昔から自身を 節操がない と感じてきました。管理人は調べ物をする際に何でも参考にします。世に評価された人や資料や逆に見向きもされない資料など何でもです。その基準は、高野誠鮮氏が紹介された言葉にあります。「宇宙人UFO軍事機密の【レベルMAX】:ヒカルランド」
「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」
少し長いですが引用します。P69~
アメリカ空軍大学(Air University)では面白い教科書を出しています。「Research study」と書いてあります。ここの中に「次にUFOの調査をするときにはCIAに邪魔をされないように」とあります。つまり、前回CIAに邪魔されたということを暗に示唆しているのです。これは不思議なものでした。これは空軍の司令部です。アメリカの空軍士官学校(アカデミー)で使っている教科書なので、本当はコピーも撮影もいけないのです。
僕は、それを現職の士官からいただだきました。そろそろ出してもいいころかなと思っていたのです。『宇宙科学入門』というタイトルです。(図7)。これをよく見てください。33章はすべてUFOの話です。コンクルージョン(結論)には、とんでもないことが書いてあります。士官学校で何を教えているのか。「UFOというのは、実に不愉快だけど、今から5万年以上前からこの地球上にやってきている」と書いてあるんです。(図8)有史以来ですよ。誰がこれを調べたんですか。しかも、ほかの惑星からエイリアンがコントロールして乗ってきているのがUFOだと結論づけているのです。
この次のフレーズがちょっと不気味です。「3種類の異なったエイリアンが、もう既に地球にやって来ている」と書いてあります。その次に「maybe four」と書いてあります。ひよっとすると、4つの異なったグループが来ています。別の1種類が来ている。これを空軍士官学校で使っている教科書で教えているのです。学ぶのはぺいぺいの一兵卒とかそういうレベルではなく、士官候補生だけです。士官たちには教えているのに、議会や国民に対しては否定しているのです。
この教科書には「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と書いてあります。つまり、いることは間違いない。3種類から4種類来ていることを教えています。しかも、「今から5万年以上前から地球に既にやって来ている」と書いてあります。彼らは敵ではありません。5万年以上前から来ていて、侵略しようとか、そんなふざけたことは考えていませんよ。侵略とかではなく、まったく違うことを考えているわけです。
従前管理人は、研究に対しての姿勢として次のように考えてきました。
- 誰が書いたか(言い出したか)は関係ない。
- 内容が合理的で納得できれば採用する。(内心ひっかかるものがあればよい。できれば第一次情報がよい。)
- その際、自己の常識は関係ない。
- しかし、採用した一部をもって書いてある(言っている)こと全部を丸呑みしない。
- 分からないことは、捨てるのではなく判断を保留する。
- 何年か先に別の情報との整合性がとれることによって将来判断できるかも知れない。
1と2について、権威があるとかしかるべき地位にある人が言ったとかは関係ありません。例えば、数学者岡潔が偉大な数学者だからではなくて、純粋に合理的なことを述べているから考察の出発点にしているのです。
3について、常識はその時々によって変わります。光の速さで何百年もかかるところからやって来る訳ないと考えるのは常識です。かつて管理人もそのような考えでした。でも研究を進める内に「宇宙は距離ではなくて角度だ」と感じるようになりました。(まだはっきりしませんけれど、常識がブレーキになっている)
4について、これは重要です。どうも教育の影響か、多くの人はゼロか100のどちらかしか判断しないようです。これは宗教に対する態度です。それではいけません。例え一つが合理的であって採用したとしても他のことも全部受け入れる合理性はありません。「これはこれ、それはそれ」という態度です。丸呑みはいけません。
5と6について、今はわからないけれども、何かひっかかるなど感じたときには、判断を保留します。いつか別の情報があったときに、そういえばかつてこんな情報があったなと気付くことで、繋がってくるはずです。そのまま忘れることも多々あります。4と関係しますが、全否定も全肯定もダメです。
複数の資料に同じ事が書かれているならば(間接的な資料として)採用しますけれども、だからといってその資料を100とはしません。あくまで是々非々です。日月神示をなぜ採用することがあるかというと他の資料に書かれていることと同じだから、その箇所のみを取り上げたのです。 管理人はスピリチュアル系、オカルト系は好みません。しかしながら、書かれていることに他と整合性があればよしとします。でも全部じゃない。
「数学する人生 岡潔」:森田真生著新潮社に掲載されているp4の写真は最高です。ここに掲載することはできませんけれども、「(自宅前にて)わからないことに関心を集め続ける岡潔の姿」です。これは「弛緩と関心」であり、ヲシテ哲学におけるトノヲシテを実践する姿そのものです。でも、見方を変えるとその外観は、「惚ほうけている」、あるいは「スピ系」となんら変わりないのです。 「自然科学の観点からは非科学とされる中にも何かあるかも」という疑問形ではなくて、今や「自然科学の何処がどのように間違っているかわかった」のですから、すべてリセットしてかからねばならないのです。だから好き嫌いではなくて「心に引っかかるものすべて」を参考にすべきです。それが「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」なのです。 言い換えると管理人の研究に対する姿勢には 節操がない のです。今も答えが得られない問題が山積みです。
心の仕組みと働きは、スピ系でもオカルトでもないのに同じ系(非科学)と分類されてしまいます。
ところがエリートと呼ばれる人たちは、真逆で非寛容です。自然科学(の専門分野)に疑問を抱いていません。それが基礎だと信じているのですから仕方ありません。基礎が危ういものだと微塵も感じていないのですから、それについて何も考えていません。時間は物理量ではないという点について、4年近くも考えてきました。うまくできた誤魔化しです。物理学者の中にも時間が物理量ではないと気付いている人がいるはずです。しかし、地位や評価を失いたくない、失業するわけにはいかないというのが現実です。いずれ彼らは最後尾になるかもです。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。