西洋の格言に「神は細部に宿る God is in the details」というのがあります。これは誤解です。
時折、フリーの物理学者である井口和基氏のブログを読みます。「ムー4月号はヴェンターの「人工生命の誕生」:ついに白人は禁断の領域に踏み込んでしまったのか!? 」より一部引用します。
この問題は、西洋世界でも結構古くからある哲学的問題につながるのである。
いわゆるホルンクルスの説である。これは、ライプニッツの時代にも遡る。
生命個体が生殖細胞でできるのなら、その生殖細胞の中には人間個体のすべての情報が入るはずだ。その生殖細胞には生殖細胞の作り出す情報も入っているはずだ。もし生殖細胞に染色体があるなら、その中には人間の全情報も生殖細胞の情報も全部入っているはずだ。その染色体に人間の情報も生殖細胞の情報も入っているなら、その内部のDNAの中には、人間の情報も生殖細胞の情報もDNAの情報も全部入っているはずだ。そのDNA情報の中には、DNAの構成もすべて入っているはずだ。
とまあ、フラクタル的に
内部の中に内部の中に内部の中に、。。。内部の中に。。。
と永遠に続くのではないか?というわけだ。一番右の。。。のその先は、素粒子の中の内部から、その内部にまでずっと続くはずだ、つまり、この宇宙の全情報は、その究極の粒子の内部に入っていなければならない。
これが、ライプニッツのモナド論である。
下線は管理人による。ライプニッツのモナド論として紹介されている「この宇宙の全情報は、その究極の粒子の内部に入っていなければならない」というのは、言い方は異なりますが、意味は同じです。これが誤解です。 以下は既出の記事の組み合わせです。
(1) 数学者岡潔『 山崎弁栄 上人によると「自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」そう云っている。』と述べました。そして、人の「わかる」とは物の理ことわりだとか理解するとか云うがまったく違うと云います。それでは何が「わかる」かというと「何となく、その趣おもむきがわかる」と云います。これが岡潔の云う「情」です。 情について、例えで説明します。
これは何かと問われたら、人は匙あるいはスプーンと答えます。
写真1
単語の意味を国語辞書で調べます。
写真2 匙はスプーン
写真3 スプーンは匙
- 匙とは、液体やこなをすくいとる小さな道具。スプーン。
- スプーンとは、洋ふうの匙。
写真1に示した匙とは、洋風のスプーンであり、スプーンとは匙のことです。よく考えればわかるように、言葉は循環です。どのような複雑な思考や論理・思想も数学を含む言葉によって考え出されます。それらもすべて循環です。 岡潔は「自然数の1は決してわからない」と云ったのとおなじです。 2進数で云えば、1とは0以外の数であり、0とは1以外の数としか云えません。まったく同じです。数学もまた循環です。
余談です。最近、人が精神を病む理由は循環にあると感じます。
(2) では、次は何ですか。
写真4
答えは、「オレンジが1個と半分ある」です。この記事をお読みの貴方は、スマホ、タブッレット、あるいはPCの画面を見ているはずです。次の写真です。
写真5
写真5は、貴方が見ているだろうオレンジの部分を拡大したものです。ドットでできています。当然のことながらドットにオレンジの情報一切ありません。オレンジは映像であって、人はオレンジそのものが別のところにあることを承知しています。なぜ画像がオレンジに見えるのかが問題です。
(3) 井口氏が引用した「この宇宙の全情報は、その究極の粒子の内部に入っていなければならない。」という考え方は、(2)に示した「オレンジの本質はドットにある」という主張と同じです。どう考えても理屈に合いません。 人の「わかる」は、(1)に示した様に物の理でも理解でもありません。(2)で写真4がオレンジだとわかるのは岡潔が云った情によるとしか考えられないのです。それは液晶画面上だけではありません。写真1の匙も同じです。
(4) だから、物質的自然(当サイトではM軸という。)は、別の次元軸からの投影による映像だと考える以外にあり得ないのです。岡潔が伝えた山崎弁栄上人の考えと同じなのです。
(5) 岡潔、本居宣長、ヲシテ文献、ある科学者の言葉などを参考に岡潔が述べた「情」を詳しく考察したのが次図です。
図1 「わかる」の本体は、気(キ)付くあるいは「気(キ)の元」と考えられる。岡潔の「情」に等しいと考えるにしても情だけでは働きに不足する。
人の心の仕組みと働きをまとめました。 物質的自然 (M軸)並びに人の思考が循環である以上、人の心の仕組みと働きの本質は、別の次元軸上(E軸)にあると考える以外にありません。
先月、出した図1について、一部修正します。E軸上にあると考えられる心の仕組みと働きは以下です。
- 物がわかる(映像としての物質がわかる)・・・匙は匙なりのオレンジはオレンジなりの趣がわかる
- 事がわかる(人と人、人と物との事がわかる)・・・映像としての空間の性質から来る「角度・方向」による関係性がわかる
- 時の過去がわかる(記憶と関係する)・・・物や事の動きがわかる(動画としてその趣がわかる)
- 時の現在がわかる・・・物や事の現在がわかる(静止画としてその趣がわかる)
注意点として、そのいずれも(1)に示した様に言葉でわかるのではありません。岡潔的な表現では、「意識を通さず、言葉で言えない」けれども、それが何であるかを「わかる」という「わかる」です。心の仕組みと働きが別の次元軸(E軸上)にあって初めて人は物や事の内に、時の中に住めるのです。だから(1)や(2)に示した写真が画面を通して何であるかがかわかるのです。
因みに人工知能は「意識を通し、言葉で言える」情報のみを扱えます。それは人の脳を模したものですから、人の脳は人工知能とほぼ同じだと考えられます。2045年ころまでにシンギュラリティ(技術的特異点)がやってくるといわれます。人の脳の仕組みと働きは、人工知能と同じだと考えるならばそのとおりです。しかしながら、人の「わかる」の本質を人工知能は持っていません。人工知能は何もわかっていないからです。
当サイトでは、「心を優先すべき」と書いてきました。何もオカルトやスピリチュアル系のことを書いているのではありませんし、思想信条を優先せよとも書いていません。上記の通り、ロジックとして心の仕組みと働きを別の次元軸に求めねば次の展開があり得ないと考えてのことです。因みに岡潔は、自然科学は学問ですらないと酷評しています。かつて管理人が抱いた感想と同じです。現在は統合失調(ぶつ切り)の状態にあります。病んでます。
ライプニッツのモナド論として紹介されている「この宇宙の全情報は、その究極の粒子の内部に入っていなければならない」という思想では「量子もつれ」とその突然死は理解できません。
双子の電子があるとします。同時に生まれて離れて行きます。究極の素なる領域、素なる時間、あるいは素なる粒子があったとします。それを例えば離れた位置にあるAとBとします。双子の電子の一方がAにありもう一方はBにあるとします。このとき、量子もつれ(エンタングルメント)の状態にあるには無理があります。AはBの全てを持ち、BはAのすべてを持つとしても、Aの観測による決定を受けてBへどのように伝わるのかさっぱりわかりません。量子論的思考、即ち確率で起きるなどというのは無理に過ぎます。
別の次元軸による映像ならば、何ら問題ありません。平面を歩くアリを観察するようなものです。管理人は「投影により位置を持つ」と表現します。観察者からアリがどの位置にあろうとも観察できます。アリからすると観察者は「位置を持たない」=「何処にでも在る」に等しいです。 双子の電子は、別の次元軸に在る一つの実体から出たと考えると理解が容易です。
図2
観測者(ア)の近傍にAとBがあったとします。一つの実体が双子の電子を作ります。Aの観測結果は、実体を通してBへ伝わります。何故なら別の次元軸上の実体は一つだからです。同時に生じた双子の電子は離れて行きます。やがて相関は崩れます。どうもM軸は湾曲しているらしいからです。一つの実体に二つの電子が対応しきれなくなると考えられます。 湾曲しているならば、弧理論の定義からして、双子の電子は離れるに従い互いに「運動P」する関係になるからです。言い換えると双子の電子は、同時ではなくなるのです。電子の大きさと比較して十分遠くに離れる物質は互いに運動すると考えられます。(弧理論の表現では投影角θが平行でなくなる。)
また、地球から見て遠くの銀河系が加速度的に運動しているのもM軸の湾曲が原因ではないかと考えます。重力レンズも同じです。別の次元軸方向への湾曲が重力の原因だとするならば、時間を光速度に置き換える相対性理論は不要です。これまでにわかっているとおり、時間は物理量ではありません。
写真6 アインシュタインは空間が膨張するとするときのモノサシに空間とは別に光速度不変を用いた
風船と直交する次元軸が存在すると考えるしかありません。
図3
時間は運動から作るので相対論を含む自然科学は循環に過ぎません。
図4
相対論は、「(五感でわかる)運動→時間→光速度不変→時間・空間(物質の運動→時間・・・)」という循環に過ぎません。素粒子物理学も質量(GeV/c2)に物理量ではない時間を含んでいます。天文学も距離の単位:光年に時間を含んでいます。
それと、物質について量子論的な見方をするのもドットに囚われていると云えます。
gif1
ある科学者はつぎのよに述べています。
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
心に描けない状態というのが問題です。心の仕組みと働きに合致にした認識は「回る」です。
gif2
なぜ、gif1のように離散的に現れるのかと云えば、映像だからです。映像で動きを表すには離散的にならざるを得ません。
それ以外にも多くの事を考慮すると 物質的自然 (M軸)は、別の次元軸(E軸)からの投影による映像だと考えるしかありません。心の仕組みと働きも同じです。
貴方が「人の脳は人工知能と同じだ」とお考えならば、人工知能の能力に駆逐されるしかありません。 岡潔は「情的にわかっているものを知的に言い表そうとすることにより文化はできていく」と云いました。人が人工知能と同じならば人は文化を創ることはできません。
図1の心の仕組みと働きにおいて、人の物や事の「わかる」は、ヲシテ文献のイクラムワタ ヲ ネコエワケからきています。どうもヰクラとムワタは、「二河白道の譬喩」の話に出てくる「六根・六識・五蘊(ごうん)・四大(しだい)あるいは六塵(じん)」に相当するようです。
コメントにて教えていただいたロシア人による浮揚ディスクを弧理論の考え方で解析すると面白いことに気付きます。高電圧は意味不明ですけど、回転軸(Z軸)方向にE軸は重なりますので、同軸の二重反転、あるいは同方向の回転であっても、回転速度に差を付けているはずです。差動があれば、回転軸方向にE軸上の勾配、即ち真のエネルギー勾配がZ軸方向にできるはずです。簡単にいえば、回転軸方向に非対称なモーターを作ることが重力制御あるいはフリーエネルギー実現のカギだと感じます。因みにスカウトシップは回転軸方向に非対称です。
図5
上下2つの発散トーラスを組み合わせた楕円磁場の片方だけを強調する構造をしています。これがZ軸方向に非対称という意味です。過去の情報によると同軸三重反転だとのことですが、それ以上のことはわかりません。ロシア人の浮揚ディスクと図5を比較すると面白いです。ロシア人の浮揚ディスクは上下二枚の円板の大きさを違える方がよいように思います。それと回転について。数学的には二階の偏微分方程式で表されますが、「回す」と「回る」はまったく異なります。回転運動の本質は「回る」にあります。ロシア人のそれは、外部からモーターで「回して」います。その必要はないはずです。本質的な「回る」運動は、管理人が知るところではマイケル・ファラデーが発見した単極誘導の現象しかありません。「回る」装置、即ち「回転させる機構がない」装置は、地球上にはマグネトロンくらいしかないようです。重力制御は二階の偏微分方程式という発想から離れることが最初ですし、時間という計量的なものはないという岡潔の発言から出発するしかありません。
こう考えると古典電磁気学の創られる過程で何があったのか気になります。
図6
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何を言わんとしているのかようやくわかりました。以下の”神”は便宜的に。
オレンジとドットは別物だ → 神を区別している
にも関わらず、
匙とスプーンは同じものである → それを知覚させる同一の神を認めている
オレンジにもドットにも同じ神を見いだす方法のひとつが科学。
岡潔は何を伝えようとしたか、ほとんどわかってもらえなかった。意識を通さず言葉で云えずとも、それが何であるか「直にわかっている」のです。万人がわかっている。現代人はその自覚がありません。言葉や知でわかったとおもっているだけです。 それが何であるかは言葉以前にわかっているのです。何度も書きます。「わかるの語源はわける」ですが、「わけることによりわかるのではない」のです。私の研究は岡潔が述べているとおり、情的にわかっているものを知的に言い表そうとしていくことです。「わけることによりわかっていく」のではありません。わからないことに関心を集め続けることによって研究を進めています。人が持つ「わかる」が心の仕組みと働きによる。それを別の次元軸に求めています。
岡潔によれば「自然科学者は自然とは何か言わないで、わかっているものとして(部分を)科学したものを寄せ集めたもの。そういうのは思想であって、かようなものは学問ですらない。」と云いました。自然科学は(部分では)科学ですが、全体はばらばらです。自然科学はほんとに何もわからない。
受け売りすれば、視覚神経とか聴覚神経とか余計なことは云っている。聞こうとすれば聞こえる。見ようとすれば見える。しかし肉体に故障がなければ何故見えるのか、まったく答えられません。
まるで別物のように見える諸現象は同じ原因に帰結するだろう。くらいのことだったんですが。
これは互いに通じない話ですね。
若干穿ちすぎかな。私も。
4年ほど岡潔の言葉から考えています。その点でぶれはないです。記事はあれこれ書いてますが、目指す方向は同じはずです。
>別物のように見える諸現象は同じ原因
G・アダムスキーの例えた万華鏡に云えることです。「見える」とはどういうことか。見えるままが原理だとは限らない。見えるまま(唯物主義)を探求したら、具体から抽象へ辿り着きつつあると考えます。自然科学の抽象化を担っているのが時間です。循環だから当然でしょう。物とは何か、いつまでもわからない。わけることによりわかるとは限らないことに気付くべきでだとの主張です。
私の場合、神を持ち出す際は、宗教を揶揄する意味で用います。宗教も抽象に過ぎません。一方の「カミ」はヲシテで云われる「自然の仕組みと働き」くらいの意味です。
円盤は形状が下向きの放射アンテナだから、アダムスキーの本にある「混ざるように調節されている」「磁気の窓」から、フランジ-ギアの水平面あたりが表面張力が働く位置で、Z軸上方が場の窓になるのでしょうね。
従来のモータを回転しないようにするには、回転の法線方向に磁力線を接続すれば良く、逆に回転させるには回転方向に接続するのが望ましい。つまり磁力線は、、、という当たり前のことに気づきました。磁気モータは確かに誤解されている。
単極誘導モータは静電気で動いていると考えたことはありますか?
>表面張力が働く
相対論は質量が原因で(絶対的長さである光速度に対して)空間が歪み、結果「表面張力」のように重力が働くと説明されていると理解しています。これが間違い。別の次元軸方向への湾曲が原因で表面張力に似た力が重力と理解しています。その根拠がアランの言葉です。→「質量も運動P_(エネルギー)も一つの実体の異なる面」
>回転させる
回転させるという考え方が誤り。本質は「回る」にあると考えます。回転させる機構がない回転運動こそM軸での本質のはずです。
>単極誘導モータは静電気で
ないです。それより力学的性質に注目しました。はっきり言えば、原子レベルの力の相互作用も古典的力学と同等に成り立っていると考えています。三相やブラシあるいはブラシレスと同じモーターではないと断言できます。単極誘導モーターは回転させる機構がありません。例のロシア人の浮揚ディスクでさえ円板を回転させています。これでは本質に到達できないと考えます。
>表面張力
もちろんこれも仮の表現。具体的に言えません。ただ、面白いことに、局所的に歪んでいるから、周囲から弾かれるという発想は同じでです。
相対論の空間の歪みはイコール重力と同義なので、どちらかが原因でもう一方が結果というわけではない。むしろ、その窪んだ平面を描ける周囲の空間こそが万能CG(宇宙の外)になっている。
共通するのは、物質の重力的重心ともいうべき何かの位置がズレることを、運動と呼ぶらしいことです。
>回転させる機構がない回転運動
ああ、こういう表現もあるのですね。
回すことで、回っているものに反応を起こすことを考えていました。電子が原子核に対して静止していたら、摩擦電気は起きないです。
>空間の歪み
空間とは何かを云わずして歪みとは何かが理解できないできました。その前に空間に対して歪まない光速度不変があって初めて相対論が成り立つとわかったのは杉岡氏による「相対論物理学者に捧ぐ その4」での指摘でした。
>原因と結果
相対論は循環なので「どちらが原因、結果」という議論の余地はないです。原因と結果がわからないこと自体が問題です。
>空間こそが万能CG(宇宙の外)
それは問題です。弧電磁気論の頃、例の足跡は「宇宙の外について、一切言及していない」と考えていました。それを山崎弁栄上人の資料から「外のない内」という表現を知りました。我々にとって宇宙の外という表現に意味は無いです。循環だから。それを超えるには別の次元軸を考える以外にないです。
>こういう表現
いや、自明です。2013~2015年頃まで主にファラデーの単極誘導モーターにかかる力学特性について実験で確かめた結果での表現です。それ以外の現象で実感したことはありません。単極誘導の現象は別格です。何度も書くように二階の偏微分方程式では「加速度がある」としか認識されません。この数学は欠陥品です。電磁気学の成立過程に於いて作られたのは偶然ではないかもしれないと疑っています。(意図して隠したかも)それほどに重要です。
>電子が原子核に対して静止
そう思います。離散的に現れるが「回っている」とする方が心の仕組みと働きに合致しています。物質的自然が映像だとすると理にかなっています。