数学者岡潔は、『”聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く”ことによって、次第にわかってくる。これを実践しなさい。』と述べています。意味がわかりませんし、どうすればよいのかもわかりません。 これまでにヲシテ文献や岡潔の言葉などから考察した人の心の仕組みと働きを参考に、その難しさについて説明します。
「わかる」ということについて、次のように述べています。「抜粋 岡潔の最終講義 (『 数学する人生 岡潔 』 森田真生編 から)」より引用します。
あるわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。p37
xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。p38
わからないものに、関心を集め続けているときは既に、情的にわかっている。情的にわかっているものを、知的に言い表そうとすることで、文化はできていくということです。 また、「関心を集め続ける」やり方について、「【10】 右の内耳」で次のように述べています。
生を知りたければ、生がよくわかりたければ、『右の内耳』に関心を集める。
『聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く』
こうせよ、そうすると生がわかる。わかり方は意識を通さないでわかる。どこがわかってるのかと云うと後頭葉がわかってる。この一番反対なことは『見る』ということをすること。見るというのは前頭葉がするのです。そうすると必ず意識を通してわかる。
「右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く」ということです。それから、「【27】西洋人の想像」の※解説27で岡潔が述べたことを紹介されています。
岡はこういっている。「精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている」と。
上記の引用部をまとめると、次になります。
わからないものに対して、右の内耳に関心を集め続ける。いつしか努力感を感じない精神統一になっている。そして、そのときには既に、情的にはわかっている。情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。
「努力感を感じない精神統一」は誤解を生みそうです。言い換えますと「完全なリラックス状態で関心を集め続ける」ということです。精神統一というからには”精神の集中”が必要と考えますけれど、まったくの誤解です。一切の緊張はありません。一言で云えば、「弛緩と関心」の状態です。 カギは「わからないもの」にあります。「あるかないかわからない」ものについて考えることはできません。疑問に思うことがなければ、あるかないかさえも思いつきません。ここがテストと違うところです。日頃から物や事に興味を持って接している内に、?と引っかかる物や事があれば、内に留めておきます。?について、普段は忘れているにしても、やがて幾つかの?なるものが「わからないもの」に至ります。で、それを続けるということが「関心を集め続ける」ということです。既にそのときには、情的にわかっている状態です。これを知的に言い表そうと関心を集め続けるのです。
岡潔は、「わかる」というのには、二つあると云います。「【1】人には心が二つある」より引用します。
人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。
一部略
ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。
前半も後半も何を云っているのかわかりません。「私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、私は理性する」というのは、ヲシテ文献のタマシヰにかかるシヰに等しいです。タマ+シヰのシヰは、ヲシテ研究者である池田満氏によれば、「強いる」のシヰです。つまり、欲しい欲しいのシヰです。
第1の心は、文字通り「わかる」です。「わかる」の語源は「わける」です。
図1
「わからないもの」とは、ブラックボックスです。入力と出力の関係から「わかる」部分を切り離します。
図2
「わからない」ものを「わけることによりわかる」とすします。「わからない」ものを幾つかに分けるのですが、その内の「わける」いずれかの部分は有限である必要があります。これを要素還元主義といいますし、有限な部分に分けるという考え方は孤立系になります。自然科学は孤立系の科学です。
岡潔は、第1の心について、私わたくしというものを入れなければ決して働かないと云います。これが「わけることによりわかる」のであり、「欲しい欲しいのシヰ」なのです。 第1の心は「意識を通し、言葉で言える」かつ、「わけることによりわかる」し、「欲しい欲しいのシヰ」なのです。 注意する点は、還元主義は「わけた」部分もまたブラックボックスのままであることです。これはとても大事なことです。還元主義の本質は、『「わからない」ものはどこまでもブラックボックスのままである』というところにあります。
第2の心は、無私の心だと云います。「【4】情のメカニズム」より引用します。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。
第1の心は、「知」によりました。意識を通し言葉で言えるものです。それは「わけることによりわかる」ものでした。しかし、本当の「わかる」は別に在ると云います。理解や物の理ことわりではないと云います。それが冒頭の第2の心です。第2の心は、松は松なりの趣おもむきがわかるのです。基になるのは情であり、情の働きにより「わかる」のです。
まとめます。
- わかる※1・・・・「わけることによりわかる」意識を通し言葉で言える。孤立系による還元主義
- わかる※2・・・・物や事の趣がわかる。意識を通さず、言葉で言えない。情の働きによる。
岡潔は、松や竹を例に出しました。 ここでは、写真1を例にします。
写真1
わかる※1のは、意識を通し、言葉で言えばオレンジです。しかし、「わけることによりわかる※1」とするのですから、写真1のオレンジをわけます。
写真2
すると画素が現れます。残念なことに、意識を通し言葉で言える「オレンジ」は存在しません。写真1が「わかる※1」の前に、「わかる※2」があるから意識を通し言葉で言える「オレンジ」があり得るのです。「わかる※1」の前に「わかる※2」がなければ、一切が存在しません。
これは写真1の実物でも同じです。「わけることによりわかる」のは、タンパク質であり、分子であり、素粒子です。「わけることにより」あるのは、状態を変化させる要素(ブラックボックス)だけです。それは画素であり、原子です。もちろん写真1は、素粒子にあるはずはありません。
岡潔は、抽象的なあるいは観念的な何かを説明しようとしているのではありません。極めて具体的な話しをしているのです。 数学者岡潔を読む人は多くいます。しかし、このことをわかっている人はほとんどいません。当サイトで幾度も表現を変えて記事にする理由です。
上記を踏まえて、岡潔の数学教育の考え よりの一文を読むとわかってくるものがあります。
「ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。
計算や論理は数学の本体ではないのである」計算も論理もない数学、、、
かなり衝撃的なフレーズです。計算や論理よりも大事なことって、何なのでしょうか?
岡潔の考えを読み解いていこうと思います。
彼は奈良女子大学で数学を教えていた頃、
授業における学生の評価を次のようにしていました。「判断の基準はこうである。
Cは数学を記号だと考えているもの、
Bは数学を言葉だと思っているもの、
Aは数学はこれらをあやつって自己を表現するが、
主体は別にあるのだ、ということがわかっているものである」
物や事の内に、記号や言葉があるのではありません。別の主体があって初めて記号や数字や言葉があり得るのです。岡潔は大天才です。若い頃からAに気付き、精進したことがわかります。情的にわかっていることを知的に言い表そうとすることこそAなのです。その結果をBやCを用いて表現しているだけです。BやCは、関心を集め続けた結果に過ぎません。
長かったけれども、本題です。わからないものに弛緩しつつ関心を集め続けて”聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く”こととはどういったことかについてです。岡潔が云った2つの心とその働きを図にしました。
図3
図の下から心の深層~中層~表層とします。深層から「情・知・意」の順に働きます。深層にあるのが第2の心です。これは情の働きにより意識を通さず、言葉で言えないがしかし「わかる※2」のです。これが”聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く”です。情的にわかっていることを知的に言い現した先が「知」です。そこからは私が入ります。意識を通し言葉で言える知と意の状態です。物質的自然は、この第1の心すべてを覆っています。
ただし、境界ははっきりしません。岡潔は頭頂葉に宿るとしましたが、管理人は大脳の頭頂葉は電灯のプラグのようなものと考えています。大脳にある脳細胞の幾らかは、図1に示すブラックボックスに例えられ、入力のない出力があるのではないかとの仮説を持っています。これは一般的には”脳にはエラーがある”と認めることになりますけれど、「情的にわかっていることを知的に言い表そうとする」際に、脳組織の一部に入力のない出力があるのかもと考えています。(まだ、よくわかりません。弧理論の観点からは、そのように結論できます。)
で、「意識を通さず、言葉で言えない」が何か趣がわかるという状態は、「努力感を感じない精神統一」の状態でなければなりません。これが難しいです。経験上、「情的にわかっている」というのは、考えられないほどに希薄で弱くて静的です。岡潔は、『私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。』と述べています。 自身の内で、とても騒々しくて弛緩と関心の状態になど居られないのです。24時間の内、せいぜい2時間もあればというくらいです。あとは雑念に過ぎません。
実は、図3の中層から表層に、欲しい欲しいのシヰという喜怒哀楽が出る結果、文学・美術・芸術・エンターテインメントなどを含む人文科学・社会科学・自然科学ができてきたのですけれど、そのほかに呪術やオカルトやスピリチュアル系や夢、あるいシヰに発する宗教などがあります。これらは非科学的として退けられます。「わけることによりわかる」ものではないからです。非科学として何かを排除する人は、そこが限界だということになります。
よく行く映画館のロビーにモニターがあります。昨年だったか公開予定の洋画のトレーラーに注目していたら、40秒くらいのトレーラーに30回以上の場面転換がありました。ワンカット1秒くらいです。これはシヰを追求した結果です。オカルトやSFに見えるけれどスピ系などが多いのも「意識を通さず、言葉で言えない」何かがわかり※2かけているのかも知れません。しかし、抽象(あるいは仮想)かつよりシヰを刺激する方に向かっているのは間違っています。
先般の記事に示したとおり、「現在の地球は抽象かつ複雑化の方へ向かっている」と考えます。
図4
精密緻密で論理的であっても複雑過ぎることは、心の仕組みと働きに矛盾しています。要素に本質はありません。
古今、世に多く予言者や救世主がいます。これが図3に示す2つの心と働きをわからずに雑念をそのまま信じてやっている場合があります。 何度か死んで生き返ったことで未来を観てきた人や神と契約した人などがあります。強くはっきりした意識を通し言葉で言える何かを得たなら、注意が必要です。本当かどうかわからないからです。でも悪人でないところが難しい。
岡潔は、「間違った思想の洪水であり、このままでは人類は滅びてしまう。」と危惧しました。その理由が上記「精密で複雑な論理だが抽象に過ぎないし、強いシヰを求める方向」だと考えます。要素還元主義と唯物主義では、人々のシヰにより自滅します。シヰを助長しているのが「時間とお金」です。僅かのお金を欲しくてコンビニ強盗で人を殺めるのは、その極致です。戦争の原因でもあります。
自滅するだろう理由は他にもあります。エリートキツネが参考になります。何世代も同じ指向を続けると生まれながらにその指向を持った世代が増えるというものです。当サイト内を「エリートキツネ」で検索すると関連する記事が出ます。元ネタは「動物好きな研究者の夢 — 40年の研究からペットギツネが誕生」にあります。
追記 7/15 岡潔は、写真1と写真2の説明でわかるとおり、極めて具体的で簡単なことを述べています。 それを仏教の書物や神道などを参考にし読みこなした上で、現在の言葉で説明しているのです。2000年以上前の偉い人が述べたことを弟子や、その後の人たちが漢字文献にしたのです。はっきり言えば、多くの人の手が入りすぎた仏教の教典などは手垢がついており、凡人には読めないと感じます。第一に教典を書き残した人自身がわかっていたかも不明です。その意味で、ヲシテ文献は元の意味が取りやすいです。それすらも池田満氏による解析と解説がなければ不可能です。
本当はかなり簡単なのに「五蘊、六識、六根」などと云われればわかりません。本居宣長も「もののあはれ」を四苦八苦して解説していますけれど、本当はかなり簡単なのです。
図5
- 岡潔の情・・・・ヲシテ文献のナサケエダ:現在がわかる※2:今の表現では静止画がわかる※2
- 本居宣長による記紀にある「もののあはれ」・・・・ヲシテ文献のアワレエダ:過去がわかる※2:今の表現では動画がわかる※2。記憶に関係する。
- ヰクラ・・・・事がわかる※2=人と人、人と物の関係性(角度:空間の性質から来る)「恐らく五蘊に同じ」
- ムワタ・・・・物がわかる※2=人の五感でわかる「恐らく六識あるいは六根に同じ」
骨格や内臓とか神経などの現在の知識を元にヰクラムワタを五臓六腑などと解しているのは笑止です。また、物性が離散的に現れるのは映像だからです。心の仕組みと働きがなければ、離散的に現れる静止画の連続を動画として「わかる※2」がなければ、意識を通し言葉で言える「わかる※1」はありません。
岡潔が云った心の仕組みと働きという基礎がなければ、今後の科学の発達はあり得ません。奇しくもヲシテ文献に示されたヲシテ哲学とほぼ同じです。これこそが普遍性というものだと思います。フトマニにある「ア・ウ・ワ」のウは、渦のウ。回転であり循環です。凄く簡単な「カミの仕組み」からできています。
これで「アワノウタ カタカキウチテ ヒキウタウ オノツトコエモ アキラカニ ヰクラムワタヲ ネコエワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」の意味がわかります。
24音で折り返す48音(ヨソヤコヱ)が「アワのウタ」です。
図6 出典:日本ヲシテ研究所池田満氏
母音を物とし、子音を事として配置します。五感でわかる物や事をヨソヤコヱで現すというのが、「ヰクラムワタヲ ネコエワケ」なのです。本当に凄いです。 それと、岡潔が云うところの「関心を集め続けて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く 」というのは、ヲシテにある「(ト)ノヲシテ」に同じです。カミの仕組みをわきまえて、トノヲシテを実践する人たちの敬称が「~カミ」なのです。例えば、トヨケカミ、あるいはアマテルカミなどです。ですから、「オカキヨシノカミ」と云えます。「~カミ」と付かなくなった頃から、人々は第2の心のあることを忘れたということです。岡潔も同様のことを述べていたような。
追記7/17 カミノヨ(神皇)からヒトノヨ(人皇)に変わったのが神武天皇の頃からとされます。カミノヨとは、カミの仕組みと働きをわきまえてトノヲシテを実践する人が人々を率いた世です。ヒトノヨとは、カミの仕組みを忘れた人が人々を率いた世です。 2019年3月4日の記事「数学者岡潔 の読み方」の後半が参考になります。シャーマニズム(神頼み)は現在も続いています。
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