研究対象とは別の位置に自身を置いて論ずることは間違っていると、かなり前に指摘しました。そういう研究は、自身を”神”の位置に置くのと同じだということです。自然科学、特に物理学に違和感を持っていたのはこの点でした。
先般より考察の参考にしている 「 時間は存在しない(カルロ・ロヴェッリ著」(以下、著者という。)から気になる部分を引用して説明します。
第九章「時とは無知なり」p130からです。
かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?
じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、
- 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。
著者のこの書き方だと「猫は複雑なもの」だから基本原理に含まれないとでもいいたいように読めます。それとも基本原理に含まれないから存在しないというのでしょうか。全く違います。
数学者岡潔は次のように述べています。
- 人の心は2つある。
- 第1の心のわかり方は「意識を通し、言葉で言える」。
- 第2の心のわかり方は「意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきがわかる」。
2.に示す第1の心は、「わけることによりわかる」とする還元主義のことです。理解とか物の理ことわりといいます。「わかる」の語源は「わける」です。つまり、意識して言葉で言える物をわけることによりわかるはずだという主義、考え方です。
著者は理論物理学者です。わけることによりわかるはずだとして、物を細分化して行きました。200年以上かかって物理学者は 量子場理論 に辿り着きました。著者は「量子場は言語規範と同じであることがわかっている。」と述べています。 言語規範とは、言葉の規則・基準という意味です。
- 規範 「単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。」
言語学者は、言葉・言語をわけることにより、音素に辿り着きました。音素とは人が聞き分けられる言葉の最小単位です。音素に意味はありません。音素を組み合わせることによって言葉はできます。意味のない音素を互いに規定しあうことにより言葉・言語が出来上がっています。意味を与えています。
これはネットワークであり、循環です。
図1
いわば言葉は、「外のない内」であり孤立系です。
図2
人の思考、つまり「意識を通し、言葉で言える」第1の心は、循環であり孤立系であるということです。 人の思考もまた孤立系なのです。
孤立系である第1の心により「物」をわけることにより、物の最小単位を求め続けた理論物理学者である著者は、遂に(音素ならぬ)物素に辿り着いたのです。それが量子場です。ですから音素と同じく量子場に意味はありません。
著者は「猫は基本的な素材にない複雑なもの」と述べています。著者は岡潔が云った第2の心を知らないのです。猫は複雑だから存在しないというのでしょうか。
写真1
それとも、簡単であれば存在するとでも考えているのでしょうか。
写真2
数十個の単位(ブロック)でできている猫は存在するというのでしょうか。違います。写真1も写真2の中央にあるものも人は、猫だとわかるのです。それはわけるからわかるのではありません。意識を通し言葉で言えるようになる前に、それが何であるかを何となくわかるのです。でなければ(循環であり孤立系である)言葉で言える訳がないのです。それが第2の心の働きによるのです。でなければ、月も太陽も犬も人もいません。 (注:数学を含む。数学の素なる数(数素)もまた意味はありません。岡潔は「自然数の1は決してわからない」と述べています。同じです。【6】 数学の使えない世界を参照ください。)
「時とは無知なり」ではなくて、著者が無知なのです。
著者は誤解しています。時は現在・過去・未来からなります。著者が用いる「時」とは、この場合「時間」を意味します。これまでの考察により時間は、時の現在と未来を含みません。それがプランクの時間(10-44秒)でもです。
図3
状態(ア)において、本当にわかるのは第2の心です。岡潔によれば、情じょうの働きにより写真1が何であるかを、意識を通さずとも言葉で言えずともわかるのです。それが現在(静止画がわかる)です。それ以降が「知」の領域です。知は現在と過去を橋渡ししています。「知」とは記憶であり情報です。それは過去です。それから「意」が働きます。そこから初めて「あぁ猫がいる。」とわかるのです。 ついでながら、過去記事にしたように本居宣長の「もののあはれ」は、(動画がわかる)という意味です。それには記憶が必要です。物の動きがわかるのは、過去の記憶(知)によります。
表題のごとく、自身(現在)を含まない 量子場理論 は間違っています。
心の仕組みと働きを抜きにして物質科学は成立しません。
著者は時間変数を含まずに 量子場理論 を作ったと云います。しかし、時間を光速度cに置きかえただけです。光速度cがわかる為には、その前に時間がわかる必要があります。時間は物体の運動からつくります。最初、人類は物体の運動にかかる角度から時間をつくりました。だから時間は10進数による12の倍数なのです。角度は量ではありません。だから時間は物理量ではありません。
著者の理論は、2018年にわかった「自然科学は循環である」という範囲から一歩も出ていません。
図4
自然科学が循環であり孤立系なのは、人が持つ第1の心が循環で孤立系だから当然のことなのですが、対して第2の心は開放系である(らしい)ことがわかります。第1の心のネットワーク以外です。するとこれら(孤立系、循環である自身)を含む理論を構築するには別の次元軸を考える他無いことに気(キ)付きます。 岡潔が山崎弁栄上人の言葉を引いて述べたように「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」と完全に合致します。【3】 西洋の唯物主義を参照ください。
因みにビッグバン理論というのは胡散臭いのですけれど、理論にt=0を代入しても意味はないはずです。著者が気付くべきは、「現在に意味は無い」ではなくて、「理論は決定論ではない」なのです。過去記事にあるように古典物理も量子力学を基礎とする現代物理学も決定論にはなり得ません。管理人自身、3年ほど前まで古典力学は決定論だと信じていました。当たり前のこと、未来はわかりません。
追加です。著者は自然において「(あらゆる物や事が)生じる不思議」を強調しています。この点について。弧理論ではもっと積極的です。 元の定義(ヲシテ文献によるカミ)は次です。
「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。
なんとなく生じるなどというものではありません。「生じさせる」のが自然なのです。その仕組みと働きを別の次元軸に求めようというのが弧理論です。過去記事を「カミ」で検索、参照ください。 これまでの考察によれば究極、「回す」と「回る」の違いに行き着きます。回る仕組みがすべてを生じさせています。自然科学の考え方では、すべてを回さねば成り立たないのです。本当は「回る」のです。加速度には2種類あります。数学的には区別がありませんので、物理学者には「生じる」という観点しかありません。宇宙において静止は、例外中の例外です。
追記1/15 著者の言葉を真似るならば、『人は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。』と云えます。人も車も男も女も何も存在しない。何もわからないままです。 自身を含まない理論が”統一理論”にほど遠いと気付かねばと感じます。
2018年の前半に「自然科学は循環である」とわかり、2019年には「人の思考もまた循環である※1」とわかりました。管理人の人生における最大と云ってもよいほどの研究成果です。この手の話しについて、いくらでも記事に書けますが、これまでにおおよそ網羅していますので、似た記事になります。
※1 思考とは、岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える心)です。言葉が互いに規定しあって成り立っているのですから、思考もまた循環であり孤立系です。著者の云う「言語規範」です。循環であり孤立系であり、ネットワークに過ぎない言葉では何もわかりません。猫も人も。 循環である(数学)言語で記述された量子場もおなじです。それが量子場でも、素粒子でも、基本粒子でも同じです。互いに規定しあって成り立っているのです。では、なぜ人は猫や人であるとわかるのか?それが岡潔の云った第2の心です。意識を通さず、言葉で言えなくとも何となく猫は猫の、人は人の趣おもむきがわかるのです。第2の心がなければ、猫も人も存在しません。このように考察を続けると自然は映像だと考えざるを得なくなります。別の次元軸を考えざるを得ません。
理論物理学者に聞きたいのは、「ブロックでできた”簡単な猫”ならばどうなの?」ということです。
写真2
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