書き下すと、「E軸上の実体は観測者に対して静止しようとするが故に、映像としての物質は運動Pせざるを得ない。」となります。短くすると「実体は静止ようとするから、物質は動かざるを得ない」となります。ですから、五感の世界に居る観測者【我々】に対して慣性の法則は成り立つとともに、極小極大の世界は動かざるを得ないと考えます。我々の居る五感の世界は、その例外ということです。 どうも五感の世界に居る観測者【我々】に対して極小極大の世界はE軸方向に曲がっているようです。重力はE軸方向への歪みだと考えます。光速度不変はモノサシになりません。「別の次元軸を考える理由」を参照ください。
ある科学者が云ったように「先へ進みたいならば」幹の分岐点まで降りて、再び登り始めるしかありません。電磁気現象が「別の次元軸」に原因があるかも知れないという仮説から始めた研究ですけれど、とんでもない広がりを見せています。(未だ仮説のまま。) 今云えることは、僅かの専門家にしかわからない研究を続けて、「手が出ないほど複雑な装置」を作っても「先へ進んだことにならない」ということです。人工知能はプログラマ自身が中身を解析せねば「状態」はわからないようです。(優秀な将棋プラグラムを書いた人はアマチュア何級とか。ソース失念。)
分岐点が当初の200~300年くらい遡った時点にあると考えてきましたけれども、縄文中期にまで遡る必要があると判明したのは驚きです。「弧理論(Ark Theory)の意味するところ→「異星人の哲学」=「古代縄文人の哲学」」を参照ください。
参考です。
表の両端に向けて、人の肉体が持つ五感はフェードアウトしています。
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