自然を科学しようとする際に、人は 還元主義 と 唯物主義 の立場をとります。注:この記事の前提は長いです。
- 還元主義 ・・・・物や事を”わける”ことにより”わかる”とする。「わかる」の語源は「わける」である。
- 唯物主義・・・・岡潔「(人の)五感でわからないものは無いとしか思えない。」(【3】 西洋の唯物主義)
地球上の科学者のほとんどは、上の立場、主張をもって科学に取り組んでいると思います。ところが、人には心が2つあります。上の 還元主義 と唯物主義は、2つの心の内の一つでしかありません。岡潔は2つの心について次のように述べています。
- 第1の心・・・・わかる※1。理解あるいは物の理ことわりという。そのわかり方は、意識を通し言葉で言える。
- 第2の心・・・・わかる※2。心の本体は「情」である。そのわかり方は、意識を通さず言葉で言えないがしかし、そのものの趣おもむきが何となく直にわかる※2。
※1のわかるが還元主義です。必ず言葉で言えます。第2の心がなければ、一切は存在しません。2つの心については、過去記事を参照いただきたく省略します。唯物主義者には、”意識を通さず”などという第2の心など存在し得ないことは明白です。
還元主義 について、過去記事にありますが再掲します。
これは何かと問われたとします。
写真1
当然、スプーンです。では、スプーンとは何かを問われたとします。ここで国語辞書をひきます。「洋風の匙」とあります。すると今度は洋風の匙とは何かと問われます。また国語辞書をひきます。以後、単語を辞書でひいて、関係図を作ると次になります。
図1 第1の心は「外のない内」
つまり、スプーンは匙であり、匙はスプーンです。どんどん詳しくすると写真1のイメージは霧散します。そして、遂には、「物とは何か?」という問いに行き着きます。図1でわかるように、言葉は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環でありネットワークに過ぎません。
人は写真1が何であるかを意識を通す言葉でわかっている(※1)のではないのです。これが第1の心の特性です。 本当の”わかる”である※2は、別にあります。管理人は第1の心を「外のない内」と呼んでいます。岡潔は「【1】2つの心」で第1の心について、次のように述べています。
人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。
岡潔が言った「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」というのが図1に示す外のない内です。ここで、言葉には数学も含みます。つまりは、第1の心は、数学を用いるにしても用いないにしても、如何な理論も図1の範囲を超えることは決してありません。
対して写真1が何であるかを第2の心、※2で(わかる)のは、具体です。そのものの具体です。これは「意識を通さず言葉で言えないがしかし、それが何であるかを何となくわかる(※2)」のです。
余談です。岡潔自身がこのように述べていながら、唯識論に嵌まったのは仏教を丸呑みしたからだと考えます。心の仕組みと働きを階層にわけてわかろうとしたのは間違いです。
第1の心の特性として、あげられるのは、「わけて理解する」ということで、これには際限が無いということです。その行き着く先は抽象です。わければわけるほどわかりません。第1の心の特性「わけることによりわかる」のは抽象です。まとめると第1の心の行き着く先は抽象であり、第2の心は具体から頑として動くことはありません。2つの心について(具体と抽象)を横軸にとって図にしました。
図2 弧理論による社会科学の基礎
左に示した第2の心による具体から右に示した第1の心による抽象は、ありとあらゆる人類の活動のすべては、「人類の進歩と発達」という名の下、抽象化の極地へ到達しつつあります。おまけに自然科学は量ではない時間をパラメータとする循環です。よりわかりにくくなっていて、気付きにくいです。
図3
第1の心は、時の過去であり記憶の仕組みが必要です。しかし、第1の心には記憶、即ち情報を蓄えて処理する働きが別途必要なのです。これが肉体です。この件に関しては過去記事にあり、省略します。参考図のみ示します。
図4 第1の心には記憶が関係する。
まとめます。第1の心は「物や事を”わける”ことにより”わかる”」としますが、図1に示すように、そもそも誤解です。ほとんどの科学者は心が2つあることを知らないからです。如何なる精密、緻密な理論であっても、目的は達せず何も説明し得ないことは明白です。
第1の心の特性として「図4下部:生命維持の欲求」があります。冒頭に引用した岡潔が「笑いカワセミのようにうるさい」といった部分です。こうして、第1の心は抽象へ向かい、第1の心は具体から動かず、2つの心は乖離します。これにより人は心を病むのです。
第1の心を処理するのは肉体である大脳です。その大部分は大脳皮質によります。コンピュータは、処理速度と大量のメモリ(記憶装置)があればいくらでの処理できます。メモリーが多ければ入れ子(ネスト)も無限にとれます。しかし、処理系としての人間の脳(大脳皮質)は、有限でその複雑さに耐えきれなくなるときが必ず来ます。これが2018年3月27日の記事「 宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」に提示した疑問の答えです。
やっと言いたことにたどり着きました。
大脳皮質は、論理の複雑さやネストの深さに耐えきれなくなり、やがて衰退、退化?、衰弱?、麻痺することにより、人が本来もっている「生命維持の欲求」がむき出しになってきます。たとえ、人が高等教育を受けて理知的で理性的であっても、大脳皮質が弱ってくるから、古い皮質にある動物的な衝動が勝ってきます。 芸術家や音楽家の内には、より創作のインスピレーションを得るために覚醒剤に手を出す人がいます。それは神経や精神が麻痺しているからです。根源的に似た関係があるかも知れません。
アメリカでは多くの子どもが行方不明になります。小児性愛の対象になっていることも多いようです。このおぞましい数々の事件の犯人は必ずしも無教養で粗野な人間とは限らないです。
これまでの考察によれば、人類のトップは超大富豪でもありますが、本当のトップはもっと猟奇的で変質的で気持ち悪い者達のようです。大量の殺人に嫌悪を抱かない気持ちの悪い存在のようです。これが何なのかよくわからずに来ました。参考まで、右検索欄で「悪魔崇拝、サタニスト、ヴードゥー教」で検索ください。2015年頃からの記事がヒットします。
62名の超大富豪が地球の富の半分を持っているとしても、量の裏付けのない単なる数字に単位の$の記号を付けただけですから、彼らも$の梯子を外されたらおしまいです。本当のトップは別にいるはずです。
しかし、唯物主義がなぜ、共産主義になるのかいまいちわかっていません。いずれにしても還元主義で突き進むと大脳皮質が麻痺して、理性を突き破る衝動性が出てくるというのは唯物主義が原因です。
茂木誠氏によれば、唯物主義は「非宗教という宗教」に至るといいます。本質的に自己矛盾を抱えているのですから救われないです。
岡潔的言い方をするならば、「唯物主義者は、五感でわからない神仏は無いとしか思えない」のですから、これはある種の宗教です。自己矛盾な訳です。
小児性愛や攻撃的な衝動が強くなくてもIT関係者にうつ病が多いのも頷けます。第1の心の表れである大脳皮質機能の低下とともに第2の心の低下を伴うかも知れません。グリゴリー・ペレルマンの近況について性格がかわったと言われます。それから、ここで言いたいのは、数学がダメというのではありません。何事に付け、人の思考というのは、循環・ループで堂々巡りに陥るかも知れないということを注意しようということです。相対性理論が出て110年以上経ち、自然科学が循環・ループ・ネットワークであることに気付いてよいはずと考えます。
追記2/5 ずっと以前、ベンジャミン・フルフォードが言っていた悪魔崇拝や小児虐待について、今や一般的に知られるジャーナリストの篠原常一郎氏がカルトの話題として対談しています。やはり現実だったとは衝撃です。
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