前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」の前半から興味深い点を読みます。
写真1
その際、数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察した結果と比較検討します。
今回は、第1部 時間の崩壊、第3章 「現在」の終わり、にある『「今」に何の意味もない』と『「現在」がない時間の構造』についてです。p46からp60までの内、幾らかを引用します。
著者は、宇宙の遠くにある惑星の「今」と、この室内にいるお姉さんとの「今」について議論しています。
お姉さんから自分の目に届く光を受けるわけだが、光が皆さんのところに届くには、たとえば数ナノ秒[一ナノ秒は一秒の十億分の一]の時間がかがる。したがってみなさんが目にしているのは、お姉さんが今行っていることではなく、数ナノ秒前に行っていたことなのだ。
略
わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。
では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて十分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に包まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有してるかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。
略
「宇宙の今」という言葉には意味がないのだ。
続いて、「現在」がない時間の構造においては、ミンコフスキーの光円錐(ライトコーン)を用いて[事象]の地平線について説明しています。その上でp59から結論を述べています。
もしも、「現在」に何の意味もないのなら、宇宙にはいったい何が「存在する」のか。「存在する」ものは、「現在」にあるのではないのか?
じつは、何らかの形態の宇宙が「今」存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻しているのだ。
時間の過去と現在について、数学者岡潔は「【5】 情の特色」において次のように述べています。
情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。
前回の記事にも引用しましたけれど、時間は時の過去における性質(時は過ぎ行く)を取り出して観念化したものです。そうした観念である時間に計量的なものはないし、時には過去と現在だけあると述べています。著者が言うように「現在に意味はない」ということはありません。
その議論の前に、岡潔は自然科学者の還元主義と唯物主義について語っています。その2つについて参照した上で考えます。岡潔は「【3】西洋の唯物主義」で次のように述べています。
大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。
略
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。
著者を含む西洋人は「五感でわからないものは無いとしか思えない」と3回も「ない」と強調しています。素粒子を探求するにいたり、その唯物主義を撤回し、「西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならない」と述べています。
岡潔は還元主義という言葉を使っていませんけれども、結果的に還元主義は間違っているという主旨になります。順を追って説明します。
1) 岡潔は、人が持つ心の働きである「わかる」には2つあるとしています。「【1】2つの心」より。大事なことなのでほぼ全文引用します。下線は管理人による。
人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。
略
欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、直にわかる。
第1の心のわかり方は、「意識を通し、言葉で言える」ものです。欧米人はこれしか知りません。第2の心のわかり方は、「意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、直にわかる」のです。第2の心について、恐らく日本人でもあまりわかっていないだろうと感じます。
「わかる」の語源は「わからないものについて、わけることによりわかる」にあります。第1の心である「わかる」はこの「わけることによりわかる」の「わかる」です。つまり、還元主義をいいます。
図1 わからない何か「ブラックボックス」をわけることによりわかるとする。「わけた」ものもまたブラックボックス。ただし、わけた部分のいずれかは有限である必要がある。
2つの心におけるわかり方について、「【4】 情のメカニズム」に述べられています。
日本人は情の人だけど、その自覚がない。それを自覚するということが非常に大事です。
自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
略
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。
言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。
第1の心は、「理解、物の理ことわり」と言えます。これが還元主義です。第2の心は、「趣が直にわかる」のです。まとめると次になります。
心には2つあり、第1の心は、私わたしというものを入れなければ決して働きません。そのわかり方は意識を通し言葉で言えるものです。わからないものをブラックボックスとし、わけることによりわかるとするものです。第2の心は、私わたくしというものは決して入りません。そのわかり方は意識を通さず言葉で言えないが、しかし、そのものの趣が直にわかるのです。これは情じょうの働きによります。「情」により第2の心が働き、それより先が第1の心の働きです。そして「知」にいたり、その次に「意」が働きます。本当の「わかる」は第2の心にあり、情でわかるということがなかったら、一切が存在しません。
下ごしらえはここまでです。 第1の心である還元主義の限界と第2の心のわかり方の順について、後ほど説明します。
岡潔は「情→知→意」の順に働くとしました。 岡潔は、第2の心として、情により直に趣が「わかる」と云いました。これは「現在」です。最初に「情」が働くからです。そのわかり方は意識を通さず言葉で言えないが、情により直に「わかる」のです。 それから先、第1の心により「知」があり、次いで「意」が働くのです。ですから、第2の心の有り様ようは「過去」です。
図2
岡潔が述べたことをまとめると、第1の心は「現在」を含まないことがわかります。もう一つ大事なことは、「過去」がある為には記憶が必要であることです。つまり、第1の心は記憶に依存しているということです。この点を岡潔は指摘していません。(たぶん) 過去にかかる記憶というより、情報と云った方が馴染みがあります。つまり、現代文明は現在を含まず過去の情報だけが重要だと認識されているということです。そういえば以前、「為替と株と時間の関係」について書いた記憶があります。PCに表示される「現在の値」は過去です。テレビのニュースの終わりに示される「何時現在の終値」も過去です。PCに張り付いてFXに熱くなっている人は表示される値動きは過去だと気付いていません。だから負けて財産をすり減らすのです。
本題です。著者は、『「今」に何の意味もない』と書いたのですけれども、西洋人である著者は、心の2つあることを知らないからです。 ニュースの前に流される「定時の時報は過ぎてからしかわからない」と書いた記憶があります。 2017年9月20日「時間の非対称性について」や2017年12月28日『数学者 岡潔 「自然科学は間違っている」について考察したまとめ 』あたりにあります。
確認です。管理人は理系の出ですから、2年ほど前まで「古典物理学は決定論である」と信じて疑いませんでした。ところが岡潔の「2つの心や時間」に関する言葉を元に考察した結果、「古典物理学は決定論になり得ない。」し、量子力学も素粒子物理学も決定論にならないとわかりました。未来は精度でも確率でもないのです。何故なら自然科学は「現在」を含まないからです。
著者が「「今」に何の意味もない」と結論づけたのは意外でしたけれど、こうして順序立てて書いたところ、当たり前のことなのだと気付きました。「意識を通し言葉で言える(わかる)」しか知らないならば、著者は、決して(自死以外で)自動車事故で死ぬことはありません。実際はそうでないことを誰もが知っています。著者はその矛盾に気(キ)付かないのです。表現が不謹慎で申し訳ないです。(注11/5 誰もが事故で死ぬとは考えません。考えなければ死ぬ確率が0になるならば、こんなありがたいことはありません。実際は死亡事故は多発しています。)
さて、第1の心である還元主義の限界と第2の心のわかり方の順について説明します。例にて詳しく説明します。
写真2
これは何かと問われたら、(言葉である)スプーンと答えます。スプーンを国語辞書で意味(記憶:情報)を調べます。以下、接続詞などは無視して、下線の意味を順次調べます。
写真3
(1) スプーン 洋風の匙さじ。下線の部分を辞書でひきます。
①西洋的な形式の匙 下線の部分を辞書でひく。②西洋に、接尾辞「的」がついた物・事となって現れている(うわべの)形や型の匙 さらに下線の部分を辞書でひく。③ヨーロッパ・アメリカ 諸国に、接辞の一つで、それ自身 単独で発話されることがなく,常に 語根,語幹,自立語 (または自立語に音形も意味もよく似た 形態素 ) に後接して派生語を形成する形態素である「そのような性質をもったものの意を表す」がついた天地間にある有形 無形の一切のもの・われわれ の生活の中に現れたり、われわれがしたりする事柄となって様子が表に出ている(見かけ)の物のかたちや個々のかたちのもとになる(と考えられる)もの。さらに下線の部分を辞書でひく。④ユーラシア 大陸の西に突き出た半島のような陸地・西半球の太平洋と大西洋をわける大陸・北アメリカ,中央アメリカ(西インド諸島を含む),南アメリカの全体 多くの国々に、接頭語・接尾語の総称・・・・ 。さらに下線の部分を辞書でひく。⑤以下、略
次に、(1)の下線の「匙さじ」の意味を辞書で調べます。
写真4
(2) 匙 液体やこなをすくいとる小さな 道具。スプーン(1)へ戻る。
下線の部分を辞書でひきます。①圧縮に対し抵抗を示して一定の体積をもつが,ずれに対してはほとんど抵抗しないので一定の形をもたない物質の集合 状態の1つや一つ一つをとり出してみることができないほど小さい 粒の固体の集まりを液状のもの、粉末状のもの、ごく小さいものなどを、手・さじ等で汲(く)み取るちいさな物を作ったり、仕事をはかどらせたりするのに使う 器具 スプーン。 さらに下線の部分を辞書でひきます。②気体や固体に圧力をかけてその体積を小さくすることに対して外からの力に対し負けまいと努めて決まっていて変わらない 立体の嵩(かさ)をもつが、ずれること。ずれた状態・程度。特に、くいちがいに対してはほとんど 抵抗しないので一定の見たり 触ったりして知りうる、物の姿のうち、色を除いたものの一か所に集まった 外面からでもそれとわかる様子の数の名。自然数のはじめ、や一つ一つを中から 取って 外へ 出して 視覚を働かして、ものの存在・形・様子・内容をとらえることの成すことが難しい 小さい まるくて 余り 大きくないものの変形しにくい一定の形・体積を保つもの・・・・。 さらに下線の部分を辞書でひきます。③以下、省略
追記11/15 上記(1)(2)に示した言葉の相関を図にしました。「匙はスプーン。スプーンは匙」の周囲を途中まで適当に図示しました。
見てわかるように、言葉は循環であり全体は孤立系です。ですから人の思考も孤立系の循環です。意識を通し言葉で言える第1の心は、孤立系の循環です。従って自然科学もまた孤立系の循環です。筆者の「量子場は外のない世界」という結論は自明のことです。
写真2が何であるかの答えを第1の心である「意識を通し言葉で言える」かつ「わけることによりわかる」とするならば、(1)の①②③④・・・並びに(2)①②・・・・に示すとおり終わりはありません。何より写真2の意味は霧散してしまいます。(これが気(キ)が病むことの本質です。物という具体から離れて抽象へ向かっています。) 気付くのは、要所で循環があるということです。一番簡単な循環は「匙はスプーン」であり、「スプーンは匙」であるところです。つまり、言葉は互いに規定しあって成り立っているということです。 人は自覚の有無にかかわらず、写真2が何であるかを意識して言葉で発する前に何であるかをわかっているのです。わかる順序は、「第2の心」→「第1の心」です。
人の思考は言葉によります。つまり言葉もそれによる思考も循環なのです。だから、第1の心によるわかり方に終わりはないのです。そして、そのわかり方は過去です。だから、自然科学は循環になっていて、「自然科学が循環である」ことを気付きにくくしているのが物理量ではない時間なのです。ですから、「素なる粒子も素なる時間も素なる領域も素なる物質も素なる重力」も意味はありません。何かわからない物を発見して、それを意識を通し言葉で言える状態(理論化)とすることによって、つまり自然科学に組み込んだ時点で循環に取り込んだのです。
図3 「循環だから孤立系にならざるを得ない」ことの意味がわかる
では、写真2を見たときに人は何がわかるのでしょうか?それが岡潔の指摘した第2の心です。人は写真2を見たら、意識を通さず言葉で言えないが、しかし、その趣の現在が直にわかるのです。
言葉の(発音記号で示される)要素である音素に意味はありません。音素を組み合わせて言葉はできています。つまり、循環です。 まとめます。写真2を見た時の(現在)において、人は第2の心である情の働きにより、その物の趣がわかります。次に、第1の心で(意)識を通し言葉で言える(知にいたる)のです。その時には過ぎ去った後(過去)です。だから、第2の心のあることを知らない著者は「今」に何の意味もないと結論づけたのです。
岡潔は「【3】五感でわかるもの」で次のように述べています。
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。
唯物主義を原始人的無知だと述べています。著者をして「最高にクールな物理学者」だと本の帯に推薦されています。岡潔曰く「この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。」としています。岡潔は言葉も思考も自然科学も循環だと述べていません。たぶん。
数学を含む言葉は、現在を含まないことに気付かねば、一般人には当たり前である「未来はわからない」という常識すらわからないのです。自然科学における数学には、道具として未来を切り拓く力はありません。岡潔が若い頃に「計算も論理もない数学をやってみたい」と話したというのは慧眼というほかありません。数学のできない管理人が言うのもおこがましいですけれども、計算できる数学は結果です。ここら辺りから 2018年3月27日 の「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」に繋がります。第1の心の表れである論理思考は循環だから、第2の心との整合性が崩れるというのが答えのようです。
写真5 出典:覚え書:「今こそ岡潔:数学の本質「論理ではなく情緒」」、『朝日新聞』2016年05月23日(月)付。
人の脳も、脳を模したAIもブラックボックスを要素としています。
図4
要素は図1と基本的に変わらないブラックボックスです。還元主義によりAIは実現できると云うことです。その意味では脳もAIも情報を処理するだけということです。ここに能動性はありません。誰かに命令されたりプログラムされねばなりません。岡潔の云う『私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。』という第1の心は、処理系に過ぎない脳に近いところにあるはずです。脳とAIの違いは第1の心の有無にあります。
さて、物質的自然と第1の心にある循環を回避する術はありません。唯一の方法は、別の次元軸に物や事、並びに心の仕組みと働き(原因)を求めることです。これとて「さしあたりの回避策」というに過ぎません。検討すればするほど、「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」が実感できます。
物理学というと理論や計算があると思いがちですけれど、基礎には「心の仕組みと働き」があります。これを抜いての理論など無意味です。
たぶん情報は過去です。何度か書きましたように、情報とエネルギーの間には密接な関係があります。その実、よくわからないまま来ました。本居宣長の「もののあわれ」を検討する際に、訳に多用された「物や事」に気を惹かれ、どうも情報と「事」の関係に気付きました。著者の本の中に似たような部分がありますので、次回記事にしたいと思います。
追記 人は誰もが、写真2が何であるか”わかる”(第1の心)前に、”わかっている”(第2の心)のです。
単一の記事にするほどのことは無いことです。哲学の定義である「真・善・美」は間違いのようです。真とは偽ではないこと。善とは悪でないこと。美とは醜でないことです。これは循環ですからダメです。それと美しいは、シヰ(生命維持の欲求)ですから、第1の心の内です。これは第2の心に入りません。池田満氏著になるホツマ辞典「ヰクラムワタヲの構成表-1p226」によれば「ココロバは、良心、まごころ(真心)のようなもので、五要素のウツホが深く関与している。」とあります。この辺りが「真」あるいは「善」と関係がありそうです。
追記11/2 空間は「前・後・左・右・上・下」で認識されます。前は後ろではない方です。知ってのとおり方向(角度)も運動Pも相対的です。哲学の定義である「真・善・美」のいずれも相対的です。考えてみればほとんど全ては相対的です。その理由が言葉の成り立ち(循環)にあることに気付きます。で、「物や事」がどういうことなのか、著者の云う「第六章 出来事」のところで書くつもりです。
岡潔は、「【9】幼な児の世界」で「ともかく、生きるということは生き生きすることです。それがどういうことであるか見たければ幼な児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。」と述べています。幼な児の体や脳の機能は低いです。それでも母親や家族に全身をゆだねて生きています。別の言い方では、幼な児は第2の心で「現在」を生きています。西洋人である著者にとって、「今」に生きる幼な児は、「何の意味もない」ということになります。酷い無知です。
追記11/2 著書を少し読み進めるとネットワークと言う語が出てきます。その中に面白い記述がありました。著者は、「世界は物ではなくて出来事にある」とした上で、p123から次のように述べています。
これらの相互作用の力学は確率的だ。他の何かが起きるとしたときに、問題の何かが起きる確率は、原則としてこの理論の方程式で計算できる。
この世界で起きる全ての事柄の完璧な地図、完全な幾何学を描くことは、わたしたちには不可能だ。なぜなら時間の経過を含むそれらの出来事は、常に相互作用によって、その相互作用に関わる物理系との関係においてのみ生じるものだから。この世界は、互いに関連し合う視点の集まりのようなもので、「外側から見た世界」について語ることは無意味なのだ。なぜならこの世界には「外側」がないのだから。
強調は管理人による。岡潔が山崎弁栄上人に言及したことを切っ掛けに岐阜県にある山崎弁栄記念館を訪れたことがあります。山崎弁栄についてネットで調べていて気付いたのが「外のない内」という言葉でした。著者は、管理人が多用する「循環」という後を用いませんけれども相互作用を「ネットワーク」と表現した上で、「この世界には外側がない」と結論づけています。これはまさに「外のない内」のことです。 西洋人もようやくこの段階に辿り着いた感があります。2017年11月6日『宇宙は「 外のない内 」である』を参照ください。
図5
これまでの考察により、「この世界が外のない内」になる必然は「(数学を含む)言葉は循環である」ところから来ていることがわかっています。そして、人は言葉で思考しますから、思考も循環です。実は、2019年10月10日「自然と 物質的自然 の違い 自然科学の問題点」の続きとして次図(案)を作っていました。
図6 心の仕組みと働きを別の次元軸に求める図案
「物」である原子は3つの基本粒子(陽子・中性子・電子)でできており、互いに規定(回転運動)しあって成り立っています。それ(物)は循環です。そして、物でできてる人を含めて「人と人、人と物、物と物、」の関係が「事」です。すべては互いに関係し合う「事」なのです。これはネットワークです。案である図6に示したネットワークが言葉と思考(第1の心)で取り入れた物と事を表しています。スクリーン、即ち、空間とは思考である循環に取り入れた部分のことで、これが「外のない内」である訳です。実験・観測で取り入れた五感でわかる何かを知的に言い表せた段階では、既にネットワーク(外のない内)に取り込んだということです。この世界に外枠としてのスクリーンなどありません。第1の心で取り込んだ物や事はすべて「外のない内」です。大事なのは、世界が(物)を起点として具体から抽象へ向かっているということです。第1の心が捉える世界と第2の心が持つ(映像を具体と捉える)働きとの間に乖離があります。危険です。
図7 世界の「物や事」は具体から抽象へ向かっている プロパガンダも入るよ
図6はまだ案の段階ですから、この図を元に物や事、人の心の仕組みと働きを別の次元軸(E軸)に求める図と説明を別途作成中です。西洋人も岡潔が指摘して以来、ようやく「映像」だと気付く段階に来たようです。しかしまだ、「神は細部に宿らない」ことがわかっていません。量子場などに本質はありません。ほとんど読まれることのない当ブログですが、研究を出し続けてきた甲斐があります。
追記11/5 著者が『この世界は、互いに関連し合う視点の集まりのようなもので、「外側から見た世界」について語ることは無意味なのだ。なぜならこの世界には「外側」がないのだから。』と結論づけるにいたる根拠とする部分がありました。以下にp99より引用します。
かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。
この文章の後、世界の出来事を”ネットワーク”という言葉で説明しています。下線を付した”言語規範”をネットで調べましたがよくわかりませんでした。管理人も初めて見た言葉です。著者は、(物の元となる)量子場を使って(物の)相互作用や出来事を記述することは、言語規範に過ぎないと云っています。言語規範の意味がわかりませんが、管理人が「言葉は意味のない”音素”を組み合わせてできており、循環だ」というのを四字熟語である”言語規範”と述べているようです。 「量子場」と「相互作用や出来事」を「音素と言葉」に対応させると意味が通じます。音素も「量子場」も単独では無意味であるが、単独で意味のない量子場を組み合わせて表す「相互作用や出来事」は循環(あるいはネットワーク)として意味があるという訳です。だから、「(量子場から生じた物やそれに伴う相互作用に)外側がない」と結論したようです。
管理人も本居宣長による「もののあわれ」を調べる中で、次第に「物や事」という言葉を多用するようになりました。これは著者の云う「出来事」です。著者は、あらゆる理論で物理世界を記述しても「物」で構成されているとは思えないとしています。完全に同意です。これまでの考察によれば「物」に意味はありません。物は状態を変化させるだけです。状態を変化させる基本粒子が互いに規定しあって成り立っているということです。
図8
電子のみの世界では何も起こりません。「在る」ことの意味さえありません。
著者は、「”時間”は物理量ではないのではないか」と疑問を抱いているらしい部分があります。本音が”思わず出てしまったのか”どうかわかりませんけれどかなりきわどいです。これを云っては物理学者としての立場がなくなるのですけども。どうも1960年代頃より、時間変数を含まないで記述する努力がなされてきたようです。最後に残る疑問は次のようです。p118から。
「時間を説明するには?存在を説明しなくては。存在を説明するには?時間を説明しなくては。そして、時間と存在の間に潜む深い関係を明らかにすることは・・・・・、今後の世代の仕事である」
図3に示した「運動→時間→運動・・・・」という循環でしかありません。著者も「ネットワーク」という概念を持ち込んでいます。時間は量ではありません。「今後の世代の仕事」として考えるべきは、「別の次元軸からの投影による映像」だというのが管理人からの提案です。こうして考えると相対性理論の元になる「光速度不変の原理」は罪です。その前にある電磁気学成立過程で生み出されたベクトル表記に原因があります。さらにその前に、電磁気現象にある不都合を消そうとしたことが大本の原因だとわかります。加速度には2種類在ります。「回す」と「回る」は異なります。
図9
追記11/14 岡潔の述べた言葉と著者が述べたことは、完全に一致します。対比させます。
- 岡潔は、自然科学者が対象としている自然を物質的自然と呼びました。第1の心について、「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」
- 著者は、「量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範と同じだ」と述べて、だから量子場は、「外のない世界」であると述べています。
西洋人は、心の2つあることを知りませんから、第1とか第2とかを意識することはありませんし、この「わかり方」が心に関係することもわかっていません。これまでにわかるとおり、言葉は互いに規定しあって成り立つ循環(ネットワーク)です。だから、孤立系です。人は言葉により思考しますので、第1の心は孤立系だということです。だから、自然科学者が対象としている物質的自然は、自ずと孤立系になり、「それより外へは決して出てない・外のない世界」なのです。
著者は、量子場が言語規範と同じだとわかっていると述べています。その点は、管理人と同じ結論です。岡潔の1.も著者の2.も同じ事を述べています。
では、量子場が作る「物や事(出来事)」とその基礎にある2つの心との関係を見てみます。
図10
基礎には第2の心があります。(薄緑の部分)その上に第1の心があります。そのまた上に人の脳があります。脳は著者が言うところの量子場から出来上がった「物」です。第2の心は、ネットワーク系の外を含むすべてを満たしている開放系です。その上に孤立系である第1の心があります。さらにその上に脳という処理系があります。脳にも人工知能にも「わかる」の機能はありません。その点は両者は同じです。
人の脳は、生理的な電気信号として(記憶・情報を)処理しています。脳を模して作られた人工知能は、半導体上に作られており電気信号として(情報を)処理しています。 脳も人工知能のどちらにも、能動性(生命維持の欲求、目的意識)どころか認識も知能もありません。記憶あるいは情報を処理するだけです。処理系には、岡潔の言うところの「笑いカワセミのようにうるさい」能動性は微塵もありません。図10と次図を比較してください。処理系はいずれもブラックボックスで構成されています。
図4 再掲
処理系は、還元主義により実現可能ということです。
図10の現在と過去についてです。人が持つ「わかり方」の最初は、第2の心にあります。写真2を見て、まず「意識を通さず言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきがわかる」のです。これが現在です。その次に、第1の心により、「わけることによりわかる」のであって、それを処理系に渡されて「意識を通し言葉で言える」状態になります。このとき既に過去です。つまり、記憶が関係します。
2つの心を時(とき)の流れに表すと次になります。
図11
岡潔は第2の心を情の働きによるとしました。情により物の現在の趣きがわかるのです。これが「静止画がわかる」です。第1の心は、不連続な現在の記憶により処理系を通して動画がわかるのです。これは既に過去です。
著者の云うところによれば、プランクの時間(10-44秒)が最小単位らしいので、観測技術の発達によりプランクの時間を計測して数値化したとしても、その値は過去です。心の2つあることを知らねば現在に意味はないとの結論にならざる得ないのはわかります。しかし、過去は、現在の積み重ねであることの事実は覆りません。現在に意味が無いならば、絶対時ゼロであったビッグバンに何の意味もありません。
管理人は、人の言葉(数学を含む)と人の思考が現在を含まないとわかったとき、自然科学とくに物理学は決定論ではないと気付いたときが衝撃でした。(時間は現在を含みません。従って自然科学において、t=0は無意味なのです。だから現代物理も古典物理も決定論にはなり得ません。この点において、著者の得た結論と同じです。w) 著者は心の2つあることを知らなかったが故に気付けなかったのです。サイト内を「決定論」で検索し参照ください。
図10と図11をまとめた図が次です。
図12
「物」や「事(出来事)」がわかり、時の現在と過去がわかる仕組みと働きがあるから「意識を通し言葉で言える」思考があり得るのだと考えます。この心の仕組みと働きは、物質的自然(M軸)にあるとは思えません。何故なら心の仕組みは、孤立系では捉えられないからです。
ここで岡潔をして間違いを犯したことがわかります。物や事は「情により、何となくその趣がわかる」のだとしながら、人の心の仕組みと働きを「還元主義:わけることによりわかる」に求めました。第1の心により、第2の心の仕組みを理解しようとしたのです。「【9】 形式の世界」には、仏教が人の心を層に分かっていることを説明しています。第1識~第9識などとあるようです。このような形式は循環になります。循環は何も説明し得ないことは明らかです。さしあたっては、別の次元軸にそのような仕組みと働きがあるとせねば循環を回避できないのです。
今年の8月末に高知市で開催された岡潔思想研究会夏期合宿に参加して、岡潔が最晩年に推敲していたのは第12識や第13識だったとの話をお聞きしました。その時、心の形式という考え方が間違っていることに気付きました。とても残念なことでした。
管理人は予かねてより、仏教は手垢にまみれていると考えておりました。あまりにも多くの人手を渡ってきたために余計なものが混じっています。まともに取り組んでもダメということです。何度か「二河白道(にがびゃくどう)の喩え」を参考に記事を書きました。
図13 出典:上記
その際も、例え話しのこと自体はどうでもよくて、「六識、六根、六塵、五蘊、四大」が肝要だと考えてきました。例えば二河白道において、仏教の形式である第6識や第7識にある人より第8識や第9識にある人の方が、白い道の幅が広くて渡りやすいと云っているのと同じです。そのような例えに意味はありません。それどころか「阿弥陀の召喚」自体が二元論あるいはグノーシス主義の臭いがします。(失われたミカドの秘紋)はかなり怪しいけれども参考になります。当サイト内、「二項対立」で検索ください。
インターネットが普及した情報化社会である現代において、誰でも静止画・動画はわかります。極限まで、「わけた」結果が静止画と動画の元(画素)であったと「わかる」ことはいとも簡単です。だから、静止画・動画の画素(量子場)に元となるものは何もないことは明白です。
コンピューターは、HDDに(テキスト・静止画・動画・プログラム)の何が入っているのかをまったくわかっていません。コンピューターは二値データを処理しているだけです。
図14
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