昨日の記事において、世界の物や事が抽象へ向かっていると主張しました。
図1 地球上のほとんどの物や事は、複雑化抽象化へ向かっている
素粒子物理学、ことに超弦理論やM理論を「抽象」に分類したことの理由を説明します。
(1) 数学者岡潔が指摘した自然科学の問題点は、だいたい以下の通りです。
- 物質は五感でわかるものでなければならない。表 五感でわかる範囲
- 唯物主義者は、五感でわからないものは無いとしか思えない。
- 角度から作る時間について、時間という計量的なものはない。
角度は量ではありませんので、時間は物理量ではありません。
(2) 素粒子について。
図2
- 水という物質は分子からなる。
- 分子は原子からなる。
- 原子には原子核がある。
- 原子核は陽子と中性からなる。
- 陽子と中性子は単独で取り出せないクオークからなる。
- 陽子中性子は崩壊し、クオークを介して直ちに、素粒子群を生成する。
- 素粒子群は17種に分類される。
- 素粒子は、更に小さな「超ひも」からなる。
- 5つの超弦理論を統合するM理論。
- ・・・・
(3) 下のこれは何かと問われた場合。
写真1
国語辞書をひきます。
写真2 匙はスプーン
写真3 スプーンは匙
- 匙とは、液体やこなをすくいとる小さな道具。スプーン。
- スプーンとは、洋ふうの匙。
下線部分がわからないので、(ネット)辞書をひいてこれを代入します。
・ 匙とは、ほぼ一定の体積はあるが、固有の形はなく沸点になると気体になり、凝固点になると固体になる物質の集合状態の一つ、や一つ一つを取り出してみることができないほど小さい粒の固体で、その集まりをすくいとる小さい物を作ったり、仕事をはかどらせたりするのに使う器具の総称。西洋風のスプーン。
下線部分がわからないので、(ネット)辞書をひいてこれを代入します。
・ 匙とは、ほぼ一定の立体の嵩(かさ)はあるが、固有の見たり触ったりして知りうる、物の姿のうち、色を除いたものの状態ではなく液体が沸騰する際の温度になると物質の集合状態の一つで一定の形をもたず、体積が自由にひろがり得る状態にあるものになり、一定圧力下で純物質が凝固し始めてからし終わるまで,その温度は一定に保たれる温度になると固体になる物質の集合状態の一つ、や一つ一つを取り出してみることができないほど小さい粒の固体で、その集まりをすくいとる小さい物を作ったり、職業や業務として、することをはかどらせたりするのに使う道具の総称。西洋的な様子・様式のスプーン。
下線部分がわからないので、(ネット)辞書でひいてこれを代入します。
・・・・ ・・・・
下線を引くのは、複雑になりすぎるのである程度に留めました。際限がないので3回で止めます。見ての通り、所々に循環が含まれています。
写真1が何であるかを国語辞書やネット辞書でひくこと3回目で、何が何だかわからなくなり、写真1の意味は霧散してしまいます。 つまり、人が物や事を「わかる」のは、言葉でわかっているのではありません。写真1の何がわかるのかというと「直じかに趣おもむきがわかる」のです。これを岡潔は「情じょう」と云いました。
お気づきのように、(3)の写真1を辞書で繰り返し調べて意味が霧散するのと(2)で素粒子について細かく調べることとは、同じ形をしています。また、理論の探求は続いており、終わりは見えてきません。実に興味深いです。(この点についての指摘は既出で、当サイトに於いて確か3回目くらいです。)
物質とは何かという問いに答えようと求め続けてきた結果、超弦理論やM理論に達しました。にもかかわらず、どこか”何が何だかわからない”状態なのは、人が物や事を(数学を含む)言葉で「わかる」わけではないからです。
更に、単独で取り出せないクオークは、岡潔が述べた物質の条件「五感でわかる」ものではありませんし、物理量ではない時間を含んでいるのですから、その時点でアウトです。
図3
例えば、ヒッグス場の粒子であるヒッグス粒子を捉える実験は、何かを捉えていることは事実でしょうけれど、時間を含んだ質量(GeV/c2)の換算は、当たり前ながら物理量ではありませんし、冒頭の物質の用件を満たしておりません。図3が何をとらえたものかは、わかりかねます。しかし、物質的自然(M軸)が別の次元軸からの投影による映像だと考えるならば、投影の仕組みからくる映像に干渉で起きる”波”があって、この波を量子化して”偽りの質量”に換算したように思えます。この波は干渉縞であって、物質に質量を与える原因では無いと考えます。
図4 自然科学は時間を用いた循環になっている 運動→時間→質量・光年→時空間→運動へ
素粒子物理学 は、精密で理論的に整っているようですけど、複雑な抽象に過ぎません。人の脳の制約から理論をこれ以上進めるのは困難です。
我々が存在する物質的自然は、循環です。互いに規定し合って成り立っている世界です。
図5
上記の通り、言葉も互いに規定し合って成り立っている循環です。勿論、数学も循環です。だから、『自然数の「1」は、決してわからない』のです。2進数で云えば、「1は、ゼロでない数。ゼロは1でない数」としか云えないのです。 そして、人も数学を含む言葉で思考するのですから、思考も循環です。精神を病む原因は、循環にありそうです。
人の脳の制約は、脳細胞の大きさと脳の容積からきます。脳細胞の神経の絡み合いにより記憶と処理がなされます。この処理にかかる情報の複雑さは容積に制限を受けます。その点、人工知能は処理速度さえ満たされれば、容量は増やせますので、複雑な理論も際限なくこなすことができるはずです。但し、人工知能は、写真1が何であるかを決してわかりません。
だからこそ、人が持つ「直に、その趣おもむきわかる」という仕組みと働きを別の次元軸に求めようということです。それ以外にあり得ません。 よく考えればわかります。量子もつれや4つの力の統一など、とても解決に向かっているようには見えません。数少ない専門家にしかわからない状態では、これより先へ進めるはずがありません。
自然は、一見すると複雑ですけれども、だからといって仕組みが複雑だとは限らないと考えます。岡潔は、「自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。」と云い、「かようなものは学問とはいえない」と述べています。 自然科学者は自然をわかりきったものとして決めてかかって、これを科学した結果の寄せ集めです。だから、過去に何度も指摘したように各分野の間には隙間があって、置き去りにされた部分がありますし、自然科学の全体を観ると統合失調なのです。ジェット気流が地球の自転方向と同じであることの納得できる説明がありません。他には意図して放置したとしか思えないファラデーの単極誘導の現象があります。それどころか、単極誘導の現象は、無いものにして電磁気学を創り上げたかも知れません。
前にも書きました。数学者岡潔の伝えたかっただろうことを、文系、理系のどちらの人たちも読み込んでいないのではないかと感じます。
以下は既出です。 因みに、還元主義は、「わけることによりわかるはず」です。ブラックボックスへの入出力から「わかる」要素を切り分けることによります。
図6 ブラックボックス
図7 還元主義は、入出力が対応し、少なくとも一部は有限でなければならない
人の脳の仕組みは脳細胞とシナプスなどからできています。
図8
人の脳の仕組みを模して人工知能は出来ています。
図9
よく見ると還元主義の図7と人工知能のニューロンの図9の要素は似ています。図8に示す人の脳はブラックボックスそのままです。つまり、要素還元主義で脳に似せた人工知能はできるということです。でも人の「わかる」と人工知能は異なります。
追記4/11 所用で5月の連休に千葉市へ出向きます。折角なので日月神示が降ろされたという麻賀多神社へ参拝に行こうと思います。 岡潔は「【1】 2つの心」で次のように述べています。
人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
下線は管理人による。 ヲシテ哲学(縄文哲学)では、タマシヰは、タマ+シヰであり、シヰは強いるのシヰです。欲しい欲しいのシヰです。これは、岡潔が云うところの、第1の心そのものです。
管理人は、幾つかの点で日月神示を参考にします。岡潔の思想も学びます。そこには、冒頭の図1で示したオカルト的なことも含まれています。 精神性の高いヲシテ哲学や岡潔の思想、あるいはG・アダムスキーの宇宙哲学は、ある意味「抽象」でもあります。この違いはどこにあるのか、とても気になります。(一見、岡潔の云ったことは、科学から最も遠いですから、ほぼわかってもらえないのも無理はないと思います。)
どうも、ヲシテ文献や岡潔の講演録から受ける印象は、極めて静的なものを感じます。他方で、現代は、笑いカワセミのようにうるさい連中が主流です。 何かこの辺りに違いがあるように感じます。
以前ご紹介したアレックス・ジョーンズによる「ボヘミアン・グローブ」は、実に騒がしいです。
動画1
また、以前記事にした記憶がある「車改造大作戦Pimp My Ride」という番組では、まるで新車のようになったマイカーを見て女性が狂喜していました。
そういえば、自然にはお酒や毒性のあるキノコ、あるいは覚醒剤・麻薬等の化学物質があります。善悪は別として、そういったある種の喜怒哀楽(シヰ)の内に彼らは、覚醒するような何かを見ているのでしょうか?管理人は、単純に「シヰの暴走」と表現したことがありますけれども、何かに魅入られて「笑いカワセミのようにうるさい」のかも知れません。覚醒作用があるキノコなどが存在するように、心の働きにも、覚醒などに呼応する仕組みがあるのかも知れません。 そう、「わけることによりわかると思える」連中は、「わかった」のだから、全能感が半端ないのかも知れません。 対して「情的にわかっているものを知的に言い表す」ことができたときに感じる嬉しさは、ずっと静的で目立たないです。
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