ある人から云われました。「岡潔って、何か宗教っぽい。」 それには理由があります。
数学者岡潔は、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。
自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。
続いて、【4】自然科学と生命現象より。
ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。
自然科学者は、自然について考える際にそれを「 時間・空間 」としました。簡単な模型であって、自然そのものではありません。
自然科学者は、「自然>( 時間・空間 )」であることに気付いていません。だから、理由が付かない、わからないことは全部どこかへ押しやって「非科学的」として済ましています。詳しくすれば次になります。 「わけることによりわかる:還元主義」に当てはまらないもののすべては「彼らの考える科学の外」として思考停止するのです。
岡潔が拘った”情”というものを考察する立場について、自然科学から見れば非科学でしかないのです。次図は2016年11月ころに出しました。
図1
右上の欄がほぼ空白です。この空白部分に自然科学で扱えない非科学のすべてを押しやっています。この部分にはいわゆるオカルトや宗教あるいはスピリチュアル系などのトンデモやUFOやフリーエネルギーなども含まれています。ほとんどの人は、岡潔が何を伝えたかったのかがわからないのです。自然=自然科学の模型( 時間・空間 )だと認識している限りは、問題の存在すら気づけません。岡潔の指摘したとおり、「人は故障がなかったらなぜ見えるのか?」といった質問に自然科学は何も答えられません。
管理人も「自然とは何か」という疑問を持っています。岡潔も読むほどに「自然とは何か」と云わずに話しを進めていることに気付きます。「わからないこと」のすべてを自然に含めるならば、自然とは何かを定義することは不可能に思えます。 10件ほど前の記事から読んでいただければわかるとおり、「言語規範と量子場は同じ」であるならば、自然科学は「循環(ネットワーク)であり、孤立系(外のない内)」であるというのは自明のことです。ならば、自然をネットワークとしか感じられないのならば、岡潔の伝えたかった事などわかりようがありません。心は2つあるのです。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。