宇宙を表す数式などできない 宇宙の方程式 などありない

このままでは、宇宙を数式で表すことは原理的に不可能です。正確に云います。「数学を使って物質的自然を表現することは(このままでは)不可能だ」ということです。物質的自然とは、数学者岡潔が名付けた「自然科学者が考える自然」のことです。講演録より「【 3】 五感でわかるもの」を参照ください。 宇宙の方程式 というのはありえないことです。これまでの考察でわかったことを順に示して説明します。

(1) 人の五感でわかる物や事についてです。「わかる」とは次の通り3つあります。前々回の記事『人が持つ「 わかる 」には3つ在る』を参照ください。

  1. 第1の心・・・意識を通す。言葉で云える。わけることによりわかる。要素還元主義。
  2. 第2の心・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく趣おもむきがわかる。岡潔の云った情じょう。ヲシテ哲学のナサケエダに同じ。わかり易く云えば「静止画がわかる」ということ。
  3. 第3の心?・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく動きがわかる。「動きがわかる。もののあはれ」。ヲシテ哲学の「アワレエダ」に同じ。わかり易く云えば「動画がわかる」ということ。

人が時の中に住めるのは2.と3.があるからです。 (追記注:12/12日 ご存知の通り、物質は離散的に現れます。離散的な現象が「わかる」には、2.と3.が必要だということです。)

しかし、人は普段において、意識をし、思考をし言葉で表現できる世界に居ます。「わけることによりわかる」と考えています。特に岡潔は「西洋人は1.しか知らない」といいます。岡の講演録より「【1】2つの心」を参照ください。

(2) 匙とスプーンの譬えの通り言葉は循環です。

写真1 匙はスプーン。スプーンは匙。人が匙を匙とわかるのは2.と3.による。言葉による1.ではない。

 

 

言葉は互いに規定し合って成り立っています。言葉に本質はありません。言葉は人の思考そのものですから、人の思考に本質はありません。物や事の本質的な「わかる」は2.と3.にあります。

(3) 数も同じです。『自然数の「1」は決してわからない』と岡潔が云ったのと同じです。 数学は人の思考を手助けする道具です。例えば二進数の場合で説明します。二進数には「0」と「1」を用います。1とは何かと問われれば、「0でない数」と答えるしかありませんし、「0とは1でない数」と答えるしかありません。10進数であれ、12進数、あるいは16進数でも同じです。つまり、数は互いに規定し合っており、循環です。数に本質はありません。講演録から「【6】 数学の使えない世界」を参照ください。

(4) では、「数とは何か」です。「数は量のかげ」と岡潔は云いました。量とは何か。量とはの量であり、嵩かさです。人の五感でわかるのは、物や事です。では物とは何かです。物とは基本粒子である陽子と中性子と電子です。では、電子とは何かと問われれば「陽子・中性子で無い物質」と答えるしかありません。陽子も中性子も同じです。互いに規定し合っていますから、循環です。物や事に本質はありません。

人の五感でわかるのは、目分量です。おおよその嵩です。正確に物の量を出すために長さや重さの変わらない物質を用いてモノサシを作ります。モノサシに付けた目盛りにより被測定物の量と比較して数に置き換えます。同時に単位を付けます。ですから、数は量のかげです。 も物のも、量から必要とされるも全部が「互いに規定し合う」ことにより成り立っています。

(5) 以上をまとめると、物や事も、思考そのものである言葉も、道具である数学も「互いに規定し合っている循環」であると云うことです。 これまで、主に数学者岡潔の「自然科学は間違っている」という言葉を手がかりに考察してきました。一番怪しいという自然科学の問題点として「時間」に絞って考えてきました。時間は物の運動から作ります。最初は太陽の角度から時間を作りました。ですから時間は10進数でありながら、12の倍数で表します。しかし、角度は量ではありません。つまり、時間は物理量ではなかったのです。だから自然科学は間違っていたのですが、そこにも問題の本質はありませんでした。

古代インドの宇宙観は循環でした。

図1

現代も同じで、時間を用いた循環理論でした。

図2

ところが、もっと基本的なこととして、物質的自然そのものが循環によって出来上がっていたのです。これまで管理人が述べてきた「物質的自然に一切の原因は無い」ことの裏付けができました。

 

そういえば、管理人には級数再帰は、循環の一つ、あるいは近いもののように見えます。マンデルブロ集合やフラクタルも同じです。また、確率も循環の一つに組み込まれているように見えます。

図3 出典:マンデルブロ集合

月面クレーターの大きさのスケールがわからないのは、物質的自然の成り立ちに関係したのだと理解できます。

動画1

改めて、数学を使って物質的自然を表現することは(このままでは)不可能です。言い換えますと、我々の思考や言語・数学を含めて「宇宙の外を思考することは原理的に不可能だ」ということになります。 そういえば、G・アダムスキーが遺した足跡図について、管理人はこれまで「足跡図は宇宙の外について、一切言及していない」と表現してきました。上記の考察により、納得できました。

写真2 出典:スカリフの戦い

そういえば、映画スターウォーズの登場人物が宇宙狭しとどんなに動き回ろうともスクリーンをはみ出すことはできませんし、スクリーンの外を云々できません。

ただ厄介なことに「五感でわからないものは、ないとしか思えない」という唯物主義の人たちには、上記を説明することは不可能です。気(キ)付いてもらうしかありません。講演録から「【 3】 五感でわかるもの」を参照ください。

人が五感で「わかる」のは、2.と3.によります。1.ではありません。 究極的に数学が循環であれば、数学で心を病む人が出てくるのも頷けます。過去記事「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」を参照ください。 精密・緻密かつ抽象で難解だから高等・高尚・上等である訳ではないです。

宇宙にある物質の根源は素粒子であるというのも間違いです。

  1. 素粒子群の成り立ちと基本粒子が作る結晶構造との間に相関がない。素粒子の性質で結晶構造などを説明できない。出典:ヒッグス粒子と質量 
  2. 基本粒子は何故か微視も巨視も回転運動を基本としているが、素粒子は回転運動に寄与していない。量子力学では、微視的には基本粒子が回転しているとは説明していない。
  3. 空間において、回転運動を認識できるのは最低種類の粒子が必要。それが基本粒子であり、素粒子群とは関係が見いだせない。

上記の説明はちょっと弱いです。しかし、わけることにより素粒子群がわかったと云っても、「わかった」ことにはなりません。人が物や事を「わかる」のは、冒頭(1)の2.と3.にあるからです。素粒子群が人の五感でわかるとしたら火傷でしょう。人の成り立ちと素粒子群は無関係です。

宇宙を方程式で表そうとすると、循環論法に陥って心を病むことになります。たとえ時間を用いなくても循環論法にならざるを得ません。まったくもって、別の次元軸を考える以外に方法はないと実感できます。

 

追記12/12 一部補足説明と写真や図を補いました。

~の数式、~の方程式などありますが、意味は無いです。単に循環を複雑にしただけです。「わかる」とはまったく異なります。

繰り返します。抽象で複雑に過ぎます。人は五感でわかる具体から離れ過ぎてはいけないと感じます。病まないためにも。 人間の脳も人工知能も本質的に同じ(1)の1.です。 しかし、人には加えて(1)の2.と3.があります。  岡潔が云ったように、何となくわかるのであって、言葉でわかっているのではありません。人と人工知能との違いはここにあります。 岡潔は、「【3】五感でわかるもの」の中で「(自然科学者の唯物主義について)原始人的無知」とまで云いました。彼の言葉を検討する内に、岡潔の凄さがわかってきます。 それと、難しい概念を含む語句をもって複雑な言い回しをする文章には気をつけた方がよいように思います。例えば、オーム 真○教の教義に魅力を感じる等です。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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