ヲシテ文献にある ヰクラムワタ のヰクラについて

3月19日の記事「山崎弁栄 上人 自然は心があるために映写されている映像に過ぎない」において、次のように記しました。

『2.の静的に「わかる」:(時の現在)が、ムワタではないかと感じます。その上で、3.の動的に「わかる」:(時の過去)がヰクラではないかと感じる』と記しましたけれども、間違いであることがわかりました。当該部分を削除して、訂正します。

日本人の精神の根幹はどこの何にあるのかを求めて、日本教数学者岡潔について調べる内に、ホツマツタヱのことを知りました。2015年9月12日の記事「漢字伝来以前に文字 は間違いなくあった。 聖徳太子と蘇我氏の功罪」を参照ください。その最初期から、「 イクラムワタ ヲネコエワケ」に注目してきました。

少し、前置きがあります。 数学者岡潔の言葉に次があります。

  1. 山崎弁栄上人によると、自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云っている。【3】 西洋の唯物主義
  2. 時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使う。【 2】 自然科学者の時間空間
  3. 時間という計量的なものは無い。【5】 情の特色
  4. 数は量のかげ。岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(47) 龍神温泉の旅の話

1.について。弧理論は、「物質的自然(M軸)は、別の次元軸(E軸)からの投影による映像」という仮説です。これまでの考察により、山崎弁栄上人の云ったとおり、物質的自然は別の次元軸からの投影による映像であり、かつ自然より心が優先するものだということです。心があってこその自然です。また、「物質的自然は投影による映像である」という仕組みは、投影の角度が重要であって、距離は問題ではないというのが管理人の結論でした。

図1 2つの投影点があれば、スクリーンは空間として認識できる。

2.について。これまで時間の本質について考えてきました。時間はもともと太陽の運動から作られました。時間は太陽が地上につくる影の角度より求めました。

3.角度は量ではありません。従って、時間は物理量ではありません。だから、岡潔が述べているように、時間という計量的なものは無いのです。

4.について。人の五感でわかるのは物や事です。物の何がわかるかというと量や嵩(大きさ)です。それも大凡であって、目分量です。これを確かな基準とするためのモノサシを作るのにを用います。だから「数は量のかげ」なのです。 ただし、量を測るモノサシが無いのに数だけあるというのが時間お金です。おそらく、世界で量が無いのに単位がついているのは、角度から作った時間とお金だけです。

ここで、実に不思議なことに気付きます。岡潔は、「数は量のかげ」と云いながら、「時間という計量的なものは無い」とも云っているのです。この点について考察したのが2019年2月6日の記事『数 には2種類ある 数は「事」のかげ』です。 どうも、の量を伴う数は、人間の手指の数を基準にした10進数によって計量します。一方の量を伴わない数は、12進数によります。(少なくとも10進数で扱うにしても、12の倍数によります。) この量を伴わない数というのがであるようです。人が認識できるのは物と事です。 極論すれば、物は10進数で、事は12進数です。だから、距離ではなくて角度なのです。何故なら、「物とは何か」と問われても答えることが出来ない循環からです。

図2 物(物質)とは、3つの基本粒子であって、互いに規定し合うことにより成り立つ循環。

図3 物質的自然は、外のない内

考えてみると、時間は実に微妙です。事であって物ではない時間は、単位を持った物の量の「かげ」の振りをしているのです。ここに時間についての誤魔化しがあったのです。物理学者たちは騙されています。(The manuscript of survival – part 68 5 January 2012日本語版

 

ここから本題です。

誤りの部分は、岡潔が述べた情に相当する【静的に「わかる」:(時の現在)】がムワタで、【動的に「わかる」:(時の過去)】がヰクラだろうとしました。

ところが、先日、「ホツマ辞典:池田満著展望社」の イクラムワタ の項目を調べていたら、ホツマ辞典には、ヰクラそのものについて該当する解説がありました。ヰクラムワタについて解説してある箇所、225頁から一部を引用します。

ヰクラのそれぞれの働きについていうと、ココロバは、良心・まごころ(真心)のようなもので、五要素のうちのウツホが深く関与している。タマは、人の意識そのものである。ミヤビは、社会性というか、他人を思いやる心であって、また記憶も司っている。ミヤビには、アワレエダとナサケエダの随心もある。アワレエダはあわれ(哀れ)を知る心。ナサケエダは、なさけ(情け)を思う心である。

-一部略-

ヰクラノカミとは、東西中央南北のキツヲサネに準えて呼ぶ言葉である。

下線は管理人による。この解説は226頁にある「ヰクラムワタの構成表-1」を元になされています。表-1を全部載せるわけにいきませんので、補足して説明します。

ヰクラは、ココロバ、ミヤビ、タマノヲ、ハ(シム)、ネ(シヰ)からなり、まとめてタマとシヰの総称があるようです。ムワタもフクシ、ヨコシ、ナカゴ・・・・キモ、ムラト(イロ)、ワタに分けられるようです。これらの言葉は、ホツマツタヱ・ミカサフミ・フトマニの用例に対応しています。前半部分の下線部は、後半で説明します。

②の部分、「ヰクラノカミは、東西中央南北のキツヲサネに準なずらえて呼ぶ」とあります。求めていたのはこれです。心は自然に優先しますので、東西南北の方角・方向、あるいは角度について、五感でわかるのは、心にヰクラがあるからです。肉体である人に備わった五感は、心に仕組みがあるから機能するのです。

あらためて、人の「わかる」には3つあることを示します。

  1. わけることによりわかる。物の理ことわり。理解する。意識を通す。言葉で云える。
  2. じかにわかる。岡の云う情じょう。ヲシテ哲学で云うところのナサケエダ。静的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。
  3. 直にわかる。本居宣長の云う「もののあはれ」。ヲシテ哲学で云うところのアワレエダ。動的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。

物質的自然の一部である人の肉体は、投影による映像という結果です。ですから、1.の「わかる」は、2.と3.を元にしています。2.と3.による「わかる」、即ちヲシテ文献の「アワレエダ・ナサケエダ」があって、初めて機能するわけです。 ですから、1.の人が五感でわかる東西南北という方角、即ち角度は、人の心の仕組みであるヰクラがあるからわかるのです。

あらためて、人の心の仕組みの一部を図示します。

図4 人の心は、物質的自然(外のない内、かつ循環)の内にはあり得ない

上半分を物質的自然(M軸)、下半分を別の次元軸(E軸)とし、心の仕組みはE軸上にあるとします。物質的自然には、基本粒子である陽子・中性子・電子により出来た物質からなるがいます。意識を通し、言葉で言えるので、「(物や事を)わけることによりわかる」のです。これを物の理ことわりあるいは、理解と云います。その基礎が下半分に示したE軸上にある心の仕組みです。心の仕組みの詳細はわかりません。ホツマ辞典をしても用語はわかりますけれども、その関係と働きはわかりません。図4には、わかった部分だけを抜き出しています。心は大きく「タマ+シヰ」にわけられます。詳細の一部は、ヰクラとムワタです。ヰクラとはキ・ツ・ヲ・サ・ネ(東と西と中央と南と北)の5つの方角を表しています。だから5つのクラなのです。 ヰクラには、物や事の内のについての心の仕組みと働きがあります。上記の通り、ヰクラとは、量ではない角度に関する機能です。 ヰクラを現在の言葉で言い表すならば角度です。 これまで、このことがわかりませんでした。

また、随心としてミヤビがあります。ミヤビはアワレエダとナサケエダをまとめたものです。ホツマ辞典によれば、ミヤビは社会性を担う心の仕組みと働きです。 数学者岡潔は、このナサケエダを「じょう」と云ったのです。情だけでは、人は時の現在にしか住めないことになります。 物質的自然という映像は不連続です。不連続な現在だけを2.の情によりわかるのだけでは人は生きていけません。瞬きしたり、一晩経てば「同じ」と認識できない状態です。同じであるとわかるには、記憶(情報)が必要です。これがアワレエダです。しかし、E軸上に心の仕組みとしてアワレエダがあっても、物質的自然の存在である人の脳に記憶の組織がなければ、心の仕組みだけでは機能しません。基本粒子で構成された脳の記憶領域(海馬や側頭葉)には、E軸上にあるアワレエダの機能と連結する何かがあるはずです。 いわずもがな、自然科学は1.の「わけることによりわかる」という範囲に留まります。

 

現在、最大の関心事は、記憶(情報あるいは知識)とエネルギー[ML2T-2]の関係です。岡潔は、「情・知・意」の順で働くと云いました。関心は「知」にあります。知は、E軸上の心の仕組みと働きという基礎と物質的自然(M軸)にある人の脳との連結部に位置します。上に示した(The manuscript of survival – part 68 5 January 2012日本語版)にあるように、「知識とは、個人的に占有・保持するものではありません。それは、全員が全員の進化のために共有する情報の大海」です。一部引用します。

ダークマターこそが、尽きることなく利用されているエネルギーの唯一の源だからです。それは根源的な永久機関であり、もし、悪の手に渡ったら、いえ悪の脳と言うべきですが、文字通りあらゆる面で大混乱を起こすでしょう。これは、脳によって理解されるものではないのです。何故なら、脳には大きな制約があるからです。人間は脳を、文明を進化させる崇高な考えを生み出す知識の座と考える傾向がありますが、まったく違います。脳は単に、人間を最低のレベルで機能させるための装置に過ぎないのです。とても傲慢に聞こえるかもしれませんが、以前にも説明しましたが、私たち人間以外の存在にとって知識とは、個人的に占有・保持するものではありません。それは、全員が全員の進化のために共有する情報の大海です。しかし、人間の堕落した精神にとっては、すべての知識は、己を豊かにすることを唯一の目的としてきました。しかも、望むらくは他人の犠牲の上で。そのため、核心部分の知識は独占してきました。特許を取って、最高額で売ることができれば、なお良いからです。もちろんこれは、一般論です。人間の脳は、最高に美しい美術作品や音楽を創り出す能力や、何かの世話をしたり、育んだり、協力し合う優れた能力も持っています。しかし、忘れないで下さい。人類を襲った災厄のほとんどは、まさに人間が作り出したものであることを。真実の知識の追求からではなく、欲望が支配する脳が考え出したものだということを。

フリーエネルギーは、情報と深い関係があると踏んでいます。どうしてもこの関係がわかりません。統計力学:久保亮五著共立出版にあるボルツマンの式(S=k logW)と情報エントロピーの話です。学生の時、情報理論に(S=k logW)が出てきた記憶があります。とても不思議でした。 上記の心の仕組みと働きについて、考えるにとても重要なことだと考える様になりました。

 

さて、心の仕組みと働きという基礎があって、その上に物質的自然とその内に人が居ます。基礎がなければ、成長し得ないことは明白です。以下は、ある科学者は3つの科学、『精神科学社会科学物質科学』について述べています。

宇宙における科学のすべて、真実の探求と理解の追求のすべては、この三つの分野の中に入るんだ。もちろん、この三つの分野の間には明確な分離線を引けない。お互いにラップしているからだが、しかし、それらを支配する基本的な法則は全く同じものなんだ。

宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するならば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかしながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ物質科学の発達はありえないんだ。

強調は管理人による。 ある科学者が文明の発展には3つの科学が必要だと述べており、自然科学(物質科学の一部分)だけでは基礎として不十分だとしています。

続いて、ある科学者は、文明の発展を建築物に例えて、次のように述べています。

「新しく大きな建物を建てるときに」とアランが答えて「計算違いによって、基礎ができあがった建物を支えるのに十分強くないということを君が発見したとしたら、すでに建っている建物の一部を切り取って問題を解決するかい?そんなことはしない。基礎を大きくし、強くする方法を探すのが論理的な進め方だろう。

物質科学の進歩を止めることなどできやしない。それは進んだりもどったりはするにしてもだ。もどるとすると、それを支えている要素は退化のプログラムによってまず弱くなってきてそして崩壊することになる。

基礎的には地球の物質科学に悪いところはないんだ。もし、人々がそれを支えることができるような基礎を用意しないとそれは夢想だにしなかったほどに水平に広がって進歩してしまう。」

もし基礎がなかったら?」と私は言った。

「君たちの文明は終わるさ」とアランがゆっくり答えた。「ほんの少しの生き残りを残して全滅するんだ。生き残ったものは彼らの科学と技術を再建する能力はないだろう。数世代の間に、彼らの子孫はほとんど動物のレベルにまでもどるだろう。進化の過程はふたたび始まるだろう。一万から一万五千年で他の文明と技術が起こってくるだろう。そして彼らも同じ運命に落ちる。宇宙の不変の法則なんだ。君にはわかると思うが、人類の自由選択によってなされるものなんだ。

地球の人類と文明は絶滅を宣告されてはいないんだ。人類はこの危険を永久に自分たちの後ろに追いやるまで進歩の道を進み続けるだろう。この選択は君たちのものさ」

管理人は、上記の3つの科学『精神科学社会科学物質科学』は、ヲシテ哲学の核心部分と同じだと結論づけました。2017年7月6日の記事『適切な「基礎」を用意しないと、私たちの文明は終わる』があります。

2017年末に精神科学(カミの仕組み)の全体像がわかりました。物質科学の基礎は、弧理論(Ark)にありそうです。対して、これまでのところ、社会科学がほとんどわかりませんでした。しかしながら、ホツマ辞典にあるように心の仕組みの内のミヤビ(アワレエダ・ナサケエダ)に社会性があると示されています。この点と他の考察から社会科学の何たるかが少しわかってきました。次回の記事は、物質的自然における社会科学の基準となり得るものについて説明する予定です。勿論、現在の「人文科学・社会科学・自然科学」という分類による社会科学とは、全く異なります。

 

ついでに。 3つの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の元は、神との契約でした。契約という行為は、自己と他をわけて、その上で他をわける事によります。神と自己とその他です。1.の「わけることによりわかる」の出発点です。ただ、上記の通り人のわかるの本質は、2.3.による「わかる」です。人の心の仕組みと働きの上に1.の「わけることによりわかる」があります。そして、イクラムワタ ヲ ネコエ に ワケることによって、ヨソヤコヱという48音韻ができたのです。この日本語の元であるヨソヤコヱは、物質的自然にある全ての物や事の内に、心の仕組みに合わない物や事を除外する働きがありますヨソヤコヱ:48音韻は、物質的自然の心に対するフィルターの役目を担います。ヨソヤコヱ:48音韻を基礎とする日本語以外の言葉は、余計な隙間があり、隙間に(魔物)が入り込む余地があるのです。だから、聖書にある禁断の果実は、言葉であるわけです。だから、人の禁断の果実への縛りが必要なのです。聖書にある神のと契約は、(ヨソヤコヱ以外の)言葉に対する箍たがの様なものです。だから、日本人には原罪が無いのです。2015年8月18日の(聖書の原罪とは何か。日本人には関係ない)を参考に。この頃は、まだ理由はわかっていませんでした。

 

追記4/2 その後の考察により、図4を差し替えます。

図5 ホツマ辞典p226=(キツイロノ・ハニモテツクル・モリノカミ ミメカタチ)

追記の記事がブラウザクラッシュにより失いましたので、図のみ入れ替えます。

岡潔が心の大切さを述べています。「【4】 情のメカニズム」より引用します。

戦後日本は情というものを非常に粗末にしている。情が非常に濁っている。多くは自己中心的なもので濁っている。その上ひからびている。これは改めなければいけない。これを改めるには、日本人は情の人だけど、その自覚がない。それを自覚するということが非常に大事です。

 自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。

 知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。

「戦後日本は情というものを非常に粗末にしている。情が非常に濁っている。多くは自己中心的なもので濁っている。その上ひからびている。これは改めなければいけない。」のです。ですから、『「考える」という仕組みを考える』のです。 事実、心の仕組みと働きについて、考察する記事はあまり読まれていません。

物や事の理ことわり、つまり、理解するということが心の仕組みと働きによって成り立っていることをほとんどわかっていただけないようです。別の次元軸を考えると、うまくまとめられるのに。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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