前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。
写真1
数学者岡潔による「自然科学は間違っている」から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。
かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?
じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、
- 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。
前回までに指摘したように、著者は知らないようです。
- 時間は計るものではなくて、時間は作るもの。
- 時には「現在、過去、未来」があって、時間は、人が「時の過去」に持つ観念である。時と時間を混同している。
- 著者は、人が「猫」を見て「猫である」と何故「わかる」のかわかっていない。
1.について、時間は作るものであって、計るものではありません。(日本標準時をつくる) 著者は、どうも観念的な時間の存在は否定しているようですが、物理量としての時間は肯定しているようです。量としての時間は「計るもの」との認識のようです。これまでの管理人による考察では、時間とは次です。
時間とは、人の五感でわかる物の過ぎ行く運動の記憶に抱く意識である。
人の五感でわかる物の運動から時間をつくります。具体的には角度からつくります。だから、時間は10進数による12の倍数なのです。角度は量ではありません。だから、量としての 時間は存在しない し、人が持つ観念に過ぎません。人が持つ時間の観念は、五感でわかる運動の範囲に限られます。
表1
2.について、英語では「時」も「時間」も”time”です。
図1
例えプランクの時間である10-44秒を計って数値化しても、その値は”過去”でして、現在を含みません。著者の結論である「現在に何の意味もない」は、3.に関係します。
3.について。前回までの記事をお読みの方はおわかりでしょう。
写真1 息子家で飼っている猫。耳に特徴。
写真1が何であるかは、「意識を通し言葉で”猫”」と考えるより前に、写真1が何であるかを万人がわかっているのです。 著者は本の中で「量子場は言語規範と同じ」だと認め、量子場が「外のない世界」だと認識しています。管理人の読みにおいて、言語規範が「言葉は、互いに規定しあって成り立っている。」という意味と同じだとすると、言語規範は循環であり孤立系です。「意識を通し言葉で”猫”」とわかるのは過ぎてからです。猫とわかるのは現在を含みません。著者の云うとおり「今には何の意味もない」というのと整合がとれています。でも、そんな訳ありません。
人は言葉により思考します。従って人の思考は循環であり孤立系です。だから、数学を含む言葉で書き下した量子場理論も孤立系かつ循環になるのです。で、その量子場から出てくる基本的な素材に猫は含まれていません。当たり前です。著者は、「人が物や事をわかる」という仕組みについて考えたことがないからです。とんでもない無知です。
数学者岡潔は、次の2点を否定しています。(あくまで管理人が考察した結果をまとめた結果です。)
- 西洋人は、五感でわからないものは無いとしか思えない。これを唯物主義という。これを最初から見直す段階に来ている。
- 「わかる」というと理解とか物の理ことわりと云うが、全然、理解じゃない。要素還元主義。「わかる」の語源である「わけることによりわかる」とする。
量子場が人の五感でわかるというのは傲慢です。還元主義だから、追い求める究極の要素に宇宙の全ての情報が詰まっていると思って探求してきたようです。だから、還元主義に基づき、要素の元である量子場に全てが詰まっているならば、猫もそこにあるはずです。少なくとも猫の情報は含まれているはずです。でも無い。岡潔は、「西洋人は第1の心のあることしか知らない」と云いました。第2の心があることを知らないのだから何ともしようがありません。「【1】 人には心が二つある」を参照ください。
自らの思考も、そこから生み出される如何なる理論も思想も哲学も何もかもの一切が循環であり、孤立系であり、その内に理解されるのは極めて限定されたものです。やっとの思いで捉えた宇宙の姿も孤立系で循環でしかあり得ません。すべての原因は無いです。これを回避するには別の次元軸を考えるしかありません。岡潔が述べた「2つの心」のいずれも別の次元軸にあって、そこへのコネクタが側頭葉、前頭葉、頭頂葉であると考えます。脳は情報(記憶:言葉、記号言語)を処理するだけです。認識も判断も第1の心が下し、本当の「わかる」は第2の心にあります。そうとしか思えません。
管理人は、岡潔の言葉を考察し2018年に自然科学が循環であると気付きました。
図2
著者は同じような過程を経て「量子場は外のない世界」だとしています。違いは上記の通りです。そのうえで、著者は「基本的な量子事象とスピンのネットワーク(p122~)」と述べています。循環→ネットワークという思考だろうと読みました。
管理人は以前から悩んできました。弧理論では、その仕組みの上ですべてが「動かす」ではなくて「動かざるを得ない」、「回す」ではなくて「回る」だということです。これをどのように説明すればわかってもらえるのかという悩みです。
対する著者は、「語法がうまく合っていない」としてかなりのページをさいています。時と時間の区別がついていないのも混乱の原因ですけれど、「時間変数をまったく含まずに量子重力を記述する方程式がはじめて書かれた」が「ありとあらゆる事柄が起きているのに、時間変数は存在しない」のです。
この辺りの文章を適切に短くまとめることができませんでした。早い話が「すべての物の起源であるミクロの場を記述した理論は、マクロな出来事と折り合いが付かない。」、「物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかない。」という意を述べています。
この本の進行を読むと実に歯がゆいです。最初にあったボタンの掛け違いが百数十年ほども経ってこういう形で現れてきていると感じます。「ウ(渦:物質)より人を生じさせる」です。加速度には2種類あります。「回す」による加速度は遠心力です。「回る」による加速度は重力です。どちらも加速度に違いはありません。だから遠心力と重力は釣り合うのです。似てるが違います。(これをループ量子重力理論で説明できるのでしょうか?)
本当に書きたかったことは次です。
人の五感でわかる「物や事」について。物と物の関係が「事」です。(物には運動があります。)事には階層があります。物と物の関係を事※1とします。物と事※1もありますでしょう。さらに事※1と事※1にかかる事があるでしょう。これを事※2とします。さらに事※2と事※2の関係を事※3とします。
追記11/18 上記の物と事との関係を図にします。複雑な事ほど抽象化します。
GOLD(金)は物です。通貨である紙幣や貨幣は物です。しかし、お金は事※1です。ニクソン・ショック以後、お金は金から切り離されたからです。会社は無形です。これは事※1と云ってよいでしょう。会社の登記が裏付けです。ある会社の株の値がいくらかというというのは事※2です。株もお金も事※1だからです。 サブプライムローンというのがあります。優良客(プライム層)より下位の層向けとして位置づけされるローンです。これは事※3といってよいでしょう。このサブプライムローンを証券化されて世界各国の投資家へ販売されました。リスクを分散?したようなものと捉えて良いのでしょうか?逆に権利義務関係を曖昧にしただけでしょうか?投資家たちが買ったこの債権は事※4としてよいでしょう。誰にもわからない結末がリーマン・ショックです。リーマンショックは事※5です。事※3、事※4などは世に氾濫しているでしょう。
お気づきのように、物と事(出来事)の内、事には階層があります。層が上がるに従って具体である物から離れて抽象化します。そして、誰にもわからなくなってしまいます。これは還元主義(わけることによりわかる)と思い込んでいる人たちの根源的な過ちです。
岡潔が何としても阻止しようとしたのは、この流れだったと確信します。如何に高度な数学に裏打ちされた緻密で精密な理論も高尚な思想も哲学もそれほど必要ではないような気がします。岡潔が現代の教育のあり方を批判しているのはこの点です。
図3 注「人文科学、社会科学、自然科学」の社会科学とはまったく異なる。
数学の難問に挑むと心を病むのはこの理由によると考えます。脳の処理系が余りに抽象化する事によって、第2の心との乖離により病むのです。 2018年3月27日「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」が参考になります。この頃はまだ、社会全体が「物である具体から離れて抽象へ向かっている」とわかっていませんでした。
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