時間 とは何かについて、これまで散々考えてきましたが、まだ気づくことがありました。前回記事にて、ご紹介した動画の内容について、解説します。
動画1
人の五感でわかるのは、「物と事」です。最初に「事」について気になりだしたのは、本居宣長の云う「もののあわれ」からです。(本居宣長研究ノート「輪間と心とは」本論第九回「もののあはれ」の巻)
ホツマ事典p226によれば、タマの「隋心」としてミヤビ(ナサケヱダ、アワレヱダ)があります。岡潔の云う「情」は、ナサケヱダであり、本居宣長の”もののあわれ”がアワレヱダに対応すると感じました。ナサケヱダは、時の現在(静止画がわかる)であり、アワレヱダが時の過去(動画がわかる)だと判断しました。ホツマ事典にあるように、ミヤビは記憶が関係します。情報を記憶するには、わずかばかりのエネルギーが必要です。タマとシヰには、記憶の仕組みがありませんので、身体か必要だということです。
それらの仕分けを整理すると次になります。
図1
- 物質も運動P(エネルギー)も一つの実体の異なる面。
- 物も事も一つの実体の異なる面。
- 時の現在も過去も一つの実体の異なる面。
- ナサケヱダもアワレヱダも一つの実体の異なる面。
- 静止画も動画も一つの実体の異なる面。
人の五感でわかるのは、物と事です。そのわかり方は、物は量がわかり、事は質がわかるのです。ですから、事は時の過去であり、事の質です。岡潔は「数は量のかげ」と云いましたが、同時に、「数は質のかげ」でもあるのです。正確に言えば、「数は事の質のかげ」なのです。 運動Pには質が対応するということです。
これまで 時間 とは、人が過ぎゆく運動に抱く意識であるとしました。 時間 は時の過去の観念に過ぎないのですが、同時に「時間は運動Pの質を数とした事」だったのです。
これが、岡潔が「数は量のかげ」と云いながら、「 時間 という計量的なものはない。」と云ったことの意味がわからなかった理由です。ここまでモヤモヤ感がはれなかった訳がわかりました。でも、なぜ、岡潔は「数は質のかげ」と云わなかったのかは不明です。岡潔はいろいろと端折りすぎます。
写真1
今年の初め頃より度々、引用するカルロ・ロヴェッリによる著書「時間は存在しない」において、著者は次のように述べています。p99より。
かりにこの世界が物で出来ているとしたら、それはどのようなものなのか。原子なのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。
ポイントは2つです。
- 量子場は言語規範に過ぎない。
- 物理世界が物で構成されているとは思えない。
1.は既に記事にしました。2.について、著者の疑問が「事」にあると(恐らくは半分)気づいています。別の箇所にあります。p131第九章「時とは無知なり」より。
この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でただ「生じる」にすぎないものはたくさんある。
著者は、なぜか「生じる」ものはたくさんあるとして、例を次々と挙げています。物理世界は物ではなくて、出来事であると。
ただ、著者は、人には心が2つあることを知りません。だから、著者が例に挙げた「猫は存在しない」という著者の疑問は晴れないままです。
面白いことに、著者の思考はエントロピーへと向かっています。第十一章「特殊性から生じるもの」「エネルギーではなくエントロピーがこの世界を動かす」にあります。さらに別の著書「すごい物理学講義」の第4部第12章「情報--熱、時間、関係の網」に動画で取り上げたボルツマンの公式(S=k logW)が取り上げられています。
結局の所、情報は人の五感でわかる事の質であって、情報エントロピーも熱力学のエントロピーも運動Pの一形態だと気づいていないのだろうと思われます。それらのいずれも人の五感でわかる事に過ぎません。
著者を含める自然科学者が(彼らが考える)自然(時間・空間)というものを数式で表すとき、入れ子になっていることをどう思っているのでしょうか? 自然の一部に過ぎない人が自然を表現しようとして表した数式は、当たり前ながら自然の一部です。ここで、彼らの思考は自然の外に置いている訳です。これは矛盾で、傲慢だと感じます。当サイトで何度でも指摘しているシヰ(第1の心)は、循環でネットワークであり、外のない内です。超えることなど、はなからあり得ません。著者は、言語規範だと気づいているのに入れ子に気づかないのは不思議です。それを回避するには別の次元軸からの投影による映像だと解釈する以外にこれを(当面の間)回避する方法を思いつきません。
量ではない時間を用いずに、かつ「物と事」を区別する科学を別の次元軸からの投影による映像として構築するしかないと確信します。
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