最近、数学者の 岡潔 が再評価されているとのことです。井口氏のブログ『いよいよ岡潔の再臨間近か!?:「岡潔が日本中で再評価されてきた!?」 』を参照ください。
岡潔の講演録や著書を読むことは大事ですけれど、岡潔自身が望んだのは「彼が述べたことを理解して欲しかった」のではありません。 「岡潔を読んで理解して、蘊蓄うんちくを傾けること」を彼は望んでいなかったはずです。断言できます。
管理人が岡潔のことを知ったのは遅くて、2013年10月15日の記事『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』が初めてでした。当サイトを検索すると岡潔についての記事は、217件ありました。上のリンク先にあるように、岡潔のことを知ったのは井口氏の記事(2013年7月8日『岡潔博士の「自然科学観」、「自然科学は間違っている」:いや〜〜、実に鋭い!』)によったと記憶しています。 因みに時間は物理量ではありません。 岡潔は時間は「運動から作る。時間という計量的なものはない」と云いました。時間は太陽(の運動にかかる)地上に作る光の影の角度から作ります。角度は量ではありません。量とは誰がどのように測っても同じです。つまり一意の値でなければなりません。角度は一意ではありません。だから時間は物理量ではありません。従って岡潔が述べているように自然科学は間違っています。世界各地で時間が違うのはそのためです。考察の結果、時間を含んだ組立物理量は古典的範囲(五感でわかる範囲)では問題ないですが、量子論(質量:GeV/c2)や天文学系(光年)ではダメです。
以来、数学者岡潔思想研究会の講演録からほんの一部のみを参考に「時間とは何か」について、約3年も考え続けました。 岡潔の述べたことを理解して云々を語るのではありません。岡潔の言葉を切っ掛けとして考察を続けるのです。 岡潔を読んで、「(何だかわからないが)凄いなぁ」ではまったく意味はありません。彼の望んだのは、そのようなことではありません。 仏教思想からの意味や数理的解釈の必要はありません。
岡潔が望んだことは、以下の部分に現れています。(『 数学する人生 岡潔 』 森田真生編 から)です。引用文はこちらにあります。
情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。
わたしは数学の研究を長くやっていました。研究中は、あるわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。p37
xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。p38
下線は管理人による。
とにかく、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞くこと。これをやりなさい。精神集中が、やがて努力感のない精神統一になりますから。「関心を集める」とはそういうことです。
管理人は、岡潔の云った「わかる」ということがどのようなことかほとんど伝わっていないと感じて、これまでに何度も「わかる」とはどういった意味か「人の心の仕組みと働き」を解説してきました。
図1
それは物の理ことわりでも、理解でもありません。 それでも人の心の仕組みと働きがわからないならば、実践するしかないのです。それが「聞こゆるを聞き、見ゆるを聞くこと」、「関心を集め続ける」ことにより、「努力感のない精神統一」に至るのです。
ただ、これは誤解を招く言い方です。 もっと簡単です。 「関心を集め続ける」というのは、「気(キ)付く」です。 わからないものxに関心を集めて、やがて気付くのです。 G・アダムスキーは同じく「弛緩と関心」と云いました。 岡潔の望んだことは、皆が気(キ)付くことです。
令和の時代に入りました。 管理人は、2019年1月29日の記事「新しい天皇に期待すること」に書いたのは、新しい天皇にのみ期待したのではなくて、実は「皆で気(キ)付こう」ということでした。天皇はリーダーだから当然のことながら、皆が気(キ)付くのが最高です。 日月神示に幾度となく「気(キ)付け」と促しているのはこのことです。
岡潔は難しいことを述べているのではなくて、日本人なら多少は持っている(と自覚しているだろう)第2の心の仕組みと働きをもって、早く気付いて「気(キ)付くを実践して」欲しかったのです。
わからないものに関心を集め続けて、探し続けやがて情的にわかっているものを知的に言い表すことで文化はできていくのです。 それがホツマツタヱ・ミカサフミ・フトマニなどヲシテ文献に書かれたヲシテ哲学(縄文哲学)の核心である「のヲシテ」(”ト”ノヲシテと読みます。)とのヲシテ」(”ロ”ノヲシテと読みます。)です。 岡潔の云ったことは、”ト”ノヲシテと同じです。 蘊蓄など不要です。ただ残念なことに岡潔は「精神統一」と云いました。これでは伝わりません。
管理人の研究は、この関心を集め続けることにより成り立っています。岡潔を研究しているのではありません。岡潔の言葉を参考に考察を続けているのです。 自然科学は間違っていますので、その基礎をしっかりし固めつつ、目標を定めるのです。
すでに自然の仕組みはわかっています。ヲシテ文献にある「カミ」の仕組みはわかっています。
アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの。ヒトはウなり。
図2
ウとは、渦(回転)のウです。ウとは、物質です。
図3
ウとは、循環です。だから自然科学も時間を用いた循環になっています。
図4
数字を含む言葉も循環です。だから思考も循環です。循環である人の脳を模した人工知能も循環です。
人が心を病むのは、肉体である脳が持つ(知と意による)循環と心の仕組みとの不整合にあるだろうと推測します。心の病みは、循環から来る抽象に過ぎることで生じるようです。
図5 数学や物理学の美は、抽象によるのではないか?
ともあれ人が物や事を「わかる」のは、人が持つ心の仕組みと働きによるしかありません。
岡潔は、そういった考察を続けるよう望んだに違いありません。しかし、実際のところ岡潔のような暮らしはできないです。 冒頭著書の序文より。
「私はなるべく世間から遠ざかるようにして暮らしている
普通は、そのような環境にないので困難です。だからといって、日々多忙な令和天皇が気(キ)づける環境におられるようにも思えません。
時折、思うのです。引きこもりやニートの中には、現在の「教育について行けない」のではなくて、「現在の教育方法に、どうにも折り合いがつかない」方がいるように感じます。そんな人たちの中には気付くことができるようになる方が出る可能性があると感じます。 岡潔も70年かかっているようです。「【4】 情のメカニズム」
人にはこういう情というものがある。それが人の本体です。幸福は情が幸福なのであって、道徳は情があるが故にあるのである。明白なことです。
ところが、こういうことをいった人類は一人もいない。私だってこんなこというのは今年になってからです。そうすると七十年かかっている。一旦分っていってみれば、こんな明白なこと。ところが、それが言葉にいえないらしい。
管理人も現在の環境がそう長く続きそうにないです。早く実験に辿り着きたいのが今の気持ちです。
追記6/18 100人が岡潔の著書や講演録を読んで、岡潔の云う「右の内耳に関心を集め続ける」ことをする人は皆無と思われます。やり方は人それぞれながら、岡潔の望んだことを知らずにやっている人はいたとしても、岡潔を知らねば意味はわからないでしょう。それほどに現在は、人のこころのあり方に無頓着なのです。 当サイトでは、岡潔の言葉を参考に考察を続けてきました。そのうちに「わかる」ということの意味を知り、解説をしてきましたけれども、どうしてもわかってもらえるという感じがしなくて、前回の記事に至りました。
岡潔が述べた「間違った思想の洪水」の意味がわかりました。「【1】 このままでは人類は滅びる」
思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。
一番怪しいと思えるのは自然科学です。それで自然科学から調べます。大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。
これを万華鏡に置き換えます。
写真1
『万華鏡とはどういうものかということを云わないで、万華鏡というのはわかり切っているとひとり決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。』 ご存知のとおり、万華鏡に見える映像と仕組みはまったく異なります。 自然をわかりきったものとしてモデル化したのが「時間・空間」という自然科学です。 間違った思想とは、部分を科学してよしとする自然観です。その行き着く先が図5に示した抽象です。
組紐は美しいです。
写真2
だからといって繰り返しには限界があります。組紐は循環だからです。 上記の通り物質的自然は「ウ」、即ち渦であり循環ですから「すべては互いに規定し合う」ことで成り立っています。ですから、自然の部分を科学して行き着くところには限界がありません。それは抽象だからです。おまけに物質的自然は「外のない内」です。 人工知能には複雑な繰り返しを苦痛に思うことはありません。しかし、人は、たとえ美しいとしても複雑さ(抽象)を受け入れるに限界があります。 脳には容積から来る(受け入れられる複雑さの)限界があります。 人工知能と脳には図1に示した心の仕組みと働きがありません。この「人の心の仕組みと働き」と脳の機能との間に不整合が出てきます。 岡潔が「このままでは人類は滅びる」と云ったのは、この(心と体の間に生じる)不整合に人が耐えられなくなることを意味します。 感覚器官は非線形であるのに対して、お金は線形です。経済は本質的に不安定要素を持っているのですから、暴走して自滅するのは必然とも思えます。
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