超弦理論は、盛んに研究されているようです。
図1 出典:研究の目的
しかし、 超ひも と人とは何の関係もありません。断言できます。
これまでの考察によって人が持つ「わかる」には3つあることがわかってきました。しかし、自然科学においては、「人とは何か」という問いを置き去りにしています。過去記事『人がもつ「わかる」には3つ在る』を参照ください。記事のまとめ部分を再掲します。
- 第1の心・・・意識を通す。言葉で云える。わけることによりわかる。要素還元主義。
- 第2の心・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく趣おもむきがわかる。情じょう。静止画がわかる。ナサケエダ
- 第3の心?・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく動きがわかる。動画がわかる。「もののあはれ」「アワレエダ」
1.と2.は、岡潔が名付けました。2.と3.の「ナサケエダ・アワレエダ」は管理人によるヲシテ哲学の解釈です。また、2.と3.の「静止画・動画」は管理人によります。
超ひも と何の関連があるのか疑問でしょう。その前に数学者岡潔の言葉から考えを進めます。「分野が違う」というのは当てはまりません。全部一緒だからです。講演録【4】情のメカニズムから一部引用します。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣おもむき」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。
言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。
下線は管理人による。「わかる」というのは理ことわりではありません。趣おもむきがわかるということです。 言葉ではいえないし、教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。冒頭に示した1.が「理ことわりがわかる」です。2.が岡潔の云った「趣おもむきがわかる」です。管理人の云う「静止画による趣がわかる」です。
岡潔は易しい言葉を連ねていますけれど、さっぱりわからないという方も居るでしょう。以下は解説で、すべて喩えです。
水引は慶弔の際に使われる飾り紐のことです。
写真1
この水引には様々な結び方があります。結納の際には水引で作られた鶴亀や松竹梅が使われます。
写真2
では、紙の紐で作られた松が松とわかるのは何故でしょう。鶴は鶴、亀は亀です。何も紙の紐でなくてもよいです。綿の紐で作ることもできます。
写真3
紐の結びにはいろいろあります。
写真4
神社の本殿などの出入り口にかける門幕の飾り紐の結びです。
写真5
僧侶の袈裟に掛ける結び紐もあります。管理人にはとてもできません。
写真6 出典:「花結び 九 袈裟結び」
このような結び紐でアクセサリー作りを趣味にする方も多いようです。実に綺麗です。
写真7 出典:森屋本舗 ( @moriya_honpo )
探すといろいろ出てきます。昔、縁日でのこと針金細工の三輪車を売る出店があったのを思いまします。今でも売っているようです。
写真8 出展:むずかしい針金細工
以上の作品は縄や紐や針金の特性を使って作っています。
これが面であっても同じです。折り鶴は、折り紙だけでなく新聞紙、あるいはアルミ箔で作っても折り鶴です。
写真9
おわかりと思いますが、如何なる物もその素材と出来上がった物との間にまったく関係はありません。
人は物として元素からできています。元素は原子からできています。原子は陽子・中性子・電子でできています。前から書いていますように「電子とは?」と問われて「陽子・中性子以外の物質」と答えるしかないのです。たとえ、 超弦理論 の 超ひも について、「超ひもとは?」と問われても答えることはできません。超ひもと人との間には何の関係もありません。 松は松の竹は竹の鶴は鶴の、そして人は人の趣が直じかにわかるのであって、1.「わける事によりわかる」のでは決してありません。物の理でわかるのではありません。 管理人には、「人を構成する基となる物は何か?」と問われるならば、基本粒子「陽子・中性子・電子」だと答えます。素粒子でも超ひもでもありません。それでも人と基本粒子とは関係がないのです。
岡潔が山崎弁栄上人を引用し指摘したように「別の次元軸からの投影による映像」だと考える以外に「物とは何か?」に答えることは不可能だと思います。注:岡潔は「少なくとも、一部(の素粒子)は映像と云ってよい。」と述べています。【3】 西洋の唯物主義を参照ください。
原子を構成する陽子・中性子・電子は状態を変化させるだけです。1個の陽子が貴方の身体の骨の一部にあろうと、机の木材を構成する一つの原子の中にあろうと、関係のないことです。
今、貴方は携帯やPCの画面を通して3個のオレンジがあるのを認識しています。
写真10
画面を虫眼鏡で見ますと画素(ドット)で構成されているのがわかります。各々の画素は状態(色と明るさ)を変化させているだけです。隣の画素との関連もありませんし、オレンジとは何の関係も無いことは明らかです。
素粒子もあるでしょうし、超ひも もあるかも知れません。けれどもそれらは、基本粒子未満の欠片かけらに過ぎません。人を構成するのは基本粒子であって、極論すると欠片はどうでもよいことです。これらの欠片は本質的な回転運動に寄与していません。
表
岡潔は「大宇宙の本体は情である」とし、人の心の働きようを「頭頂葉・前頭葉・側頭葉」に求めています。講演録【9】 頭頂葉の個性を参照ください。 しかし、どうも管理人は同意することができません。 確かに脳の働きを模して人工知能はできました。しかし、脳に人の2.と3.を割り振るにしっくりきません。
理由は簡単です。 水引も紐も針金も折り紙もアルミ箔も皆「一様」です。一部が特別と云うことはありません。 特異点はないということです。
写真11
基本粒子もまた特別な基本粒子など無いと考えます。その機能の一部として別の次元軸との作用があり、その結果として2.と3.が発現すると考えます。そう考える以外をちょっと思いつきません。人の心の働きようのすべてを「頭頂葉・前頭葉・側頭葉」に求めるのはどうも違います。
詰まるところ、その辺りに転がっている石ころも脳も特別と云うことは無いということです。全部一緒です。
- 物質科学とは、基本粒子が別の次元軸からの投影による映像だという仕組みを科学することです。
- 社会科学とは、基本粒子が別の次元軸からの投影による映像だから、すべての人をして立場を超えて全部一緒だということを理解(科学)することです。
- 精神科学とは、人の心の働きにかかる仕組みが別の次元軸に在る何かから発していることを科学することです。
注:これまで学問体系にある「自然科学、社会科学、人文科学」という分類での社会科学とはまったく異なります。
上に示した3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)は互いに規定し合って成り立っています。3つの科学が揃って初めて進歩を続けられます。物質科学の一部分が自然科学です。また、弧理論(Ark Theory)は物質科学であるとともに他の2つの科学との接点でもあります。その境界は曖昧です。
ある科学者は平和について次のように述べています。
数百世代の間、地球人は”平和・平和”と叫んできましたが平和はありませんでした。彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことは、全く馬鹿らしいと思われるとしても、数百万の人々が、周期的に起こる戦争において、”すべての戦争を終わらせるために”戦って死んでいきました。彼らのどんな直接的な試みによっても平和は決して達成はしないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、何処を探せばいいかをだれかが知っているとしても、掘ってゆけば得られるような金でもなく、またすぐ手に入る宝物でもありえません。『平和は単に、人と人、人種と人種、国と国、それにすべての人々の間の完全な理解と、神として地球人に知らされている、あまねく広がる力と英知の副産物として自動的に得られるものです。』そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかし、これが理解されるまでは、どんな努力も成功はなし得ません。
完全な理解が存在するならば、平和は自動的に得られると述べています。また、別のところで「(平和を得るに)単に問題を提起するだけで解決方法を与えていないからだ」と述べています。
ある科学者の云った解決方法とは、完全な理解にかかっています。完全な理解とは社会科学、つまり3つの科学を通じて全部一緒だと理解することに他ならないと考えます。そうすれば平和は自動的に得られるはずと考えます。 素粒子や超ひもではなく、もっともっと基礎的なことに力を注ぐべきです。努力の方向が間違っています。 図1は右側に行けば行くほど(力の統一)という意味でまとまってきているように描かれています。 しかし、方向が間違っています。ある科学者は、人類が進歩を続けようとするならば、分岐点まで降りて再び登り始めるべきだと指摘しています。分岐点は言わずもがな数学者岡潔が指摘した点について真剣に考えることから始まります。
譬え話を紐から折り紙へと進めました。線から面へと進めたわけです。同様に線から面、面から立体に考えを巡らせれば、自然とは「別の次元軸からの投影による映像(という仕組み)」だと理解できてきます。つまり、冒頭の2.と3.の仕組みを別の次元軸を原因として捉えるならば、立体(物とは何か)を1.として理解(わかる)と云いたいのです。
最後に一つ面白いこと。写真5、6、7には、対称形や繰り返しやその連続がでてきます。それは自然そのものです。再帰・フラクタルに惹かれたりします。何故かこれらを美しいと感じます。写真は水引ゴムバンドです。
写真12
それと、これを忘れてはいけません。少し前から匙さじとスプーンを引き合いに出してきました。「匙はスプーンであり、スプーンは匙」というものです。
写真13
写真14
言葉は循環であり音素に意味はありません。違いに意味があるのです。岡潔が「自然数の1は決してわからない」と述べたのと同じです。音素は決してわからないのです。 つまりは、数学も循環です。ですから、数学を用いて宇宙を表現できるとしても循環にならざるを得ないのです。例えば「ひも」で表現できるとしても必ず循環になります。「膜」で表現できるとしても必ず循環になります。自然科学は時間を用いた循環でした。岡潔が「自然科学は何も答えられない」と指摘したのは、このような理由からです。
図2
繰り返します。人が物や事を「わかる」のは、決して理ことわりでわかるのではありません。「超ひも」と人の「わかる」の間はあまりに離れています。
追記12/27 岡潔 「視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。」【4】 何故見えるのか
「余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。」【 4】 自然科学と生命現象