数学者岡潔によれば「知」の元になるのは「情」、すなわち(わかる)であると述べました。以下、【4】情のメカニズムより。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。
岡潔の云った知が慣れ親しんだ 情報 のことを示しているようだと気付きました。(やっとかい!) 情報 と物質(質量)とエネルギーの間には密接な関係があります。 そのことを2015年7月頃には意識していました。『聖書「初めに言葉ありき」は、弧理論「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい』を参照ください。
岡潔の云った情、即ち人の心の仕組みと働きを弧理論による別の次元軸(E軸)に当てはめて考えます。 弧理論による心の仕組みと働きは下図です。
図1
図1の下半分に、E軸にある心の仕組みと働き(岡潔の云う情)があって、それから上が知になります。上半分(M軸)が知と意です。 このM軸がE軸からの投影による映像の結果だと考えます。 下半分が無ければ一切が存在し得ないのです。 E軸の「心の仕組みと働き(情:わかる)」が無ければM軸の一切は存在しないのです。
「物質 エネルギー 情報 」で、検索したら「情報、エネルギー、物質どれが先に生まれたのか?」というサイトがありました。一部引用します。
物質やエネルギーの存在は約137億年前といわれるビッグバンによる宇宙生成まで遡るが、情報が誕生したのは地球上に生命が出現した約38億年前のことである。すなわち、情報は生命現象と不可分の存在と考えられている。
普通に考えれば鶏とたまごの関係に行き着くようです。 その点、岡潔は違った答えを出したわけです。 これまでの考察によれば、M軸は循環ですから引用文のような結論に行き着くのは当然です。岡潔は、思考の循環に嵌らなかったのですから凄いです。 エントロピーの関係はEMAN氏による情報エントロピーの解説が参考になります。
例え話です。2019年4月6日の記事「物質的自然 について知るには、別の次元軸から眺めるしかない」で用いた色覚検査図において、色のついたドットが何故、数字に見えるのかについて考えます。
図2 出典:「色覚検査の攻略本」「本当は効かない色弱治療」はなぜ存在したのか 進学・就職制限を受けてきた「色弱」の歴史とこれから (1/3)
図は、何種類かの大きさのドットの集合です。違いは色のみです。大きさ別の集まりには若干のかたよりがありますが、EMAN氏の解説にある「どれでも良さ」にさほど差はありません。色の違いだけです。色の違いの散らばり様は「どれでも良さ」による差は大きいです。
読めるか読めない(見えない)かの違いは、色覚検査並びに情報理論の範疇ですが、岡潔はそのようなことを述べていません。「【4】何故見えるのか」より。
医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。
しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです。
それでは、人は、何故眼をあけると見えるのか。大抵は、これについて疑問すら抱かない。知らないということも知らないのです。これは、無知というより言いようがない
下線は管理人による。 図2において、故障がなければ何故見えるのかに自然科学は何も言えないのです。その見える(知)の基に情による「わかる」があるのです。
物質(質量)もエネルギーも情報のいずれの概念も広く認知され、日常によく使われます。しかし、上記の通り、その関係はよくわかっていません。 そこで、表題にある「 情報 、エネルギー、物質」の関係を弧理論による別の次元軸からの投影による映像だと考えた場合、岡潔の(情:わかる)を交えて図に示します。
図3
E軸上の実体が投影されることにより位置を伴い質量を持った物質が現れます。質量を持った物質とエネルギーとその間にある情報があります。それは例えば、図2のようなドット絵です。この場合、情報とはドットの集合の内に、その色の偏りにより「数字の12」が読めるということです。そして、E軸上に図1下半分に示した「情:わかる」があると考えます。 注:ここで、観測者に対して物質が静止している場合におけるE軸上の実体が持つ値を真のエネルギー値Eとします。 実体が持つ値(E-E2)がM軸上に物質が持つエネルギーとして現れます。変化分ΔE=エネルギーということです。その意味で「物質はエネルギーに転換する」というE=mc2は間違いです。
運動の一形態がエネルギーです。但し、時間は物理量ではありませんので、上図は使えません。そこで、時間を含んでいるエネルギーの代わりに時間を含まない運動Pに置き換えます。運動Pは、時間を含む速度、加速度、躍度あるいはエネルギー、それから”波”を代表した表現です。 また、情報も岡潔の知に置き換えます。
図4
E軸上の実体と「情:わかる」があって、初めて物質とエネルギー(運動Pの一形態)があり、その間に情報たる「知」があり得ます。それが上記リンク先のEMAN氏やmedicom氏の解説に繋がると考えます。両氏の考察と計算は、いずれも知の領域の話です。
見たり読むことができるのは、すべて別の次元軸が原因だと考えます。M軸上の数学を含む言語、それに伴う人の思考、すべての物や事は互いに規定し合うことで成り立つ循環であり、M軸(物質的自然)に起源となるものは何もありません。
あらためて書きます。情報 、エネルギー、物質どれが先に生まれたのか?答えは、「そのどれでもない。」です。 情報を知としてわかるには、その前に情として「わかる」が無ければ一切が存在しません。図1において、道具(感覚器官)に色覚異常がないならば、「何故見える(読める)のか」がわからねば疑問は解けません。岡潔の云ったように見える(読める)のは、情の働きによります。 学生の頃情報理論を学びました。そのころから情報とは何かという疑問を持っていました。何となくわかってきたように思います。
ついでながら、自然科学の結論は、いずれの分野を追求しても行き着くところ「鶏とたまご」の関係になるはずです。超ひも理論などよい例です。結局のところ何もわかりません。 さらについでながら、聖書では「時間は物理量ではない」という替わりに「在りて在りたる」と表現したに違いありません。宇宙に最初も終わりもありません。在るのは位置と質量を持って現れる物質と運動だけです。どうも運動Pの一形態である”波”が重要な役割を担っているようです。さらにさらについでながら、わざと鶏とたまごの関係に似た命題を出して困惑させるマイケル・サンデルのような人が時折現れます。胡散臭いです。さらにさらにさらに、対称性は美しいと感じますけれども、嵌るとやっかいです。循環の構造を追求しても得られるものがありません。そういえば、フトマニ図にある「アウワ」のウは、渦のウ、回転、循環のウでした。全部、ウで説明できます。ヲシテ文献は超凄いです。
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