2020年を締めくくるには早いのですが、今年は2つの 発見 がありました。ついでなので、2010年に研究を始めてからここまでに気づいたことや発見をあげます。
- 発散トーラス・・・・井出治氏による第3起電力仮説を別の次元軸上にある実体の位相により電磁気現象として表れるとの考えの基、位相変換を行うことにより空間に表れる”力線”の形状を特定、「第3起電力のエネルギー源について」としてまとめました。基本は双極ながら片方の極が無限遠に消失しています。渦ありなのに発散ありで単極のように振る舞う距離の7乗に逆比例する力です。2011年。
- カミの仕組み・・・・ヲシテ文献と紡錘図形からわかりました。わかりやすく言うと、自然は別の次元軸からの投影による映像だということです。宇宙の中心は、別の次元軸上に2つあり、ここから2つの心(タマ+シヰ)が来ています。精神科学の根幹です。2016年11月8日『縄文哲学の「カミ」と弧(Ark)の関係について』
- 自然科学は循環・・・・量ではない時間を用いた循環です。岐阜にある山崎弁栄記念館の資料から「外のない内」を知りました。自然科学は循環・ループ・ネットワークであり、外のない内です。2018年9月3日『「 わかる 」の方向性について』
- 岡潔による第1の心は循環・・・・「意識を通し言葉で言える」という言葉自体が循環・ループ・ネットワークであり、外のない内です。これにより自然科学だけが問題なのではなくて、如何なる思想も科学も宗教も説明すればするほど抽象に至ることがわかりました。循環だから第1の心では何も説明し得ないということです。弧理論による社会科学の根幹で、2019年にわかりました。人類は、物事をより詳しくすることが文明の発達だと勘違いしています。単に抽象化しているに過ぎないことに気づいていません。2つの心の乖離が問題です。 2019年11月20日『数学者岡潔「 2つの心 」・・・頑としてわからぬ人たちが居る
』 - 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。・・・・自然は映像でして、別の次元軸上にある実体の異なる面が人の感覚でわかる物と事として表れています。2020年春頃にわかりました。自然科学は物と事の区別がついていません。混同しています。自然科学のわかりにくさはここにあります。
- 境界空間・・・・混ざり合わない2種の液体(ex.灯油と水)の境界である2次元平面には物の量も事の質もありません。だからといってポテンシャルはあります。この境界は「エーテルはないがポテンシャルはある」という状態です。この境界平面を拡張すると境界空間になります。2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。』
上記5.と6.が今年の2つの 発見 です。特に6.の境界空間は、長らく考え続けた結果出てきました。2013年から2015年にかけて行った単極誘導モーターにかかる力学的特性を調べる実験の結果、感じた疑問から来ています。
当時から「接するとは何か?」ずっと疑問でした。私たちがいる空間そのものが何かと何かが接触する空間だったのです。(たぶん) だから、エーテルはないがポテンシャルはあるという状態だったのです。真空には何もないがポテンシャルはあるのです。これなら納得ですし、長らく疑問だった外村彰氏による実験「電子波で見る電磁界分布 【ベクトルポテンシャルを感じる電子波 】」についても訳がわかりました。
エーテルはないがポテンシャルはあるという状態について、いくつか気になります。
- 基準となる物はありませんので絶対静止はありません。これだと相対性理論は不要です。物と物との間には相対的な運動があるだけですし、空間は我々にとって外のない内です。観測可能な範囲の総量と内訳は決められ、かつ総量は保存しません。(何せ、自然は映像ですから。)勿論のこと、時間は量ではないので相対性理論はまちがいです。モノサシは光速度ではなく空間に直交する別の次元軸にとればよいです。
- 空間が何かと何かの接触によりできたとするならば、遠隔作用はあり得ます。管理人が2011年に見つけた発散トーラスについて。発散トーラスは基本、双極だけれども一方の極が位置を持たないという特性があります。発散トーラスは単極のように振る舞います。”位置を持たない”という表現は、 2016年7月19日の『太陽が地平に沈むとき「陰」は無限長になる』から出てきます。別の次元軸上にある実体が静止の位置(M軸に直交する位置)に戻ろうとするが故に電子は運動せざるを得ないという特性があります。
補足。「位置を持たない」とは物と事は、別の次元軸上にある実体とつながりがあるということを意味します。言い換えると実体は空間にいる我々にとって「位置を持たない」ということです。実体は地球の裏側にも月の裏側にも100光年先にもつながりがあるということです。すべてはつながっているということ。ある出来事がAからBに伝わるというより、AとBに同じ出来事があるということが起こりうるということです。例えば、A氏が何かを考えたとき、B氏はA氏が考えたことが何であるかをわかるということが起こりうるということです。たぶん過去記事に書いた記憶がありますが、想念は位置をもちません。自然が映像ならば、こういったことが理論的に可能だと言うことです。
過去記事に書いた記憶がありますが、物質を構成する3つの基本粒子(陽子・中性子・電子)は、宇宙に各1個しかありません。陽子は完全無個性であって、状態が変化するだけと考えます。実体から見れば、映像である陽子は1個しかありません。ですから、管理人の身体にある原子核の内の陽子1個を今、記事を読まれている貴方の身体を構成する原子にある陽子と交換してもまったく変化(区別)はありません。映像だと考えると陽子は1種類ではなく、1個しかありません。
境界空間について考えると自然がまったく異なったものに見えてきます。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。