丁寧に言えば、(物質的)自然が弧理論による別の次元軸からの投影による映像ならば、「接することにより力が伝わることはない。」つまり、 近接作用 は決してあり得ません。つまりは映像としての物理世界は遠隔作用によるしかないということです。そう考えざる得ません。
ご存じのように物理学は近接作用として組み立てられています。しかし、この考えには無理があります。
図1 物質粒子と力を伝える粒子で説明される。
素粒子は孤立波(ソリトン)です。”波”は干渉しますが、波同士が接するということはありません。そもそも量ではない時間を光速度に置き換えて、孤立波の質量mをE/c2で求めているのですから間違っています。エネルギーや光速度に時間を含んでいますので自然科学は間違いです。注:量ではない時間を光速度に置き換えたのが相対性理論です。
図2 自然科学の全体は循環である。循環は、時間が原因ではなく第1の心の特性による。
ところで、数学者岡潔は講演録「【3】西洋の唯物主義」で次のように述べています。
大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。
別のところでは「少なくとも生まれては消える(素粒子の)一部は映像と言ってよい。」とも述べています。
この記事では、2つの説明をします。後半はかなり難しいです。
(1)管理人は2012年から2014年頃まで、主にマイケル・ファラデーが発見した単極誘導モーターにかかる力学特性について実験しました。その中で疑問に思ったのは物と物とが「接する」とはどういったことなのかということです。
動画1 力は電極が接することで生じている。単極誘導の現象は「回わす」機構がない本質的な回転運動。
以来、「接するとは何か?」という疑問を持ち続けてきました。指で机を擦ったとき、「指の表皮を構成するタンパク質の原子の外側にある電子と机の樹脂を構成する云々・・・」といくら考えてもわかりません。
量子力学に無理がある上に、本質的な限界があります。
図3
接するとは距離がゼロであるということです。では10-45メートルの距離ではどうでしょう。プランクの長さ未満は物理的意味合いがなくなるということのようです。しかし、接してるかというと決して接していません。距離がゼロではないからです。
では、映像として「接する」ということについて考えます。参考2019年10月7日『映像における「 接する 」ということ』
Newton’s cradleという玩具があります。
GIF 1 出展:https://gifer.com/en/7gDy
別の画像ですが一部を拡大します。
写真1
映像としてわかるのは、画素だけです。この映像では画素が並んでいるのであってボールが接しているかどうかを確認できません。距離がゼロであるかどうかに意味はありません。つまり、ボール間で力の伝わり方が近接作用かどうかわからないということです。残るは遠隔作用と考える以外にありません。何故なら、人の感覚でわかる電磁気力や重力が遠隔作用だからです。何も無理はありません。量子物理にむりがあるとある科学者は次のように述べています。
たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。
心に描けないことは致命的であると述べています。だから自然科学の行き着くところ、たとえ理論と実験の間に合理的で整合性があるとしても、その理論の全体は抽象であって致命的だという指摘です。ある科学者は別のところで、電子が別の次元軸上からの投影による映像だという説明をしています。これについては省略します。
(2)岡潔は「人には心が2つある」としました。第1の心と第2の心と名付けました。
- 第1の心。意識を通し言葉で言える。私という心が入らねば決して働かない心。ヲシテ文献のタマシヰのシヰに同じ。生命維持の欲求。時の過去。動画がわかる。物の動きがわかる(わかるの※1)静止画(※2)の変化を記憶することが必要だから、処理系としての肉体(阻害性のある映像)が必要。
- 第2の心。意識を通さず言葉で言えないがしかし、情の働きにより何となく物の趣おもむきがわかる。ヲシテ文献のタマシヰのタマに同じ。心の本体。時の現在。映像としての静止画がわかる。(わかるの※2)
図4
第1の心(タマシヰのシヰ)は、動き(運動:時の過去)を言葉で言えるということです。ここで言葉は「互いに規定し合うことにより成り立つ、循環・ループ・ネットワーク」です。管理人はこれを外のない内と呼んでいます。(ですから、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てないです。)
例えば、次の写真です。
写真2
これを辞書で調べてまとめると次になります。
図5 スプーンは匙。匙はスプーン。
人は写真2が何であるか言葉でわかっているのではありません。言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ、循環・ループ・ネットワークだからです。
では、「接する」とは何かということです。
- 接するとは離れていないこと。
- 離れていないとは接しているということ。
第1の心、即ち言葉で言えてもイメージができません。これを数に置き換えたのが冒頭の「距離がゼロではない」ということです。つまりは、第1の心(シヰ)の特性から接するということは決してわからないのです。この表現は岡潔による「自然数の1は決してわからない」と同じです。
動画2
ここからは補足です。今年、弧理論による境界空間という仮説を出しました。初めての記事は2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。』 からで、検索すると7件ヒットします。しかし、考え方は動画で解説を始めた春頃に遡ります。ただし、冒頭に示したとおり場の量子論を拡張してもそのまま境界空間にはならないようです。ですから、9月28日の記事は訂正が必要です。あくまで人の心の仕組みと働きが別の次元軸上にあるから、その結果が映像として表れるということです。だから、どのような観測をしようと理論を構築しようと第1の心の特性から外れることは決して無いのです。つまり、第1の心の特性に合致した自然しか私たちにはわかり(※1)ようが無いのです。わけることによりわかる(※1)には限界があるということです。本当のわかる(※2)は別にあるということです。
また、接するとは何かという疑問を初めて出したのは2014年3月12日「N極とS極の間には何があるか? 」あたりになり、過去記事が52件ヒットします。弧理論による境界空間仮説によれば、今この記事をお読みの貴方の居る場所と月の裏側との隔たりは問題ではありません。投影による投影角のわずかな違いでしかないからです。力は遠隔で伝わります。このあたりの説明を動画『岡潔の”空間”。弧理論による”境界空間”仮説。外村彰氏によるベクトルポテンシャルについて』として制作中ですが説明に苦心しています。
追記 ある科学者が云った「一つの実体」について、実体とは弧理論による別の次元軸上にある「アワ」であるようです。漸くわかってきました。
君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。