自然科学は何も説明しない。 現代宇宙論 は破綻 している。

2018年に自然科学は循環であるとわかりました。

図1

自然科学の時間空間というモデルは、初めに「空間があり、物質がある。時間の経過により運動する。」というものです。量ではない角度から作る時間は物理量ではありません物理量ではない時間を変数に持ち循環である自然科学は何も説明しない事は明白です。

時間・空間→物質→運動→時間→光速度(相対性理論)→時空→物質→運動→時間→・・・・

 

ここで、現代宇宙論について考えます。これまでビッグバン宇宙論には矛盾があると書いてきました。加速度的に宇宙が膨張しているから、時間を遡ればビッグバンに至ると考えたようですけれども、遠くがより速く遠ざかる様子に偏りがありません。多少揺らぎはあります。それだと、ビッグバンの中心は地球だと云うことになります。どう考えても変です。地球が宇宙の中心だというのは、かつて聞いた言葉です。サイト内を「ビッグバン」で検索ください。10件出ます。

 

昨年末に続けて記事にしたカルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」には、「現在に意味は無い」とあります。

写真1

著者は、論理的に「時間は時の過去である」ことを導いています。 しかし、結論はまったく逆です。 時の現在は第2の心のみです。ここに意味があります。第1の心は時の過去です。

第1の心のわかり方は、「意識を通し、言葉で言える」というものですし、時の過去です。

2019年に「言葉は互いに規定し合うことにより成り立っている」とわかりました。

写真2

これは何かというのを辞書で引きます。これをまとめたものが次図です。

図2

写真2は、スプーンですし、スプーンは洋風の匙です。匙とスプーンは互いに規定し合うことによります。つまり、人は、写真2が何であるかを”意識を通し言葉で言える”ことでわかっているのではないということです。

これが、岡潔の云うところの“第2の心”です。そのわかり方は、「意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきがわかる」というものです。これが時の現在です。第2の心がなければ何もわかりはしないのです。

 

ここで現代宇宙論に話を戻します。テレビで「神の数式」なる番組がありました。

写真3 出典:『解説:NHKスペシャル「神の数式」第1回:この世は何からできているのか

仮に宇宙論に写真3の数式を使っていたとします。その場合、宇宙の初期として(t=0)を代入したならば、破綻します。

図3 無限小の渦に何の意味を見いだすか? 素なる領域と時間に”猫”は居ない。

自然科学は、量ではない時間を変数に持つ循環だからです。それは、あたかも1÷0を計算するに似ています。はっきりしませんけれど、思考停止する状態しか得られないと思われます。自然科学は何も説明しないのです。 現代宇宙論は破綻 しています。

 

情報(記憶、記録)は時の現在を含みません。言い換えると数学を含むいかなる理論も思想も哲学も、とにかく”意識を通し言葉で言える”すべては、時の過去です。 だから、量ではない時間を含んだ循環の内に計算あるいは思考しても答えは出ません。そもそも人の思考は脳の記憶に依存します。第1の心の表れである思考は循環です。

宇宙は映像であり、その仕組みを別の次元軸に求めるという手法をとる以外にないというのが管理人の結論です。これだと、思考の循環を当面の間、回避できます。

図4 宇宙は何処にあるというのか?

 

余談です。 第1の心の表れである思考は循環ですから、数学に「繰り返し、級数、振動、共振、うなり」が存在するのは頷けます。さらに、再帰が加わりますとフラクタルやマンデルブロー集合が出てきます。

図5 出展:フラクタル

自然の中にフラクタルなものを観るのは、人が持つ第1の心の現れである可能性があります。自然を前もって規定することはできません。第1の心が循環であり「外のない内」だからです。前もって規定できない自然の内に、人が持つ第1の心にかなう部分を取り入れるのですから自然にフラクタルなものを観るのだと考えると合理的です。自然と人は、鶏と卵の関係にありそうです。生物に2つの心がなければAIとかわりません。

ヲシテ文献と比較するとわかりやすいです。

ヒト = タマ   + シヰ   + 物質(ウズ:渦) (タマは大宇宙の中心から来る)

人間 = 第2の心 + 第1の心 + 脳(記憶と演算) (第2の心は”情”であり、大宇宙の中心にある)

脳は記憶ならびに、五感による外界とのインターフェイスと演算を担います。これはAIと同じです。相手をブラックボックスと考える還元主義により実現できます。還元主義により脳を模したのがAIです。 ただし、AIには第1の心、つまり、シヰが持つ生命維持の欲求がありません。以前、某大学のT教授が「2040年にはロボットが人を襲う」と述べていました。AIを備えたロボットにそのような働きはありません。もし将来、ロボットが人を襲ったならば、必ずロボットの背後にプログラミングもしくは学習させた人間が居ます。

 

さらに余談です。 数学者岡潔は「自然数の1は、決してわからない。」と述べました。2進数について考えると「1とはゼロでない数」で、「ゼロとは1でない数」です。そして、「数とは量のかげ」でした。(n進数でも同じです。) つまり、岡潔は、第1の心が循環だと気づいていたかも知れないと考えました。ですから、岡潔は晩年、数学への情熱を失っていたかもと記した記憶があります。

しかし、昨年の夏に、岡潔思想研究会の夏期合宿に参加した際に、晩年の岡潔は唯識論に従って、心の仕組みと働きを還元主義にて解き明かそうとしていたらしいとわかりました。これは自己矛盾です。

人が持つ「わかる」の本質は、「わけることによりわかっているのではない」といいながら、心の仕組みと働きをわけることによりわかろうとしたのです。悲しいことですが、仕方ありません。第1の心をわけても何も得るものはありません。循環(外のない内、孤立系、ネットワーク)だからです。

 

さらに、さらに余談です。 人の脳の働きは、第1の心(シヰ)によります。思考は循環です。ですから、脳が持つ病みである統合失調も、頭痛も耳鳴りもすべて循環の内だという気がします。 もちろん、よい点があります。「好きこそものの上手なれ」です。芸術家やスポーツ選手の能力は「繰り返し練習する」ことにより現れます。 管理人の場合は、「わからないものに関心を集め続ける」という点にあります。結果、「聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く」に至ることがあります。これは好きだからできることです。このことは、ヲシテ文献でいうところの、「トのヲシテ」に同じだと思います。

「わからないものに関心を集め続け、情的にわかる。これを知的に言い表す」というのは、「トのヲシテ」そのものです。ただ、現代の教育では”何がわからない”のかもわからないです。あらかじめ、答えがあるとわかっている問題を「いかに素早く答えを出すか」の競争ですから、そのような態度が身につく訳ありません。世の中、ゼロか100ということはほとんどないのは周知のことです。電磁気学の成立過程にさえ怪しいことがあったのに、教科書なんて疑ってかからねば。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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