岡潔は、「まだわかっていないものに、関心を集め続ける」ことにより、やがて情的にわかってくる。情的にわかるものを知的に言い表そうとすることで文化はできてくると述べています。その行為を「 数学 する」という言葉で表しました。 直接にそのように述べたわけではありませんけれども、講演録のいくつかをまとめるとそうなります。参考・・・・「【4】 禅の非思量、【4】 情のメカニズム」
その手法として右の内耳に関心を集め続けることを推奨しています。そうすることで努力感を感じない精神統一になると述べています。参考・・・・「【10】 右の内耳、【27】 西洋人の創造」 その根源が人の持つ「わかる」ということであって、それが情じょうの働きよると云いましたし、それは大脳の頭頂葉に宿るとしました。参考・・・「【9】 頭頂葉の個性」
つまり、岡潔は「 数学 する」というのは、人の心の仕組みと働きを含めて論じているのです。このような人は皆無で、管理人は岡潔以外に知りません。 この数学には段階があるようです。数学者の松岡学氏のブログ「岡潔の数学教育の考え」より一部引用します。
ここでは、算数や 数学 を学ぶ際に大切なことを
岡潔の数学観を通してみていこうと思います。数学というと、計算や公式のイメージがありますが、
岡潔は次のように語っています。「ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。
計算や論理は数学の本体ではないのである」計算も論理もない数学、、、
かなり衝撃的なフレーズです。計算や論理よりも大事なことって、何なのでしょうか?
岡潔の考えを読み解いていこうと思います。
彼は奈良女子大学で数学を教えていた頃、
授業における学生の評価を次のようにしていました。「判断の基準はこうである。
Cは数学を記号だと考えているもの、
Bは数学を言葉だと思っているもの、
Aは数学はこれらをあやつって自己を表現するが、
主体は別にあるのだ、ということがわかっているものである」
A、B、Cの三段階評価で、Aが一番良いのですが、
先ほどの、数学が計算や論理と思っている人は 「C」 の評価ということになります。
また、数学が 「言葉としての役割がある」 ことを理解した人が 「B」 の評価となります。
「A」 の評価は、文章の意味を理解するのも難しいですね。
これまで管理人が特に拘って、岡潔の「わかる」とはどういうことかを何度も書いてきました。それはAに示された主体がどういったものかを説明するのと同義です。 岡潔の言葉を借りれば、CとBは、「意識を通し、言葉で言える」知であって、意へとつながるものです。Aこそが「意識を通さず、言葉で言えない」けれども「何となく趣おもむきがわかる」ものです。その出処が情であるわけです。誰かに教えられなくてもわかるのです。CとBは、誰かに教えられねばわかりませんし、「わけることによりわかる」レベルです。
岡潔は「数学する」の内に、己の何がどのように発現しているかを思考し、含めているのです。 これこそが本物です。
2018年5月17日の記事「弧理論による 精神科学 とは? 唯一、数学者岡潔による第2の心に近い」において、2008年ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏と漫画家の手塚治虫氏の例を取り上げました。
写真1 出典:京都大学
写真2 出典:手塚治虫の肉声で紐解く人物像、ラジオ特番に細野晴臣、コムアイら
お二人のエピソードから、アイディア発現の仕方は大きく異なっています。しかしながら、お二人とも自身の発想がどのような仕組みと働きで出てきたのかにはまったく関心がありません。その点は共通です。 管理人が拘っているのはこの点です。
世に神の数式とか愛の方程式なるものがあります。
写真3 出典:Coffee Break 「神の数式2」
これら数式や方程式群に思考した人自身と自身の思考の仕組みと働きは含まれていません。それ以前に物理量ではない時間を含んでいるので正しくありませんが。
岡潔は、自然科学について次のように述べています。「【 4】 自然科学と生命現象」を参照ください。
自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。それで自然科学に聞いてみましょう。
人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。
余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。
人は立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が突嗟に統一的に働くから立てるのですが、何故こういうことができるのか。これに対しても自然科学は本質的なことは一言も答えられない。
下線は管理人による。 医学は、器官に故障がなければ何故見えるのか答えることができません。故障があったら見えないというのは、「目を瞑ったら見えない」というのと何らかわりがありません。
上記の神の数式とか愛の方程式で云えば、「観測によりわかる※1ことと数式は合致する」とは云っています。観測に支障があったら結果は得られません。しかし、観測に支障がなかったら何故、素粒子が「わかる※2」のか答えられません。数式や方程式に自身の思考の仕組みや働きが含まれていないからです。 「わかる※2」の意味が含まれていないからです。
※1の「わかる」・・・「わけることによりわかる」という還元主義のこと。
※2の「わかる」・・・岡潔が云った、何となく趣おもむきがわかるということ。
難しいですが、観測したら素粒子はわかる※1。しかし、何故素粒子だとわかる※2のかは、答えていません。
すべて、知の領域に留まるからです。知の領域とは、「意識を通し、言葉で言える」ということです。情の領域では、「意識を通さず、言葉で言えない。しかし何となくわかる」ということです。
オレンジやスプーンがわかる※2のは、言葉でわかっている※1のではありません。
写真4
写真5
貴方が観ている写真4や写真5について、「わけることによりわかる」のは画素であったり原子・分子です。もっと云えば素粒子だとも云えます。そこにオレンジもスプーンもありません。
写真6
知の領域である「意識を通し、言葉で言える」から「わけることによりわかる※1」というのは、それ以前に基礎である「わかる※2」がなければあり得ないということです。
ですから、上記の方程式とか数式とかは基礎のない上に建てた建物のようなものです。
これまでの考察により、それらは抽象に過ぎないとわかりました。観測により何かはあります。しかし、10-20という人の五感でわかる※1領域をはるかに超えた何かは抽象に過ぎません。恐らくそれらは、波の一種であろうと考えます。わかる※2の本質を踏まえたものでなければ意味はありません。 物質的自然は循環であることがわかっています。ですから、どこまで行ってもブラックボックス(素なる領域・空間あるいは素なる時間、言い換えると画素)でしかないのです。当たり前ながら画素に意味はありません。状態の変化があるだけです。
表1
精密で緻密で対照的で美しいと感じるから本質を突いていると考えたいようですけれども、本当は繰り返しのある抽象に過ぎないです。
ついでながら、ヲシテ文献を参考にすると、「タマ+シヰ」のシヰは強いるのシヰです。だから美シヰは、心の仕組みから云えば、表層にあたります。岡潔の云った「情・知・意」の順で働くという意に相当します。 人が感動・感激するという部分は意あるいはシヰにあたります。情の衝動ははるかに小さくて静的です。このあたりも岡潔は詳しいようです。その手法が「関心を集め続ける」なのです。
図1
以下、手前味噌ながら、「回す」ではない回転運動(回る)の本質である正と負の発散トーラスを組み合わせた楕円磁場により、原子模型を作り、原子模型から質量と運動P、並びに重力などの物性を説明しようと思考しています。管理人は、それを弧理論(Ark Theory)と呼んでいます。その基礎(Ark)は、人の心の仕組みと働きにより成り立っており、よって、人は物や事がわかる※2のです。弧理論はその全体です。基礎がなければ、先へ進めるわけがありません。 ただ、よくわからない点が多くあり、常識外の考え方ですから書き辛いです。主に幾何学的に空間を解析していますが、数学はできません。しかしながら、こういったことで時折数学をやっていると感じるときがあります。
追記7/4 突き詰めると一つの疑問になります。 大統一理論とか数式や方程式がありますが、物理学者の方に質問です。
貴方の理論や数式に思考した人自身は含まれますか?
岡潔は自然科学について述べています。「(自然科学は、)生命現象に一言半句答えない。」 2年ほど前からブログランキング(科学・自然科学)に登録しています。いろいろありますけれど、岡潔の「わかる※2」が含まれているものはないと思われます。 過去に自然科学には取りこぼしがあると書きました。その最も大きなのが生命現象であり、「わかる※2」なのです。 岡潔を読む人は多いですけど、岡潔の述べたことや彼の望みがどのようなものであったか消化できている人は皆無です。でなければ、岡潔が没してから40年経ってもそのままであるはずないです。相変わらず自然科学している人は、これほどの基本もわかっていません。 写真4や写真5が言葉によらず「わかる」ということこそ生命現象に迫る何かであるはずです。決して遺伝子云々ではありません。
追記7/6 岡潔は「右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。」と云いました。「【10】 右の内耳」より。 これがとても小さく弱いのです。およそ日常生活の雑事、雑音にかき消されて気付きません。 これに対して、2015年9月9日の記事『ヒトラーを予言者にした「あいつ」 &コックリさん &サタニストによるボヘミアン・グローブ』にてご紹介したとおり、世にはとても強くはっきりと”聞く”人がいるようです。このようなことは、間違いです。 以前書いたように岡潔の「関心を集め続ける」姿は、外見的には”惚ほうけて”いるように見えます。静かに落ち着いた生活からしか得られません。
このお話しは、自然科学が取りこぼした内にあって、いかにもオカルトです。自然科学からは、「弛緩と関心」は呪術(オカルト)と区別がつきません。G・アダムスキーは、心の2つあることを知らない西洋人に対しては”呪術をやってはいけない”としか説明できなかったのです。 感情や感動の中にそれほど重要なことは含まれていません。たぶん真の満足はもっと静的です。
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