いずれ 自然科学 は皆から見捨てられるでしょう。 ことに素粒子物理学は最初に求心力を失うでしょう。 その理由は3つあります。これらの理由は既に解説してきたことです。できるだけ簡潔に書きます。
- 時間は物理量ではない。
- 物質とエネルギーの同一性を誤解している。
- 物とは何かを要素還元主義で求めることはできない。
以下に解説します。
(1) 数学者岡潔は、「時間という量はない」と云いました。(【6】 数学の使えない世界) 人の五感でわかるのは「物と事(出来事)」です。物には位置と重さ、即ち質量があります。位置の隔たりが距離(長さ)です。物にある長さ(あるいは面積や体積)と重さが量として五感でわかります。 事とは、物と物あるいは人と物の関係です。「事」は量ではありません。
岡潔は「運動から時間を作る」と云いました。(【 2】 自然科学者の時間空間) 五感でわかる物の運動から時間を作るという意味です。最初、人類は地平に現れ没する太陽の光が作る影から時間を作りました。
図1
それが日時計です。
写真1 携帯型の日時計
太陽の光が作る影の位置に数字を置きそれを時間としました。言い換えると角度をもって時間としました。角度は物と物との関係であって「事:出来事」です。角度は量ではありません。ですから時間は量ではなく、角度という出来事です。だから10進数を用いながら12の倍数なのです。
現在では、時間を振り子、テンプ、クオーツ、セシウムの運動を用いて作りますが、いずれも五感でわかります。人の五感でわかる範囲を表にしました。
表
人の五感でわかるのは、おおよそ10-10mあたりから1020mくらいの赤い括弧で括った範囲です。その基本となるのは原子です。 岡潔は「物質は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない」と云いました。
人は五感の内に生きています。五感でわかる運動から時間を作りました。ですから、時間は五感でわかる運動にしか適用できません。何故なら、時間は人の持つ観念に過ぎないからです。経験したことのない出来事に時間の観念は生じ得ません。事は量ではありません。 それが「10進数による12の倍数」であって、如何に精密で緻密に組み立てられている理論であってもです。これでは何かを観測していても、その内に時間を含んでいるならば、表の括弧の範囲を越えた部分では意味はありません。
自然科学の全体をめとめると次図になります。
図2
自然科学は循環論法であって、間違っています。恐らく上表に(観測による限界しか)終端はありません。
少し外れますが時間は「過ぎ行く運動の記録・記憶あるいは記憶に基づく経験から来る観念」であって、現在を含みません。時報は過ぎてからしか知り得ません。
図2
従って、古典物理学あるいは量子力学のいずれも決定論にはなり得ません。最近わかってきたのは確率論ですら無いようです。確率は、物質と波との仕組みにおける結果です。確率はたぶん事に分類されます。
(2) いつも引用するある科学者は次のように述べました。
君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。
下線は管理人による。 数式とはE=mc2のことです。 (1)の理由により時間を用いることはできません。運動量もエネルギーも使えません。ここではエネルギー[ML2T-2]のことを時間を含まない運動Pと呼んでいます。c2は時間を含むので使えません。Cを定数として大雑把にEをPに置き換えます。
P=Cm
質量mと運動Pは互換(転換・交換?)であるとでもいう意味になります。ここに誤解があります。(注:式の正しくは、実体の持つ値と投影角が入ると予想されます。数式はまだ完成していません。) ある科学者によれば、質量も運動Pも別の次元軸にある実体の(投影という仕組みによる)異なる側面だというのです。転換の関係にあるというのが誤解です。図示すると次になります。
図3
別の次元軸上にある実体が持つ値が投影さえることにより物質(位置を持つ質量)として認識できます。我々が日頃、エネルギーと呼んでいるのは運動Pであって、投影角が浅くなると大きくなります。同時に質量は観測できなくなります。これまでの考察によれば、運動Pの一形態が”波”であるようです。波は位置と質量を特定できません。電子は波として観測できます。電子は運動Pとして観測されるとき位置と質量は不定です。これを量子化したのが光子です。ある科学者の言葉を真似れば「電子と光子は一つの実体の異なる側面」に過ぎません。 E=mc2は誤解です。
ですから、素粒子の質量であるGeV/c2は、「別の次元軸からの投影による様々な”波”」を時間を含んだ数式を使って質量に換算しているだけです。何らかの波は存在するでしょうけれど、すべて投影による映像だと考えてよいでしょう。岡潔は「少なくとも(素粒子の)一部は映像と云ってよい」と述べています。(【3】 西洋の唯物主義) 素粒子の一番の問題は人の五感でわからないことですし、時間という人の観念(経験)と無関係だということです。素粒子は、上表の括弧の範囲外です。どう考えても基本は原子(陽子・中性子・電子)にあります。
以上の点をある科学者は次のように指摘しています。
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
(3) 要素還元主義は、平たく云うと「わけることによりわかる」ということです。ところが、よく考えると人の「わかる」には、「わける」は含まれていないことがわかります。例として次を挙げます。
写真2
これは何かと問われれば「スプーン」もしくは「匙さじ」と答えます。これを辞書で引くと次になります。
写真3
写真4
人が写真2を匙としてわかるのは、言葉ではなく「直じかにその趣おもむきがわかる」のです。言葉は前述と同じ循環論法です。(1)で示した時間を用いなくても言葉自体が循環であるということです。これと同じ意味のことを岡潔は述べています。岡潔は『自然数の「1」は決してわからない』と述べています。
例えば「0と1」を用いる2進数で、1とは何か問われれば、「0でない数」と答える以外にありません。即ち「1は決してわからない」のです。0もわかりません。でも人は物とは何かわかっています。 このことは素粒子でも同じです。電子とは何かと問われてレプトンだと答えたとしても答えになっていません。究極の素なる粒子を持ち出しても同じです。 それと岡潔は「数は量のかげ」と云いました。つまり、物が何かを答えられないように「数」とは何かを答えることはできないのです。(【6】 数学の使えない世界)すべては循環です。
言葉が循環である以上、人の思考も循環であるはずです。嵌れば狂気です。物質的自然に原因はありません。
- 2018年3月27日の記事「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」
- 2018年8月27日の記事「なぜ 日本語 は外乱に対して堅牢なのか」を参照ください。
人の「わかる」は、「わけてわかる」理解ではないのです。(【4】 情のメカニズム) 物も事もすべては循環です。これを昔の人は縁起あるいは三位一体と言い表しました。
今年度は終わりましたけれども、毎年夏頃?から国の次年度予算の作成が始まると思います。文部科学省の助成金や補助金を申請するに事業計画を提出する必要があります。それには3つの理由について、きちんと説明する必要があります。国民の税金を使う以上、皆に分かり易く説明する義務があります。でなければ認められる訳がありません。素粒子物理学者は、3つの理由に答える義務と責任があります。特に(1)と(2)には厳しいものがあります。
- 時間は物理量ではない。時間は人の持つ観念に過ぎず、五感でわかる範囲にしか適用できない。
- 物質とエネルギーの関係を誤解している。
岡潔は、「一部の素粒子は映像だと云ってよい」と述べました。しかし、その先は分野が違うためか、より大切なことへと思考を向けたのか、続きを考察しませんでした。また、彼はきつい言葉で自然科学者を扱き下ろしましたが、高名な数学者としての立場からか自然科学者とくに物理学者に対して直接的に追い詰めるような言い方はしませんでした。しかし、昭和40年代にはすべてを見通していたのです。それから50年近く経ちました。この辺りで自然科学の限界について具体的に指摘してよいように思います。素粒子研究には毎年、国民の税金から巨額のお金が出ている以上、当然だとの思いがあります。
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