最先端 物理学 とオカルト

前回記事の続きです。管理人が「なぜ日月神示を参考にする場合があるのか」についてです。管理人の研究に際しての姿勢を一番よく表していることばがあります。高野誠鮮氏は、対談本「宇宙人UFO軍事機密の【レベルMAX】:ヒカルランド」に、次のように述べています。 一部引用します。P69~

アメリカ空軍大学(Air University)では面白い教科書を出しています。「Research study」と書いてあります。ここの中に「次にUFOの調査をするときにはCIAに邪魔をされないように」とあります。つまり、前回CIAに邪魔されたということを暗に示唆しているのです。これは不思議なものでした。これは空軍の司令部です。アメリカの空軍士官学校(アカデミー)で使っている教科書なので、本当はコピーも撮影もいけないのです。

僕は、それを現職の士官からいただだきました。 -省略-

この教科書には「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と書いてあります。つまり、いることは間違いない。3種類から4種類来ていることを教えています。しかも、「今から5万年以上前から地球に既にやって来ている」と書いてあります。彼らは敵ではありません。5万年以上前から来ていて、侵略しようとか、そんなふざけたことは考えていませんよ。侵略とかではなく、まったく違うことを考えているわけです。

強調は管理人による。 高野誠鮮氏は、「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と紹介しています。これです。2018年4月26日の記事『高野誠鮮 氏「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と書いてあります。』を参照ください。

 

管理人にとって、最先端の物理学も「在る」し、オカルトに分類されるであろう日月神示も現に「在る」のです。それらは「在る」という点において、何かの意味があって「在る」のではないかと感じます。管理人にとって、どちらも同じ程度に「在る」のです。だから、何かあるかも知れないと考えるのです。 仮に他の資料と比較した結果、有意なことがあったとしたら、受け入れます。かといって全部を信じません。わからない、あるいは受け入れられないことがあれば、判断を保留します。 ほとんどの方が、受験競争の結果、試験に過剰適用しているためか「ゼロか100:全肯定か全否定」という反応しかできないように思えます。科学的態度とはそういうことではありません。

 

最先端の 物理学 とオカルトである日月神示は、どういったことかということです。

最先端物理学の一つにM理論というのがあります。管理人は何のことかさっぱりわかりません。4つの相互作用(強弱の核力と電磁力及び重力)を統一する超弦理論(仮説)が5つあり、その5つを統一するという理論のようです。

図1

図の最上部分のことです。

これまでの考察により、自然科学は適用できる範囲に限りがあると云うことがわかっています。自然科学が適用できる範囲は、人の五感でわかる範囲です。

図2 人の五感でわかる範囲

問題点は、自然科学の「時間・空間」の時間にあります。時間はと云いますと、次になります。

  1. 人の五感でわかる運動から作る。
  2. 人は最初、時間を太陽の運動から作った。
  3. 具体的には太陽と地球の自転による「光が地上に作る影」の角度から作った。
  4. 角度は量ではない。
  5. 従って、時間は物理量ではない。
  6. だから、現在でも時間は、10進数ながら12の倍数である。
  7. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記憶からできる観念である。
  8. 人の経験し得ない物や事に観念に過ぎない時間は適用できない。時間の感覚はない。

従って、数値である時間(秒)をもって、精密に計算したところで、観念としての時間を適用できる範囲は、図2の赤い括弧で括った範囲内です。数学者岡潔は、自然科学の問題点は時間にあるとして、おおむね次のように述べています。

  • 時間は運動から作る。
  • 物質は拡大等してもよいが、最後は人の肉体に備わった五感でわかるものでなければならない。
  • 人は時(現在・過去・未来)の中に住む。
  • 時間は時の過去の属性(時は過ぎ行く)という性質を取り出して観念化したもの。

岡潔が指摘した上記の4つを管理人なりに考察した結果が8つのまとめです。ついでながら、岡潔は天才ですから、結果のみをさらっと述べます。しかし、背後には途轍もない年月を費やしただろうことが伺えます。その点をご理解ください。

これで、最先端物理学が量ではない時間を使って計算していることの意味がわかります。時間の性質からして、人の五感でわかる運動にしか適用できないことは明らかです。 また、自然科学は時間を用いている限り循環から抜け出せないこともわかっています。

図3 自然科学は時間を用いた循環論法

どんなに頑張って新しい仮説理論を提唱しようとも3つ相互作用と重力の相互作用を統一することはできません。恐らく物質的自然そのものが循環ですから、数学を含む言葉で物とは何かを言い表すことは不可能です。(別の次元軸を考える以外に方法はありません。)

では、そういう物理学はどういう存在であるかということです。 それは抽象です。具体とは人の五感でわかる物や事です。その範囲を越えた物理学は抽象です。

岡潔は、「五感でわからないものはないとしか思えない。これを唯物主義という。」と述べました。この唯物主義が唯物主義者である自然科学者、ことに物理学者たちが突き進むうちに、具体から抽象へ入ったことを自覚できない本質です。 ついでながら、ヲシテ時代(縄文時代)の人たちは、この抽象を魔物と呼んで避けようとしたようです。魔物である隙間は具体ではなく抽象であるようです。この抽象を言葉の隙間として他の言葉で埋めようとしたようです。(まだうまく表現できません。物や事の隙間=魔物=抽象だろうということです。抽象は言葉遊びに通じます。だから、言葉で隙間を埋めようとしたのです。)

 

ところで、人が持つ「わかる」とは、どういうことかについてです。 岡潔は心の2つあることを示しました。管理人によって、3つあることがわかっています。

  1. わけることによりわかる」意識を通す。言葉で云える。要素還元主義。
  2. 何となく趣おもむきがわかる。岡潔の云う情じょう。意識を通さない。言葉で云えない。静的にわかる。ヲシテ文献にあるナサケエダ。
  3. 何となく動きがわかる。動的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。本居宣長による「もののあはれ」。ヲシテ文献にある「アワレエダ」。

岡潔が指摘したように唯物主義者は、1.の「わかる」しか知りません。しかも循環に気付かないのですから、滑稽ですらあります。


余談です。3.の動きがわかるというのは、時の過去に属します。人が瞬きする前と後で、同じ物だと認識できるのは、3.によります。 過去がわかるには記憶(情報:知識)を何処かに蓄える必要があります。情報と運動(物理学でいうところのエネルギーを含む)の間には密接な関係があります。重要な問題だと認識してますが、未だによくわかりません。直観的に、知識とフリーエネルギーの間には何か深い関係があるとにらんでいます。


日月神示においても書かれている内容は、抽象です。具体的なものはほぼ含まれていません。物理学は科学として受け入れられ、方や非科学的なオカルトとして排斥されます。しかし、両方とも「在る」のです。  一見、科学とオカルトという全く異なる分野のように見受けられますが、方向性という意味では「具体ではなく抽象」なので同じです。

岡潔は、概ね次のようなことを述べています。

『あるかないかわからない「x」について、関心を集め続けることによって、やがて情的にわかる。情的にわかっているものを知的に言い表わそうとすることによって、文化はできてくる。』

物理量ではない時間を含む抽象的な数学を用いることによって1.の「わけることによりわかる」はずだというのが、唯物主義者たちが進めてきたことです。 日月神示はどういうことかわかりませんけれども、2.と3.により「何となくわかる」ことを書き記したのです。そのどちらも「わかろう」とうする行為に違いはありません。

抽象を美しいと感じるかどうかは人によります。こう考える以外にありません。

動画1

どんな物や事も某かの存在意義があるだろうとして扱うのが高野誠鮮氏が伝えた「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」なのだと考えます。

まとめます。

物理学は、物理学者が「五感でわからないものはないとしか思えない」のと、物質的自然が循環であったことから「わける」ことを続けて、やがて具体から離れて、抽象にいたったことに気(キ)づけなかった結果です。日月神示は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」です。 そんなに違いはありません。 問題の本質は、私たちが物や事に臨む態度にあります。

 

近頃、物資的自然が循環であることの意味を考える際には、縁起三位一体を思い出します。するとどうしても二つ巴と三つ巴を思い出します。

図4 出典:ふたつ‐どもえ〔‐どもヱ〕【二つ×巴】

図5 出典:三つ巴(読み)ミツドモエ

それは、「外のない内」です。古いにしえの人たちは、おおよそのことを知っていただろうと感じます。おおよそ現代の物理学者たちの方がはるかに無知です。 「外のない内」については、「【勧進】山崎弁栄上人 著作選出版事業(弁栄上人について)」を参照ください。
 

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Φ について

2010年より研究しています。
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最先端 物理学 とオカルト への2件のフィードバック

  1. shibuchin のコメント:

    Φさんこんにちは。
    興味深い記事と引用有り難うございます。

    ウィッテンは、名称の「M」について、2003年のヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー番組『美しき大宇宙』の中で「Mは、マジック(Magic)、ミステリー(Mystery)、メンブレーン(membrane;膜、超弦理論における「ひも」の構成要素)など、その人の好きなものを意味します。」と悪戯っぽく語り、「M」の意味について明確に述べていない。

    「M理論」ですか、以前「M」で始まる言葉が英語でも日本語(ま真み実む無め目も母)でも何だか意味深な言葉が多いと思った事が有りました「真・間・魔・麻・無・武・」「膜・蒔く・巻く・・・」「ミュージック・マリア・ムーン・ミックス・メディア・モーター・マグネット・・・」

    「不思議のメダイ」と言うキリスト教のお守りが有りますが、裏側のデザインが「土の字にMが巻き付いている」のです、意味が解る様な分からない様な?だけどニマッとなりました、アダムは土から作られて人になったり土になったりと循環します、そしてMがまとわりついています、何だか不思議だ「M理論=笑む理論」。

    オカルトみたいですみません、でも「悪戯っぽく」なりますね、意味について明確に語れないのは「無限=むう現=無と有が現れる=説明できないけど何か知っている」みたいな感覚でしょうか。

    岩戸開き、神武天皇・神から人へ何が変わったのか今一つ??でしたが、Φさんの記事が参考になりました。

    3月に入って雪も消えました、とっても気持ちのいい季節ですね。

    「しわかみの こころほつまと なるときは はなさくみよの はるやきぬらん」

    一番大好きな歌です。

    • Φ のコメント:

      云わせてもらえれば、貴方の語呂合わせはよくないです。語呂合わせを含む抽象は一面魅力的だが、具体から離れすぎてはダメということです。現在、主流になっている連中は、数字遊びや言葉遊びを好みます。神の数式や神の方程式などと呼ばれるもので、理論が時間を含んでいるならば抽象であって、数式を使った言葉遊びに近いです。面白いけどダメです。
      神ではありません。カミからヒトへです。岡潔の云う関心を集め続ける姿の外見は、神頼みに似ています。でも似て非なるものです。神頼みがお告げや神事になったのです。まったく違う世界です。新しい天皇に望むのは神事ではなくて新しい文化をもって皆を導くことです。恐らくほとんどの人は岡潔が伝えたかったことをわかっていません。

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