過去に仏教用語である「縁起」について記しましたが、キリスト教の概念である「 三位一体 」もほぼ同じ意味だと考えられます。
(1) 過去記事に縁起とは、原因と結果であると記しました。ネットにある辞典によると仏教の根本思想だとのことで、次のようにあります。
仏教用語。他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており,したがってそれ自身の本性,本質または実体といったものは存在せず,空である,と説かれる。
難しく書かれています。「本質または実体といったものは存在せず,空である,」とのこと。まるっと同意です。”物質は別の次元軸からの投影による映像だ”というのが弧理論(Ark Theory)の基本です。実体は別の次元軸上にあります。
wikiには次のようにあります。
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
「此これがあれば彼がある。」つまり、互いに原因と結果の関係にあると云います。簡単に考えれば物理の二体問題です。
図1 出典:二体問題
いつも引用するある科学者は運動の相対性について、次のように述べています。
宇宙空間を進行している二個の惑星のそれぞれに一人ずつ観測者がいるとしよう。この惑星はいわば光速の半分で動いているとする。しかしどれも等速度で平行に進行しているのだ。もし宇宙空間に他の天体が存在しないとすれば、二人の観測者は当然のことながら自分たちの惑星は運動エネルギーをもたないと考えるだろう。何故なら二人の関係位置が同じエネルギー・レベルにあるからだ。そこで三番目の惑星を置いたとして、これが空間に静止しているとすれば、二人の観測者は自分たちの惑星が相関的には運動エネルギーをもたないのに、第三の惑星に関してはすさまじいエネルギーをもっていると感じるだろう。しかし実際にはどの惑星が動いているかを決定する方法はない。ただ、惑星間に相対的な運動または異なるエネルギーがあるといえるだけだ。
二人の観測者がいる惑星を惑星Aと惑星Bとし、第3の惑星をCとして図示します。
図2
惑星Cは空間に静止しているとするならば、AとBから見てCはすさまじい速度を持っていると感じます。しかし、ABかCのどちらが動いているかを決定できません。これが運動の相対性です。
縁起とは思想哲学的に解釈されますけれども、2000年以上前の人たちに二体問題を提起したら同意するだろうと考えます。当時の人たちは物理を知らないのですから仕方ありません。縁起とは相対性を意味する言葉でもあります。
(2) 三位一体 キリスト教において、1.父 2.子 3.霊だとされます。wikiでも「三位一体は難解である」と示されています。本当に意味不明です。
三位一体とは、早い話が物理の三体問題です。縁起、つまり二体問題(此Aと彼B)では「回転」の説明ができません。そこに第三の惑星Cがあることによって、回転運動が理解できます。実は図1の回転は、図を見ている人が第3の存在(観測者)なのです。だからAとBの回転だと認識できるのです。二体問題は解けますが、一般的に三体問題は解けないとされます。
結論を云えば、縁起は二体問題で 三位一体 は三体問題です。後は多体問題になります。ですから縁起と 三位一体 は、ほぼ同じ意味になります。運動の相対性という意味において同じです。 概念として宗教的あるいは思想的な解釈にはムリがあります。
失礼ながら、朝食で呑む牛乳と同じです。
写真1
瓶と蓋と牛乳です。牛乳を安全に運び保管するには瓶と蓋が必要です。蓋がなければこぼれます。瓶だけでは保管できません。牛乳だけでは運べません。瓶と蓋はそのために用意されています。縁起も三位一体もそれほど難解であるとは思えません。でも、瓶と何か、蓋とは何か、牛乳とは何か?示されていません。
ここから本題で管理人の伝えたいことです。
ある科学者が云った運動の相対性の説明は惑星A、B、Cでした。縁起では「此これと彼」でした。三位一体では「父と子と聖霊」でした。それは人でも物でも「事」でもよいわけです。そこが問題です。
「人と人、人と物、人と事、事と事」などの組み合わせが考えられます。それぞれが3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)のどれかに属します。 ある科学者が云った運動の相対性の説明も縁起にある「此と彼」も三位一体の「父と子と聖霊」もどれかの組み合わせです。 ところで、聖書には「神に似せて人間を創造された」とあります。創世記の26節にあるそうです。「日本キリスト教会 南柏教会」より引用します。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』
よく考えるとわかりますように、26節に示された「神様と人」は、「事(神という概念)と人」の関係性を示した言葉です。 これ(聖書)は弧理論の考え方による社会科学です。精神科学ではありません。精神科学とは人とは何か、どういったものかを考えることです。26節は神様も人も自明のこととして始めています。これは精神科学ではありません。
数学者岡潔は、人とは何か、どういったものかを考え続けたのですから、彼の行いが精神科学だったのです。その結論が「大宇宙の本体は情じょうである」なのです。物である人の本質は情にあると云ったのです。聖書には神とは何か?人とは何か、どういったものか書かれていません。聖書は前述の二体問題あるいは三体問題(または多体問題)のままです。
では、弧理論の考え方に等しいと考えられるヲシテ文献では、どうかということです。2017年5月13日の記事『縄文哲学の核心「カミの仕組み」はお釈迦様の云った「縁起」と同じらしい」』を参照ください。
ホツマツタヱなどヲシテ文献を読み込むと、カミとは、「繋がり・齎もたらし・生じさせる」 だとのことです。(※この解説はヲシテ文献研究者である池田満氏によります。) この「カミ」の定義において「何と何が」「つながり」「何を」「もたらし」「何を」「生じさせる」のかについて、補うことにより理解が深まります。
図3 出典:フトマニ×モトアケ
図3フトマニ図の中央「アウワ」を補足によって、「カミ」の定義が明確になります。 二つをつなげますと『カミ』とは、
「ア」と「ワ」は、つながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。「ヒトハ アノモノ」であり、「ヒトハ ウナリ」。
となります。「ウ」は渦のウであり、弧理論の基本形である紡錘図形(原子模型:渦)との整合性が高いことがわかります。「ア」と「ワ」は「アワ:泡」を形成して宇宙の大規模構造を成しています。前記記事をお読みください。
つまり、「カミ」の仕組みが自然を形作っており、カミの仕組みとして「ア」と「ワ」という中心が2つあります。ヲシテ文献には「ヒトハアノモノ」だと記されています。(ホツマツタヱ キミトミノコシノリノアヤ)ですから、ヲシテ文献は日本人のルーツ(クニトコタチさんによるトコヨクニ)であると同時に自然の成り立ちとともに「人とは何か」を説明している精神科学でもあります。 ヲシテ文献は最高です。注:ネット上にあるヲシテ文献を漢字直訳したものは全くダメです。
因みに聖書において「モーセは神と契約」しました。このお話しには「神と人(モーセと仲間たち)と契約から外れた人たち」が入っています。 勿論、これは社会科学の範囲です。この契約には証として石板があります。 聖書にある契約の箱は人が担いで運びます。
写真2
契約の箱には
図4
契約の石板、マナの壺、アロンの杖が入っていたと云われています。この形は意味深です。どうもいずれ神と人(モーセと仲間)との契約は満了に伴う解除、リセット、あるいは反古になるだろうと考えます。契約の箱に入っているからです。この形、箱は契約に優先することを意味します。
ついでながら、物質の基本は原子です。原子は陽子・中性子・電子からできています。この3つを基本粒子と呼んでいます。完全無個性である基本粒子は取り替えても替わりません。誰も気付きません。例えば、電子を別の電子に入れ替えられます。(状態は変わりますでしょうけど。) 最近わかったこととして、基本粒子がパズルで云うピースです。我々はピースでできたパズルに過ぎません。
写真3 パズルとピースと破片
ですから、人を含めた物は三位一体(あるいは多体問題)だということです。仮に陽子と電子(水素原子)だけだったならば、違った宇宙になったことでしょう。三位一体の意味はこの辺りにあるはずです。 既存のいずれの宗教も精神科学ではありません。仏教には一部あるかも知れませんが、今のところわかりません。
余談です。「電子は電子だ」は無意味ですけれども、上記の通り「電子はレプトンだ」もダメです。そこで疑問です。 ヒッグス粒子と力の粒子は除いて考えます。
図5 出典:素粒子原子核の研究
陽子と中性子は内部構造があり、単独で取り出せないクオークからできているとされます。一方で電子は素粒子であり、内部構造を持たないとされます。 原子は陽子・中性子・電子でできています。物質の基本粒子に電子が入っているのは変です。それだと電子も内部構造を持って、幾つかのレプトンで構成されているならば、3つの基本粒子はいずれも並列だと理解できます。何で電子は原子を構成する基本粒子でありながらレプトンという整理なのか理解できません。
図5は、一見うまく整理できているようだけども、何もわからないと感じます。これも物理学は物と物の関係性について科学したからです。過去記事「物理学は「物の理」を科学するはずが、時間を用いることにより「事の理」を科学したている」を参照ください。 それもこれも全部別の次元軸を想定する以外に解決法はないように感じます。
追記11月24日 過去記事に同じような語句を用いていたことを思い出しました。 「鐘が鳴るのか、撞木しゅもくがなるか、鐘と撞木が合うて鳴る。」です。
写真4
鐘と撞木は原因と結果とみれば縁起ですし、前提となる音(空気の振動が波として伝わる)を入れると三位一体です。しかしのところ、読者や管理人が居るのはさらなる前提ですから、それを入れると四位一体、五位一体・・でもあります。
写真3(パズルとピース)について、説明不足でした。 縁起の「此これや彼」、あるいは三位一体の「父や子や聖霊」がどういったものであり、何であるかを示さねば本当の「わかった」にはなりません。先日の記事にあるように「わかる」には2つあります。数学者岡潔によれば2つの「わかる」は以下でした。
- わけることによりわかる ・・・要素還元主義(第1の心) 意識を通す
- 何となく趣おもむきがわかる ・・・情じょう(第2の心) 意識を通さない
人間の本質は2.にあると岡潔は述べました。
「此これや彼」、「父や子や聖霊」、「瓶と蓋と牛乳」、そして「鐘と撞木と音」がどういったものであり、何であるかを示さねば本当の意味で「わかった」ことになりません。これら全ての「物や事」には、本当の原因はありません。此も彼も瓶も蓋も牛乳も鐘も撞木も音も人(観測者)もすべて物です。父も子も聖霊もすべて人の内にある事(出来事)です。これらすべてがどういったものであり、何であるかを示していないのです。前述の通り聖書も同じです。
先日、某所にて二河白道(にがびゃくどう)の掛け軸を観て親鸞聖人の譬えを知りました。
図6 2010年 3月 今月の法話 二河白道(にがびゃくどう)の図
これとて同じです。弥陀や釈迦がどういったものであり、何であるかを示さねば本当の意味で「わかった」ことになりません。 人がわかると思ったとき1.なのかというと2.であるように感じます。しかし、意識を通して言葉で云える1.にてわかったつもりになっているだけだと気付きます。
これまで度々と記事にしてきた匙とスプーンも同じです。国語辞典を見ると匙はスプーンと記されています。
写真5
スプーンは匙と記されてます。
写真6
でも皆わかったつもりになっています。(本当は皆2.でわかっている。)
突き詰めると人を含む物や事(あるいは出来事)とは何かを示さねば1.のわかったになりませんし、2.のわかる仕組みもわかりようがありません。 ですから、おそらく現在の科学と宗教では何もわかったことにならないと考えます。
岡潔が自然科学(者)を強烈に否定したことの意味はここにあります。岡潔思想研究会、「自然科学は間違っている」から「【 3】 五感でわかるもの」「【 4】 自然科学と生命現象」を参照ください。 以下、一部引用します。
人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。
余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。
人は立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が突嗟に統一的に働くから立てるのですが、何故こういうことができるのか。これに対しても自然科学は本質的なことは一言も答えられない。
略
人は観念することができる。観念するというのはどういうことをいうのか。一例として、哲学することができる。何故か。自然科学は勿論、一言も答えられない。
人は認識することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。人は推理することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。それじゃあ一番簡単に、人は感覚することができる。何故か。これに対してすら自然科学は一言も答えることができない。
数学者岡潔の考え方を理解すると、「わかっている(と思っている)ことの上での科学は浅い」としか云いようがありません。「つもり」になっているだけです。 神の数式だとか愛の方程式など「つもり」でしかありません。何度も言います。別の次元軸を考える以外に道はありません。 五感でわかる物質は別の次元軸からの投影による映像です。
有名な「傘をさすカエル」の写真を貼っておきます。
写真7 出典:カエルも雨にうたれたくなかったのか…。葉っぱの傘をさすカエルたち!
カエルに雨はわからない。
いやぁ、子どもの頃からの疑問が少しずつ氷解していきます。
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